ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

なんか違う気がする〜例えば医術を信じない医師がいたら…

 近頃、さまざまなことがベールをはがしてその真実の姿(正体)をあらわにしてくる。いや、私があまりに幼稚で、今まで気づかなかっただけなのかもしれないが。

 SNSというツールが、そういった暴露を可能にしていることは否めない。

 

 普段の生活のなかだったら言わないような暴言を平気で書き込むことができる。わざわざその人の家まで尋ねて行って目の前で言ったりしないことをその人に宛てて目の前で言うことができる、そういう世の中になった、とどこかで読んだことがある。

 ドイツの哲学者(ボン大学教授)マルクス・ガブリエルも次のように言っている。

民主主義の機能は、裁判所が存在することを意味します。(略)民主主義社会では、ある条件下であなたが得られる法的正義は存在しています。

 (略)

私がソーシャルメディアを利用していても、私は法の支配によって守られてはいません。人々は、オンライン上では私を攻撃することができ、アナログな公共の場ではやらないことを、何があってもできるのです。(略)国民国家は、オンライン上で起こることについては、発言権がないからです。ですから、西部の未開拓地同然です。ネット文化がカリフォルニアから生まれたのも偶然ではありません。こうして西部の荒野が、民主主義の社会的形態に取って代わりました。これが、ソーシャルネットワークが必然的に民主主義を損なう理由なのです。

(「マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ」P41〜42)

 

 上記は、荒野のガンマンがいきなりやってきてバンと撃ってくる、そういう意味での攻撃であり暴露だ。もうひとつ、本音がいみじくも正体をあらわにしてしまう、ということがある。政治家の人によく見られる現象かもしれない。それが物議を醸すことが多々ある(それが本音なら、これが私の思想ですと撤回などしなければいいのではと思う。むしろ隠して善人ヅラされて有権者を騙して当選するほうがおかしい)。

 

 Youtubeなども最近は規制が厳しいようで、なかなか本音や微妙な事柄は発信しにくいシステムになっているようだ。社会問題や政治がらみはとくに。ゆえに、会費制の発信場所を設けると、そちらで自由自在に語ることができる。

 そういうことは実はアナログの時代からあった。例えば作家とか学者とか著名人が、公的な著作物やテレビなどでは言えないような本音、ここだけの話的なことを講演や会報などで語っていた(いる)。それがそういった場所(有料)での特別感にもなる。

 万人に開かれたツィッターで正体も明かしてそれをやってしまう人もいるが、ツィッターというSNSがすでに本音暴露に許可を与えてくれるしろものになっているのかもしれない。ゆえに、攻撃、揶揄、誹謗中傷も簡単に起きる。

 

 前置きが長くなったが、この度ちょっとした落胆的出来事と遭遇してしまった。その人は、その世界では超有名で、上品で聡明な知識人というイメージを長い年月、私も持ち続けてきた。だからこそ、え?という疑問符を拭えなかった。

 なんでだろう、と考えた。

 ひょっとして、会費制のプライベート空間での規制なしの自由発言許可ということを誤解しているのかな。

 その人もカメラに向かって、この場だから言うよ、言ってもいいよね、というジェスチャーと言葉、表情で、言ってみればざっくばらんに、そして良く言えばフレンドリーにお話されているようなのだが(サービス精神かもしれない)、なんかちょっと違うのではと、その内容と態度に違和を感じてしまったのである。It doesn't feel right.

 他のサイト、すなわち誰でも閲覧可能なYoutubeなどでも似たような言動なのだが、その話しぶりは、もうちょっと真面目というか、おどけておらず、解説のみに留まっている。感想も自分自身のなかでなされている。

 プライベート空間のほうでは、感想が視聴者を含む不特定多数の対象者たちの方へ向かっていて、加えて、彼らを見下しているように聞こえる、そういった印象、抑揚の話し方なのだ。これは私だけではなく、ともに視聴していた数名も同様の感想を述べていたので、他にもどこかで同じような嫌な気分を味わった客観的視聴者もおそらくいるのではないか、と勝手ながら想像する。客観的と書いたのは、著名人には誰でも少なからず熱狂的信者(ファン)が存在しているので、そういった人々はまずそのような印象は持たないだろうから。もし万が一感じたとしても打ち消してしまうだろう。そうしないと自分自身のファン感覚に支障をきたしてしまうので。

 

 おそらく天才、そしてカリスマなのは間違いないのだと思う。ものすごく若いころから活躍しつづけていて、著作も多数あり、翻訳や監修も手掛けている。私も好きで読むし、学ばさせていただいてきた。逆に、小難しくなりがちな研究内容を身近な感覚でわかりやすく提供してくれるこのような人物は、世界中探してもそう多くはいないだろう、とも思う。

