ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「アリとキリギリス」〜労働と仕事と過労と〜

「アリとキリギリス」は、よく知られたイソップ寓話だ。

もともとは「蟻と蝉」。

 

幼いころ絵本で見たのはもちろんだが、私は、英語の教科書で読んだ記憶がある。読んだだけではなく、暗記させられて、授業中にクラス全員が暗唱させられた。先生から合格がでないと再挑戦しなければならない。中学2年生の懐かしい思い出だ。

 

アリは夏の間一生懸命働いて食料を蓄えておいた。

一方、アリがあくせく働いているのを横目に、キリギリスは夏の間楽しく歌を歌って過ごしていた。

やがて冬がやってくると外には食べ物がなくなった。

困ったキリギリスはアリの家を訪ねて、食べ物を分けてもらおうとしたが、アリは「冬には踊ったらどうだい?」と言って分けてくれず、キリギリスは死んでしまった。

 

とても短い物語だ。

 

キリギリスのように遊び暮らしていると将来たいへんなことになるよ、というのがごく自然な教訓ではないかと思う。予備知識なしでこの物語を読んだとき、おそらくたいていの人間が、怠けないで仕事をすることが大事なんだな、と少しばかりの人生への恐れとともに受け取るのではないか。人間社会では、食料の蓄えは金銭に置き換えられるだろう。

 

もうひとつの解釈がある。

アリのようにせこせこ働いてしこたま溜め込んでいる人は、吝嗇で無慈悲なので誰も助けることがない。

 

前世紀では、「働かざる者食うべからず」は尊い言葉のように聞こえていた。若者への戒めにも十分だった。

だが、労働と仕事の違いについて(これは、すでにシモーヌ・ヴェイユの「工場日記」などを読むと感じ取ることができるが)多くの知識人たちが書いたり話したりするようになって、いよいよ21世紀では「生きる」という観点から労働と対価について違和を感じる人たちがむくむくと登場してきた。

ゆえに、「アリとキリギリス」の単純な教訓の価値は薄れていくのかもしれない。

 

あるいは、アリのようにケチで人助けをしない資産家や成金は、宗教的慈しみの心がないせいなのか、日本には多い。最近とくに多い。テレビで盛んに主張している人もいる。自分は努力して金持ちになったのだから、貧乏なのは努力してないせいなのだから、自分が助けてやる必要も、国が助けてやる必要もない、と。自業自得、自己責任、と声高に叫ぶ。金のないヤツは大学に行くな、とまで言う。 

この童話(寓話)を読んだとき、読んでもらったとき、

「アリさんってひどい、キリギリスさんがかわいそう」

と思った子どもはいなかったのだろうか。おそらくいたはずだ。

 

童話や昔話というのは、けっこう怖い内容を含んでいるものらしく、「ほんとうはこわい○○」という本がベストセラーになったことがあった。子ども用の絵本にするときに内容は結末をかなり変えている、ということを私も大人になってから知った。

特に最近では、その変更がさらに進んでいるようで、仲良くなりました的にハッピーエンドで終わるようにしているものが多いと聞く。

さしずめ「アリとキリギリス」なら、もちろんアリさんは親切にキリギリスさんを家へ招き入れてお食事しました、という大団円だろう。

誰にでも親切にしなきゃいけないよ、という教訓になるのかもしれないが、ストーリー展開的にはちょっと不自然なのかもしれない。イソップのそもそもの思惑があってのものだろうから。

けれどもこの展開だったら、上記の成金たちは目を釣り上げて言うだろう。それおかしいでしょう、と。

 

ゆえに、これは大人の誰か、とくに怠けほうけている誰かへの教訓にはなっても、子どもたちの精神衛生にはあまりよくないのかもしれない。純真無垢な子どもたちには、困っている人がいたら助けてあげよう、という物語のほうが健全な情緒が育つというのもだ。

今夏の水害では、避難所でホームレスの人やペットを追い出すというニュースがあった。地域住民じゃないから、税金を払っていないから、臭いから……という理由だそうだ。

これも現代版「アリとキリギリス」だ。

 

これも、と書いたのは、なんとも21世紀らしいバージョンを見つけたからである。

道家で思想家の内田樹のツィートから。

(略)「働き過ぎ」ですと叱られて、「アリとキリギリスの話」を聴かされました。

夏の間必死に働いて食べものを蓄えていたアリのところに遊び暮らして食べものがなくなったキリギリスが「ご飯ください」と泣訴してドアを叩いたが返事がありません……。

そっとドアを押し開けてみたら、アリたちは全員過労死していました。

キリギリスはアリさんの家に入り込んで、アリさんの蓄えたご飯を美味しく頂いて愉快に冬を越しましたとさ。

というお話でした。

「諸君はすべからくキリギリスたれ」と説諭されました。

内田らは、好きな仕事して生きていらっしゃるので、ごく普通のサラリーマたちとは較べられないと思うし、内田樹のような人々は、仕事をしながら死んでもそれが本望だくらいの気持ちではないかと推測するが、それでも働き過ぎはよくない。ファンの立場から言わせていただくと、できるだけ長く生きて多くの発信をしてほしいので、そのためにお身体を大事にしていただきたい、という身勝手な希望がある。

いずれにせよ、この「アリの過労死」は本気で現代版だ。

「キリギリスたれ」には様々な意味が込められていると思うが、ひとつには、私は「自分の好きなことをしなさい」と受けとめた。

 

先日、NHKラジオ深夜便」で、「何のために」という歌を聴いた。

はしだのりひこザ・フォーク・クルセダーズ)の歌だ。

こんな歌があったんだ。あまりにすごくて目が覚めた。

歌詞を抜粋する。作詞は北山修

……

何のために 何を夢見て

歯を食いしばり 働いて死ぬのか

……

何のために 何を信じて

歯を食いしばり 戦って死ぬのか

……

何のために 何を求めて

傷つきつかれ 年老いて死ぬのか

汚れた顔にほほえみうかべ

男はやがて 息絶えた

 

衝撃過ぎる歌詞に、深夜3時過ぎだったがこれ以降、眠れなくなってしまった。

約50年くらい前の楽曲だと思うが、2019年の今こそつくられてもおかしくない歌のように思う。が、世間一般と若いアーティストたちの間では、この辺りの感情は日本国によって上手いこと封印されている模様。

いまだに「風邪でも休めないあなたに」という薬のCMが流れるテレビ。その傍らで、仕事がなくなると思ってインフルエンザでも休めなかったバス運転手が起こしてしまった事故で、一人の無関係な人が死んでしまったというニュース。この運転手が勝手に仕事がなくなると思い込んでいたのではなく、おそらくこの会社ではそういった社風があったのだろうと推測できる。

 

人間ってなんだろう、

ってなことを考えている人は世間から脱落させられていく。

そんな繊細さとともに特別の才能や世渡り術を心得ている人、例えば内田樹北山修はしだのりひこのような人たちが世に出ていくしか、人間の繊細さを守る方法がない。

ところがいったん金や名誉を手にすると、人間が変わってしまうという元繊細人間の凡人悲劇が一方である。欲に負けてしまった人たち。

 

2500年以上前イソップは、「蟻と蝉」が「アリとキリギリス」になり、さらに「アリ」が「過労死」すると想像できただろうか。

この寓話は「あなたならどうしますか?どう感じますか?」という道徳教育ならぬ心理テストなのかもしれない。

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「アリとキリギリス」 @kinirobotti