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「お片づけ&処分で日記は残すべきか?残したいのか?やむを得ず残ってしまうものなのか?」〜60歳からのわがままタロットセラピー6

60歳からのわがままタロットセラピー

=やりのこさないために=

=ご都合主義シニアのアジール

 

日記はどうしますか?

日記をつける習慣のある人は、精神的に、あるいは肉体的によほど書くことができないような状態にならないかぎり、死の間際まで書き続けるのだと思います。

日記を、身辺整理や引っ越しの度に捨ててしまう人はいますか?数少ないとは思いますが、特別な事情で捨ててしまうこともあるでしょう。短期的に思い立ってちょこっと書いていたものだったりすれば、すでに捨ててしまって日記をつけていたことすら覚えていない、なんてこともあるかもしれません。

あるいは、小学校の夏休みの宿題「絵日記」はどうでしょう。お片づけ&処分作業の際に、捨てようか捨てまいか迷う類いの物かもしれません。そもそもいわゆる「日記」ではなく「子供の頃の思い出の品」カテゴリーに仕分けされるでしょうか。だとすれば、日記部門からは撤退ですね。別の思考回路を使って判断したほうがよさそうです。

 

子どものころから書き続けているのなら、日記帳やノート、スケージュール帳(毎年の手帳)の数は、例えば60歳なら50冊以上はあるでしょう。

ここから先、息子娘たちも独立し、仕事もリタイア、あるいはセーブしたりして時間の余裕ができたとき、ところどころ、ときに隅から隅まで、ページを広げて読み返す時間もあるかもしれません。

「60歳からのわがままタロットセラピー」3と4で書いた手紙類のお片づけ&処分のように、ひっくり返して過去の記録を読むことは、それはそれで自分の人生を振り返るのには恰好のチャンスです。前にも書きましたが、思い出したくないことまで思い出してしまうという欠点もありますが(ネガティブな記憶の対処方法は別に書きます)。

 

日記についての興味深いエピソードがあります。

もうかれこれ20年以上前の私の友人の話です。友人と言っても、私よりも15歳ほど先輩で、マダムといった雰囲気のある、喋り口調もとても上品な女性です。お知り合いにさせていただいたときには私はまだ20代後半で、彼女の話し方を真似ようとしたものでした。

心臓に持病を抱えていたようで、年を重ねるにつれて体調の悪い日が増えてきていたようでした。電話で話していても咳が止まらなくなってしまうこともあったりしました。

ある日しばらくぶりに電話で話したとき、少し前に彼女が入院していたということを知りました。

救急車で病院へ運ばれて、もうこれでおしまいかもしれないと思ったということでした。生還できた彼女がまずやったことは「日記の処分」でした。全部捨てたそうです。とにかく夫には読まれたくない、というのが一番の理由だと話してくれました。

当時は断捨離とか終活とかは流行っていませんでしたので、そういったことは話題にのぼることもなく、彼女が自分の死を意識してどのくらいの身辺整理をしていたのかは分かりません。言葉の端々から、日記以外にもお片づけ&処分はしていたり、考えていたりしているのはなんとなく伝わってきました。

命が助かって家に戻ってくることができたときのホッとした気持ちのなかに、同時に、戻って来られなかったときのことを想像したら、これらの日記を処分する前に死ななくてよかった、処分する時間を与えてくれた神様ありがとう、という安堵の気持ちも混じっていたのではないか、と勝手ながら想像しました。

そのまま死んでしまえば抱かないであろう感情、自分が死んだあとに残される極めてプライベートな物についての実感が、ありありと恐ろしいほどに湧き上がった帰宅、だったのかもしれません。それゆえ、いつ死んでもいいように日記を全て処分したのでしょう。

日記は、子どものころからずっとつけていたと彼女は言っていました。処分方法は聞いたかどうか定かではないのですが、もしかしたら家の庭で燃やしたのかもしれません。広い土地のお宅なので。なんとなく、映画のワンシーンか何かのように、彼女が焚き火のなかへ一冊一冊と放り込んでいく様子が目に浮かびます。彼女が読書家で文化の香りの漂う人なので、余計にそんな風に空想してしまうのかもしれません。

 

日記には2種類あると思います。出来事が淡々と記録してあるものと、感情が深く綴られているものです。歴史的には両方役立つと思います。出来事のメモや感想は時系列を確認するのに効果的ですし、綴られた思いは思想になります。

例えば、マルクス・アウレリウスの「自省録」。これは出版目的で書かれたものではなく、本人が実際に日々考えたり悩んだりしていたことを書き留めていたものだということです。まさか後の世に世界中で読まれるなんて想像もしていなかったでしょう。けれども彼が書き残してくれた言葉が廃棄されることなく残っていたおかげで、私たちは彼が綴ってくれた言葉に助けられたり、励まされたりして、多くを学ぶことができています。

一般市民としては、はずかしいもののほうが多いでしょうから死ぬ前に捨て去っておきたいところではあります(個人的見解です)。が、そうではないものもあります。一般市民が書き残してくれた日記が立派な歴史的資料になることもあります。当時の生活の様子や市民目線の社会的出来事などなど。

例えば渡辺一夫の著書「泰平の日記」では、フランソワ一世治下のフランスについて細かく論考されているのですが、その基軸となっているのが「フランソワ一世治下におけるパリ一市民の日記」です。かなり細かく王家の人々の事々から戦争のこと、噂話、また税金を取るのかといった不満などなど感想も含めて時事が記されています。臨場感があります。

 

さきほども書きましたが、日記の効用の最重要点は自己を振り返ことができるというところにあるので、自分以外の人が読んでも本来はそれほど役立たないはずです。好奇心だけなら読まないほうが、品位や死者の尊厳という観点からは良識であり礼節なのではないでしょうか。