 

 例えば、スピリチュアルとか都市伝説界隈の話は、何が本当かは分からないので、誰が正しくて誰が間違っている、ということはない。信じるか信じないかはあなた次第です、の世界だ。加えて、そういった話題は心酔してしまうとカルト化して危険なこともあるので(煽っている有名な語り部もいる)、私もそうだが、できるだけ相談者さんたちが無防備に入り込んだり依存したりしないように注意している。が、それでも、いやぁここだけの話だけど実は自分、信じてないんだよね、と暴露されたらどうだろうか。詐欺に近いような気が私はしてしまうのだが。某、煽り上手な都市伝説テラーも、煽るという部分では賛同しかねるのだが、少なくともこの人は、自分で語っていることをとても信じている。そこは誠実だと思う。

 例えば、医術、治療方法について研究成果と膨大な知識を持っている医者が、患者にあれこれ解説しつつすすめているのだけれど、でも私、信じてないんですよ、って言ってたらどうだろう。私失敗しないんで、ならまだしも。

 

 社会運動の研究者である富永京子が、自分は社会運動を研究しているが、社会運動、例えばデモなどに参加してきたわけではない、そんな自分があれこれ言うことがどうなのか考えてしまう、というようなことを以前言っていたと記憶している。富永が、社会運動を研究してるけど、社会運動やってる人たちってさぁ…云々と見下すように話したらどうだろうか。私はかなり疑ってしまう。でも富永は、決してそんなことはない。運動家たちの立場や気持ちをとても丁寧にすくい上げて研究対象としている。

 もちろん、間違いや不具合を発見したら公表して(論文を書く)、世間に訴えかけていく。学者(とくに社会学者)というのはそういう仕事をする人たちだ。

 学者の論文や散文でも、様々批判と賛同を交えつつ自分自身の意見や提言、考えを述べていく。ゆえに、批判は悪いことではないのだが、言ってみれば私がここで取り上げているこの人は、学者が読者や学生に向かって、読者や学生についてネガティブな発言、非難をしていることに近い。

 

 今回、聞き捨てならないことが2つあった。

 ある雑誌に連載していたところ、あるとき読者の人たちが自分の書いたことを信じていると知って、こんなこと信じちゃうんだと思って書くのをやめた、と言う。え?そもそもどんな気持ちで書いていたのか。若気の至りだったのか、出版社からの要望に従っただけだったのか。そこでの執筆をやめたのは、読者が信じ切ってしまうことの危険性を回避させるための善意なのか…にしても表現と口調が他罰的だった。

 私の知人からも似たような話を聞いたことがある。ある物を効能があると説明して雑誌で販売したところとても売れた。すると効果がありましたと便りまでもらった。実はそのパワーについての物語は創作だった、と本人から聞いて私はえらく驚いた。それって詐欺じゃないの…。その物のパワーのおかげなのか、購入者の信じる気持ちが起こしたプラシーボ効果なのか、実際に結果を得た人もいたわけだ。あるいは偶然かもしれない(この話は長くなるのでまた別の機会に)。救われたのは、私から見れば詐欺師のようなその知人も、朗報を聞いてとても喜んでいたことだった。

 

 私が切なく思うのは、発信するあなた本人はせめてまず信じてください、ということだ。

 

 もうひとつは、医者に例えるが、外来医って患者さん診るのが本当に好きなんだってね、である。この言葉の調子から滲み出ているのは、敬意ではない。そんなの疲れちゃうしさ、いちいちひとりひとりの話なんか聞いてられる?的な文言が想像できる。(基礎)研究医は臨床医を見下すのだろうか。もちろん、あらゆる分野で研究者は必要で大切な存在であることにかわりないが……ちょっと言葉を失う光景だった。職業倫理として正しいとは言えない、と私は感じている。

 

 その職業人として身も蓋もないことをその人はぽろぽろと喋っていた、そのように私には見えた。先の記事で、ある討論会のなかで「権威主義」という言葉の意味を目の当たりにしたと書いたが(下にリンク)、今回は「身も蓋もない」を目の当たりした。いやぁ、ほんとに、それを言っちゃぁ台無し、なのである。加えて、先の記事のなかで「権威側に安住している上から目線の発言」ということを書いたが、今回にもそれは当てはまるように思う。おそらく本人は全く逆の自己認識をしていると思われるが。

 なぜそうなっているのかは、いささか不可思議ではある。いや、実はむしろ明らかなのかもしれないが、医師が医術を信じていない、医術を信じない(認めない)医師が、過去の偉大な医師について語り、その影響を受けていると公言しているのに、その偉大な医師に失礼な物言いをする(それは信じないことからきているのだが)という精神構造が、いまひとつ理解不能だ。そして、医術を信頼していないのに、こういう術があるよと誰かに教えることができるというちぐはぐさに、私の心のほうがちぐはぐになってしまう。

