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権威主義と自由〜孤独と恐怖ゆえの……

 ここ10年ほどの間に、言葉の意味を体感する出来事を頻繁に目にしてきた。それは、言葉やルールの破壊とともに起き続けていた。その具体例と詳細は別の機会に譲るとして……。

 先般も同様の場面に遭遇した。ある政治がらみの討論(討論とまでは言えないかもしれないが議論とは違うので討論かな)番組内でのことである。

 ある出演者の発言と様子を見て、「権威主義」という言葉が脳裏を過ぎった。

 こういうのを権威主義、っていうんだな、とありありと合点がいった。

 

 権威主義というのは、民主主義と独裁の中間にある。すなわち、独裁は権威主義の次にやってくる、とどこかに書いてあったのを思い出した。なるほど。

 そして、権威主義について簡単に調べてみた。すると「権威主義的パーソナリティ」という表現が出てきた。そうかあの人これなんだ、と直感した。

 

 いや、その人の言動を見ていきなりこれがそうだ、と徹底して理解したわけではない。なぜこの人はこういう言動を示すのだろう……という疑問が、私をそちらのほうへそちらのほうへと駆り立てていったのだった。

 私の疑問は、ある意味当たっていた。

 エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」のなかにそれはあった。「第五章 逃走のメカニズム 1権威主義」のなかにその人を見つけた。そこを読み進んでいきながら、あ、あの人のことが書いてある、と驚異だった。あの人がそうなる背景と心の様相が、見事に描かれていたからだ。

 心理(精神)分析というのは侮れないものなのだな。いやいやもちろん、決して侮ったことなど一度もない。感心しすぎた感嘆の表現である。

 

 政治学者の中島岳志がどこかで言ってことを思い出した。

 三原じゅん子参議院議員のことである。三原が、八紘一宇だとか安倍元総理を崇拝しているような、ちょっと尋常でないカルト的な発言を数年前に国会でしたことがあった。その辺りのことを踏まえて、三原は本気でその観点から日本を統一して強い国にすることを望んでいるのだ。それは三原自身の病気も含めて辛い出来事の数々を体験し、自分自身も孤独や恐怖から守られたいという強い願いが背景にある、というようなことを話していた。なるほど、単なる選挙目当ての忠誠心ではなく、しかも心の底からそう思っているのは、国民云々の前に本人が守られたいからなんだ。もちろん、そうすることが国民を守ることだと思っているだろう。

 また、公明党についての解説も興味深かった。なぜ政権政党にすり寄るのか、入るのか。自民党とは思想的に相容れない部分が多々あるにもかかわらず。そもそも新進党とも手を組んだことがある。すなわち、政党はなんであれ、与党であることが大事なのだ。それはなぜか。公明党の支持母体である創価学会がかつて宗教弾圧を受けた経緯から、そういったことを避けるために与党と仲良くしておくという選択している、ということだった。ただただ権力が欲しいだけではなく、自分たち(組織)を守るためなのだ。中島の分析がなるほど過ぎだった。

 

 権威主義(的パーソナリティ)というのは、要するにそういうことなのだ。自分を守るために権威、権力側につく。それはそのまま武装になる。そして、居場所としての機能も発揮する。

 これは私の解釈だが、権威主義的傾向の強い人たちは、孤独や恐怖心が強い。ゆえにその思いの受け皿として政治や組織(人)を利用する。そのとき、当たり前だが自分のためとは思っていない。自分と同じように苦しんでいる人たちを助けるためだと言って行動を起こす。

 もちろん、さまざまな社会の理不尽を経験したのち、世の中を良くしたいという思いから政治家になったり、組織を立ち上げたりする人は大勢いる。そういったきっかけがあって、はじめて「人助け」や「世直し」的活動に意識が向く、というのが人間の常であろう。

