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タロット占い師のetc

「お片づけ&処分の写真」〜60歳からのわがままタロットセラピー1

60歳からのわがままタロットセラピー

=やりのこさないために=

=ご都合主義シニアのアジール

  

義母の葬儀のときの話です。

義母の知り合いだという80代後半か90代前半と思われる女性が私と夫にこう語りかけてきました。

「すっかり片づけてぜんぶ処分してしまったので、写真がないの」

 

実は東京にいると分かりにくいのですが、葬儀というのは地方によって様々な伝統や形式、流行があるのだなということを実体験する機会でもありました。

十数年前の義父のときとは随分と様式が違っていました。義父のときには寺を使いましたが、今回はいわゆるセレモニー会館にお坊さんが来ました。

もちろん父と母では参列者の人数も違うでしょうから、一概にどうのこうのは言えません。そもそも私は東京生まれなので、地方の慣習はさっぱり分からないのですがどちらかというと、東京のそういった儀式はもっとあっさりしているように思います。これまでに見てきた葬儀の有り様を思い浮かべてのことなので、あくまでも私の個人的な感想ですが。

慣習をさておいても、こちらでは葬儀関係の仕事、商売がたいへん盛んだということを義妹の夫から聞きました。

家族全員で安心して故人を見送るということなのか、遠方から来る人のためなのか、宿泊施設まで完備されている会館でした。コテージまであります。私も、コテージではありませんでしたが(コテージにしたかったが取れなかったとのこと)、この施設に泊まって最後のお線香番をしました。お線香が途切れないようにすると言っても、一晩萌え続ける長い螺旋状の線香があるので、本当に寝ないで線香を絶やさないということをするわけではありません。なかなか合理的で、これって便利ですよね。

 

さて、処分してしまった写真の話です。

この義母の葬儀では、まるで結婚式か卒業謝恩会の如くの演出が用意されていました。孫たちからの思い出と感謝の作文を発表する時間や、長男(喪主・私にとっては義兄)が綴った母への思いがプロのナレーションで流れる、義母の人生を振り返って偲ぶアルバム上映会までありました。

冒頭に書いたエピソードは、この儀式のあとのお食事会でのことです。

「最近、断捨離してね、写真をぜんぶ処分してしまったの。だから遺影の写真もない」

私は、え?と驚きながら、ちょっとだけユーモア的に受けとめていました。

写真まで、しかも全部捨てちゃうんだ、と。

思い立つところがあって「片づけと処分」という作業をされたのだと思います。ここ数年、そうしたお片づけブームは途切れていませんし、いわゆる「終活」は広く推奨されて、ドラマでも多く描かれています。この女性の場合は、年齢的にも終活の一貫だったのかな、と想像します。

 

思い出のアルバム上映会はともかくも、遺影についてはおそらく誰しもがその日が近づくにつれて考えるのではないでしょうか。

誰かの葬儀に参列するたびに「あ、自分の遺影はどうしよう、遺影に堪える写真あるかな」などと思いを巡らせたりします。あるいは実際に、自分の父母の遺影探しにアルバムを引っ張り出して葬儀屋と相談しながら、あれやこれやと苦労したり揉めたりした経験がある人もいると思います。あまりに若い写真でもおかしいし、だからと言って死ぬ間際の写真もどうかと思う。あるていどはつらつとした写りのものがいい、とたいていは考えます。

葬儀も写真もお墓もなくていい、という人も少なからずいるのはご時世でしょうか。私自身もどちらかと言えばそちらの側ではあります。とは言え、遺族がどう思うか、ということもあります。そう考えると、遺影にできる写真の一枚や二枚は探し出して、あるいは撮影して、決まった場所に保管しておく必要はあるのかもしれません。だとすると私もはたと困ってしまいます。写真の処分はまだしていませんが、遺影用に残しておけるような、おきたいような写真は多分……ありません。

そもそも私、写真を撮られるのが好きではありません。美人でもない顔を残すのも嫌ですし、それを見るもの嫌いです。

 

余談になりますが、ちょっとトラウマがあるのですよね。友人の結婚披露宴にお呼ばれして行ったときに、そこで撮影された写真をのちに友人から受け取ったのですが(カメラマンさんがあちらこちらでパチパチと撮っていたものです)、そのとき、友人がこう言ったのです。「ごめんね、上手に撮れてなくて」と。カメラマンの腕前ではなく、単純に私の顔が醜いのでそう言ったのです。それは写真を見れば一目瞭然でした。友人は意地悪で言ったのではないでしょうが、そう言われたほうはそれなりに落胆しました。行かなきゃよかった、と正直思いました。そう思うにはそこまでの経緯もいろいろありましたからそれが唯一の原因というわけではありませんが、私の写真嫌いの大きな要素のひとつです。皆様もぜひ言葉には気をつけてくださいね。

こういったネガティブな思い出も「お片づけ&処分」作業のなかで緩和していきたいものです。それも、このエッセイのテーマのひとつです。「お片づけ&処分」には「思い出/記憶」がもれなくついてきます。物理的な処分と精神的なケアは必ずしも同時進行ではありませんが、互いに連動しあっています。

 