もちろん、残された日記を読むことで、子どもが親のことを深く知る機会になるということもありましょうから、一概に読ませたくない、読まないほうがいい、と処分してしまうことばかりが最善の行為だとも言い難くはあります。

そのあたりは、すなわち残しておいた方がいいか、捨てたほうがいいか、はたまた残しておきたいのかおきたくないのかの選択は、自分自身が一番よく分かっているでしょうし、あるいはまた、見えざる手が導いてくれるかもしれません。

どうしても見せたくない恥ずかしいことが書いてあってそれが死後残ってしまって配偶者や子どもたちの目に触れてしまったとしても、そこから彼らが学ぶこともあるでしょう。

残すか残さないかは私の選択であり、また偶然と必然のなせるワザかもしれませんが、遺品となった日記を読むか読まないかは遺族の選択です(遺言めいたものも書いてあるかもしれませんが、正式な遺言にはならないので、精神だけ引き継ぐ感じになりましょうか)。

刑事事件の場合は、ドラマでもよく見かけますが、死因の特定のためには日記やスケジュール帳は大いに役立つ証拠物件になりますね。余談です。

 

あれこれ考えを巡らせましたが、いわゆる終活という意味では、日記の処分はどうしたほうがいいのか、どうしたいのか、60歳を過ぎるあたりから自分の気持ちを徐々に深めていったほうがいい、と私は思っています。極めてプライベートなものだからです。

 

私はというと、この度の「お片づけ&処分」作業のなかで、どうしても読まれたくないもの、自分にとってもう必要のないものは捨てました。あるいは醜悪なページだけ破り捨てました。日記のなかにはメモ類も含まれています。

私の場合、特別な「日記帳」を用意して書いているのではなく、気に入ったノートに備忘録のように書き散らしているので、さまざま混在しているのです。

手紙類と同じで、内容の濃い、まだ必要だなと思われるものはとりあえず保管です。

「毎年の手帳(スケジュール帳)」は残してあります。さらに、中学高校の生徒手帳と大学の学生手帳も残しておくことにしました。片づけを手伝ってもらっていた息子は「こんなの要るの?」と言っていましたが、私としてはこれは今はまだ捨てられません。大したことが書いてあるわけではないのですが。なんとなく、自分の歴史の一部なので。「お母さんが死んだら捨てて」と答えました。もしかしたら死を前にして、自分の手で捨てる機会に恵まれるかもしれません。

 

そもそも日記というのは、セルフセラピーの手段でもあるので、正直な胸の内を書かなければ自分にとっての意味が半減します。ブログやインスタ、ツィッターなどで、演じている自分を表現する人たちもいます。昔は文通のなかで嘘を書いている人もいましたから、手段は変われど今も昔も人の行為は似たり寄ったりなのかもしれません。より手軽になったという点は、長所でもあり短所でもあります。

自分のために書かれる本当の日記は、偽物では無意味です。

私たちは日記を書いて自分をヒーリングすることができます。「書く」という作業にはそういった効果があるのです。そういう意味では、偽装の自分、すなわち理想の自分を書いてそこで癒やされるという方法もあるかもしれませんが、それはどこかで破綻すると思います。いわゆる自己啓発的イメージングとは違った方向へ行きそうです。

作家も書くことで癒やされているのだと思います。スティーヴン・キングだって、ホラーを書きながら、明らかに自己を癒やしていると思います。生い立ちや子どものころのエピソードを聞いたり読んだりすると分かります。映画監督にはそういう人が多いようです。詩人もそうでしょう。流行歌を作詞するヒットメーカーと言われる人たちはちょっと違いますが。人文系の研究者も同じ枠組みかもしれません。

物語や研究論文やエッセイ、あるいは資料になる可能性も秘めてはいますが、ごく一般的な視点から考えますと、正直に胸の内を綴っている日記は、基本的には他人に読ませるものではない、というのが本筋であると私は思っています。

 

処分の最中、ひとつ困ったことがありました。

自分自身の日記と、育児日記と言いましょうか、息子たちについての記録が入り混じっているノートがあったことです。

さて、どうしよう。育児日記の部分は残しておきたい、と思ったので処分の手が止まりました。

私自身の個人的な日記の部分が破り捨ててもOKなページである場合については、破り取って捨てました。ですが、ページの表裏で重なっている部分があり、ちょっと迷いました。涙をのんで破り捨てようか……。解決策は「糊付け」でした。ちょっとややこしいですが、見開きが自分の日記の場合はそのまま糊付けします。それはその見開きページの裏が育児の場合です。見開きの一方のページが自分日記で(裏が育児日記)、一方のページが育児日記の場合は、自分日記のほうに、余っているノートのページを切り取ってそれを貼り付けました。

時間が経過すると、はがれてしまうでしょうか?それとも私の死後の遺品整理のときに、なんだこれ?と誰かが丁寧にはがして見たりするでしょうか?隠してあると人は見たくなるものですからね。私としては決してはがれないだろうと楽観的に確信してやったことなのですけれど。

「〇〇と□□の記録」とマジックで書いた小さめのダンボール箱に育児日記は保管しました。「要らなければこれは自分たちで処分して」と、息子たちには伝えてあります。

あるいはこれも、数年後に再度のお片づけ&処分をしたときに私自ら捨てることになるかもしれません。

そのときの自分の気持ちの変化次第、ですね。

10年後、20年後、まだ私が元気だったら、懐かしく思い出をたどるというような時間を過ごしたくなるかもしれません。数年後のお片づけの最中に、処分しようと取り出して、うっかり読みふけってしまう、ということだってあるかもしれません。

いずれにしても、ちょっと小細工のされたその育児日記、当分の間は保管されます。

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