 そのなかに「権威主義」の人たちが混じっているようだ。

 違いは何かと言えば、私流の言葉で言わせていただければ、本人が救われていない。艱難辛苦が十二分に残っており、善人を装った活動のなかに、実は復讐心が含まれている。ゆえに、敵対する相手には暴言を吐き、礼を失し、すでに権力とすり寄っている人間はその優越感から他の人々(考え方の違う人や本人に意見する人)を見下す。それはおそらく無意識なのであろう。そして、自分は誰よりも正しいと思い込んでいる。弱い人たちを助ける仕事をしているのだから(現にそうなのだが)、と。

 なぜそうなってしまうのか。いわゆる自己実現ができていないからだ。

 それはユングが言うところの「個性化」である。本当の自分自身になることができてきない。自分自身の暗黒面と対峙できておらず、簡単に言うと、それを隠すために誰か、あるいは大きな力に身を寄せて安心感を得ているだけだ。その安堵の場からあれこれ物を言う。

 多かれ少なかれ、誰もがその要素を抱え持っている。しかし、自分を捨てて服従できる人とできない人が、この世にはいる。ジャーナリストを目指すような人は、本来は個性化の道を歩む人たちだ。なのだが、近頃はそうでないジャーナリストもどきの人たちが増えているようだ。

 

 権威主義の人たちは、その顔にも言葉にも、優しさや思いやりというものが浮かんでおらず、傲慢さと緊張、ときに冷笑的表情が目立つ。私が番組内で目撃したその人もそうだった。以前見たときよりもさらに顔が良い顔ではなくなり、なんだったらちょっと歪んでいた。もうひとりの人は悪魔のようなシルエットだった。

 フロムが書いている権威主義的パーソナリティとシンクロする言動を具体的にあげることは可能だが、ここではそこまでのことはしないでおく。心理学者の方々にはとてもよい研究対象になるのではないか。ぜひ分析していただきたい。

 私は、第二の義家某が現れたな、と単純に思った次第であること付言しておく。

 

 人生のどこかで(たいていは生い立ちのなかで)「孤独感と無力感(「自由からの逃走」P169)」を感じると、それから逃れるために「魔術的助け手(同P193)」を求める。

 これは、思春期のあたりから誰もが体験する感覚だ。私が思ったのは、そのときに「魔術的助け手」を書物(特に古典)に求める人たちがいて、そういった人たちは権威主義的になることは少ないのではないかということだ(「我が闘争」などを選択した場合はヤバいが)。なぜなら古典のなかの賢者たちは、権威に抗ってきた人たちであることが多く、加えて孤独を求めてさえいた。そして、自分は無力かもしれないが、誰からも支配されない自分自身であることを善なることとしていたのではないかと思うので。もちろん、悩みはいっぱいあったし、そのほとんどに答えはないのだが。なにより読書というものは、自分の心で考える時間を与えてくれるものだ。

 誰かの権威や権力に「魔術的助け手」や安堵の場や砦を求めるとき、人は哲学、倫理の道から外れていくのかもしれない。

 

 要するに、私が目撃したその人は、本人の孤独と恐怖を解消するために政治権力に庇護を求めたところ、それが首尾よく受け入れられ、さらに権力の内部へといざなってまでもらえた。それは素晴らしい成功体験の学習だった。

 その人の傲慢な意見をあるジャーナリストが指摘すると、だからリベラルはだめなんだ(いみじくも権威主義的傾向を曝露)、すぐに排除する、と誤解もはなはだしく言葉と吐息を尖った口から吐き捨てていたが、私にはむしろ逆に見えた。そのジャーナリストは、あなたは権力の安全な場所から発言している、というようなことを言っていたが、その発言は正しかったのだと、エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」を読み返して思ったのだった。

 

 孤独と恐怖を受けとめて「私自身」と対峙することは、実はなかなか困難なことだ。孤独と恐怖から逃れるために、助けてくれるであろう誰かや組織にすがりたくなる。

 エーリッヒ・フロムの著作は「自由からの逃走」だが、孤独と恐怖は自由につきまとうものなのだろうと私は理解した。権威主義者というのは自ら自由を放棄している人たちであり、またそれは、すべての人間がいつでもそうなりうる可能性を持っているのである。

 

参考文献/エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」東京創元社

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