閑話休題

その女性は「断捨離」と言っていました。このワードは、ひとつのパワーをもって広まっていますが、「断捨離お片付け術」の提唱者であるやましたひでこが商標登録しているらしいですね。が、そもそもはヨガの行法、ということです。

断行「入ってくるいらない物を断つ」

捨行「家にずっとあるいらない物を捨てる」

離行「物への執着から離れる」

Wikipediaより)

 

私のタロット占いセラピーでは「死神幸福論」をお伝えしていますが、断捨離は「No13死神カード」の本領です。

断ができていれば、捨と離は究極的には不要な概念です。しかし、俗世での生活はそこまで清貧、無欲でいることは不可能です。庵でも結んで、隠者な暮らしでもできればよいのですが(「隠者」はタロットカード「No9」)。もちろん自宅を庵のようにすることはできます。そこには、必要最低限の物だけあり、時計やフィギュアやアクセサリーといった類のコレクションなどは当然ながら見当たらない、と思います。すなわち「執着」するようなものを所有しない、ということです。執着をタロットカードでお示しすると「No15悪魔」です。

清貧とまではいかなくても、現代で言えば広告に踊らされた不必要な浪費・消費生活ではない質素倹約な生活、そこを目指そうとするのが「断捨離」なのだと思います。

 

ここでは、断捨離という言葉は使わず、そういった作業のことを「お片づけ&処分」と言わせていただくことにします。

 

義母の葬儀から半年ほどが過ぎ去ったころ、世間ではCOVID19による自粛生活の間に「お片づけ&処分」が流行っていつもより多くのゴミが家庭から出されたという時期からいささか遅れて、私自身、家族に促されるようにして家の片づけをすることになりました。言わずもがな、大量のゴミが出ました。

 

さまざま処分していく過程で、ふと思いました。

写真です。

子どもたちの写真は本人たちに残しておくとして、自分の写真はどうなんだ?子どもといっしょに写っている写真の処分は本人たちの晩年に任せるとしても、私自身の子ども時代、学生時代の写真、卒業アルバムも含めて、残された家族たちに必要か?という思いが過ぎったのです。

私にとっては思い出ですが、他の家族にとっては思い出でも何でもありません。見たこともない顔や景色が写っているだけ。それでも、お母さんはこんな風だったんだなという情報を得たり、あるいは、昭和の生活や町並みの研究には役立つかもしれません。

例えば私が著名人だったりすれば、それらには何らかの公的な価値が発生するやもしれませんがそうではありません。

けれども写真というのはなかなか捨てられないもののひとつです。ましてや親の写真となれば、破ってゴミ箱へ入れたり燃やしたりするのは気が引けるでしょう。また、人形のように写真には魂が宿っているような気がする人もいることでしょう。そうではなくても、真影とか肖像とか言うし、呪詛にも使ったりすることを勘案すると、手に負えない感じもしないでもありませんよね。 

 

よって、私はできるだけ自分の手でケリをつけようと思いました。私の死期が近づいたらそれらを処分しよう、と思ったのです。

ですが、ゆっくり死が近づいてくれればよいのですが、死は突然やってくるかもしれないので、できなかった場合に備えて家族にはそれらを処分してもらうように伝えておくことにします。ですので「私が死んだら処分」という部類に入れておきます。

「死んだら処分」は「死ぬ前に処分」でもあります。できれば死ぬ前に処分するほうが理想的です。写真以外にもその類いの物があります。おそらくこれから自分の死までの間に、まだ一度か二度はお片づけをするチャンスはあるでしょうから、そのときにもう要らないなと感じるようになったものからその都度処分しながら死に向かっていく、という感じになると思います。まだやはり60代になったばかりですと子ども時代のアルバムなどは捨てられません。とは言っても、あらためて落ち着いて眺めて楽しむ、などということも、おそらくたぶんもうほぼ限りなく100%に近く「ない」と思うのですが。

昔はアルバムをめくりながら写真を見るような時間や余裕があったように思いますが、最近はありませんね。テレビドラマを決まった曜日・時間に観たり、ゲームを大画面で腰を据えてやったりするための連続した長い時間、というのもなくなりました。今も昔も同じ24時間なのですが、生活様式の変化というのは、あらゆる面に影響するものなのですね。まあ、撮影した写真をわざわざ眺めたりしなくなったのは、単に年齢のせいなのかもしれません。子どもたちが幼い頃には、眺めてましたから。

 

遺影くらいは残しておいてもいいかなと思いますが、デジタルになってから写真らしい写真は撮っていないので、ちょうどいい按配の様子の写真がない、というのが現状です。

それについてはこれから考えたいと思います。そもそも遺影など必要ないかもしれませんし。思い出として家族写真が手元にあれば十分では?私の身勝手な結論ですが。

 

私が死んだあとのことは残った家族に任せることも大事ですね。配慮しすぎてもはじまりません。私の思いをあらかじめ伝えておけば、あとは彼らがしたいようにすればいいことです。死への途中のこと、例えば延命治療をするかしないかなどのことも含めて。

 

それにしても、あの女性、本当に一枚も写真がないのでしょうか。ご家族の誰かのところにはあるかもしれませんね。

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