 実は以前から対談や書物のなかで、この人って自分で信じていないことをやっているのかな、ちょっと変だな、と思われる節がちょこちょこあった。が、今回のことは私の感覚のエビデンスとなった。

 おそらく、客観的立場、中立的立場を守っているという、そういう立ち位置に自分を置いている(きた)のだろう。それが知的な振る舞いだと考えて(もしかしたら、過去に何か失敗と反省があってのことかもしれない)。だがそれは、自己防衛の手段なのかもしれない。それは、先の記事の「権威主義」と同じ構造だ。そこでは「孤独と恐怖」という観点から書いた。

 やっていることがやっていることなだけに、権力サイドから目をつけられないように、世間から無視されないように、私は無害な人間ですというアピールをしている(してきた)のかもしれない。確かにそれもひとつの手だ。

 

 哲学者の國分功一郎プラトンについて次のように語っている。

プラトンは、哲学をしつつも国家権力によって殺されないためにはどうすればいいかを考えて哲学した人。

真理の探求はどこかで権力とぶつかってしまう。ただただ真理の追求をしていたら殺されてしまうんだ。

そういうソクラテスの衝撃から哲学を始めた。それがアカデメイア

哲学は権力と常に直面しなければならない。どうすれば哲学を死なないでやれるか。

哲学は、社会にとってチクリと刺すアブみたいな、はっと目を覚まさせる存在。

でも死んでしまってはだめだ、とプラトンは思った。

(2021年3月19日「東大TV 高校生と大学生のための金曜特別講座」より)

 だが、プラトンは魂を「信じていた」と思うし「信じていない」とは言ったことがないと思う。自分自身に誠実にソクラテスの口を借りて著述した。死んではだめだと心得て活動しながら、常にどこかで死を覚悟していたのではないだろうか。

 

 ペルソナを剥がしたらこれが出てきました、というのが今回の動画だったのかな。知識以外のクオリアなことを尋ねられたら残念なことしか出てこなかった、そんなところだろうか。

 マルクス・ガブリエルは次のように言っている。

誰かがあなたよりも力を持っているという事実が、その人が倫理的に優れているということを自動的に意味するわけではないということに気がついた瞬間に、倫理学は始まるのです。

(「欲望の時代を哲学するⅡ」P155)

 

 この人と対談したホストが、自身のプライベート空間で求めていたことはこういうことだったのかな、と余計なお世話だがちらっと疑問に思ってしまった。もっと濃厚な事柄、クオリアな内容だったのではないか。この人になら聞けること、この人なら答えてくれること……。

 私は思った。もはやこのホストはこの人物を凌駕している、と。専門分野の違いはあれど、共通項や根本を流れる心の姿勢といったところで、ホストさん、あなたは十分自立も自律もしています。そしてより良き哲学的民主主義的倫理的思考能力を持っています。

 さまざまな人たち(専門家含)から答えや助言、ヒントを得ようとしている段階かもしれないけれど、おそらくあなたの質問に答えてくれる人はまずいないと思う。あなたのようなタイプの人はそうなのだと、残念ながら(とあえて言うが)言わざるを得ない。

 けれどもあなたは、とても穏やかで誰かを拒否したりすることがない。いささか矛盾と期待はずれを感じつつも優しく受け止めているのだろう。でも、ある外国人との対談のときに、全て肯定ではなく否定的な側面についてもちらと感想を述べてくれていたが、それと同様のことはできないのだろうな。

 

 どのような打ち合わせがあって、動画もどのように編集しているのかは私には分からない。ゆえに、配信された映像を見てのみの私の極めて個人的な反応であることは付け加えておく。

 さらに、正直こうして分析でもしないと、私自身を保てないということもあった。

 冒頭に戻ると、プライベート空間で求められていたことは、自身の不信や他者へのネガティブな感想を権威的に吐露することではなかったはずだ。

 平和もなければ願いが叶うこともない、自分は運が良かったけど……。

 It doesn't feel right.

 

 最後に、ホストさんとマルクス・ガブリエルや國分功一郎との対談を望む。斎藤幸平もいいかもしれない。この3人はともに交流があるようだし。

 彼らの方がよほど神秘的でクオリアだ。ここで出てきたテーマ(ホストが投げかけた疑問)についても、思う存分に語ってくれるはずだ。なぜなら彼らの研究テーマと重なっているからだ。

 

 ここまで書いてきて、ふと気づいた。

 自分は人文学ではなく自然科学をやっているのだ、というスタンスなのだろう。

ツトムとツトム ©2022kinirobotti

 

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