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60歳からのわがままタロットセラピー4「お片づけの手紙と住所録」

60歳からのわがままタロットセラピー

=やりのこさないために=

=ご都合主義シニアのアジール

 

手紙は、年賀状も含めた葉書よりも捨てにくいものではないでしょうか。

私の場合、手紙のやり取りというのはそれほど膨大ではありませんが、それでもけっこう多い方だったと思います。

 

メール時代になってからは手書きの手紙は99%なくなりました。これも前記事で書いた、年賀状という儀礼からの解放同様、ネット時代になってから私が恩恵を受けた便利ツールのひとつです。

手書きですと、書き間違えが許されず、文字や文章などちょっとでも気に食わないとはじめから書き直しです。何しろ鉛筆ではなく、万年筆やボールペンで書いているわけで、文字や文章をその都度消すことができません。

そういった手間を考えたら、ワープロ登場以降、手紙を書いたり文書を作成したりする作業が、なんて便利で気楽になったことでしょう。誤字脱字は(気づけば)すぐに直せますし、大きな文節の入れ替えだって簡単にできます。論文や散文などの長文の書き物にも本当に利便性が高いと思います。もう少し遅く生まれていたら、卒業論文もさらに満足いく執筆ができたのにととても残念に思います(これはただの言い訳かもしれません)。

当初は、手書きではない文面を味気ないとか心がこもっていないとか、いろいろ言われていましたけれど、作成する側からすれば何度も書き直す時間の浪費と労力を考えたら、ワープロで打った文章を印刷して封筒に入れて送ったほうがずっと快適ですし、受け取るほうもなんだったら、悪筆が読めなくてストレスを感じるということもありません。人はどちらの立場にもなりますから。

もちろん、個々人の文字にはそれぞれ表情があって、それはそれで良さがありますし、気持ちも確かに伝わってくるのだと思います。

けれども、電子メールにしても手書きの郵便にしても、やはりそこには書いた人の情緒がどうしても宿りますから、喜ばしいものからいや〜な感じがするものまで、読み分けることはできます。人の雰囲気というものは、隠したくてもなかなか隠せないものです。

 

さて、手紙のお片づけ&処分ですが、年賀状同様、そのほとんどを処分することにしました。海外の人と文通していたものは迷うことなく残してあります。

処分の目安は年賀状のときと同じです。

再掲します。

内容と差出人を確認して、今の私にとって価値の高いものや、私を励ましてくれるようなもの、さらにはクオリアを感じるもの(質の高い文化の香りがするもの)は取り置くことにしました。

励ましてくれるものというのは、ポジティブな内容、かつての私自身の希望を思い出させてくれるもの、あるいはなんかちょっと褒められている感じのするものだったりです。

わざわざ気分の悪くなるようなものを残しておく必要がないのは当たり前のことです。そんなものがみつかったときには、まったくもって死神の大鎌で断ち切って、ぽいっとシュレッダー、ゴミ箱行きです。もちろん、あまり良い思い出のない人からの年賀状でも、その思い出から自分を振り返ったりして何かしらの教訓を得られることもあります。年齢を重ねた今だからこそ気づけるということもあります。

クオリアを感じるというのは、なんとはなしに心や魂の色が伝わってくる文面のことです。ありませんか?そういうの。

(「60歳からのタロットセラピー3」より)

 

手紙は文章が長いですので、葉書よりもずっと手応え感があるものです。

あれしました、これしました、どこそこ行きました、という物理的な報告だけではなく、クオリアな内容であることが多いのが手紙です。思いや感想が綴られています。

 

※「クオリア」とは、質感という意味で、脳科学者の茂木健一郎が研究している分野でもあり、茂木には「脳とクオリア」などの著書がある。私は、心や情緒、文化的意識を伴う感覚、という意味でとらえている。心で話しているのか、心で理解しているのかという様子を見て、クオリアのある人かどうかを感じ取っている。名状しがたい感覚ではあるが、この反対が「無機質」ではないかと解釈している。※

 

手紙というのは、改めて言うまでもありませんが、相手からの文面しか残っていません(メールは自分の書いたものも残りますので、もしかしたらこれはあとで振り返るときに有益な手段なのかもしれません。メールには利点が多い)。

私はここでもまた、自らの恥を知ることになるのです。

送られてきた手紙は遣り取りの片方となるわけですから、それが返信ならその文面を読むことで、自分が出した手紙の内容が推測できます。お礼や感謝だったり、回答や助言だったり、反応だったり、ある程度のことが読み取れます。

わぁ、私そんなこと書いたのかとか、そんなこと頼んだのかとか、当時の事情が分かるのは懐かしいのですが、若気の至り的なことや、無遠慮だったよなと感じるものもあって、相手の人は困っただろうなぁ、よく受けとめてくれていたなぁ、と恥と反省と感謝を複雑に感じたりもしました。

けれども、それも含めて「自分」なのだと自己認識したり、その自分を個性として生かしていくこともできると今更ポジティブシンキングしたり、また、そこから成長した今現在の自分を自分で確認するということもできました。

 

これはタロットカードに照らしますと「カップの6」です。このカードはタロティストによっていささか解釈の異なるカードではありますが、私の占いセラピーではこれを「思い出カード」と呼ばせてもらっています。私にはそのほうがしっくりくるのです。拙くはありますが私の占い経験から、そのように解釈するに至りました。

「思い出」というのは、いい思い出ばかりではありません。自分を傷つけてしまう思い出や、理不尽な思い出は、お片づけ&処分で処理してしまいましょう。「60歳からのわがままタロットセラピー」としては、そのほうがずっとお得です。残りの人生を気持ちよく過ごして、最後の最後まで有意義に成長していくためには、ネガティブは捨て去るに限ります。ネガティブに絡んでいる、あるいは絡まれている暇はもうないのですから。

 

一方で、良い思い出も実はたくさんあるものです。私も今回のお片づけ&処分作業で、手紙やメモ書き、その他資料など諸々のなかから、嬉しい大発見がありました。いわゆる掘り出し物です。これはまさしく、「死神」カードのエネルギーですね。「死神」カードは、埋もれていた宝を見つけさせてくれます。

例えば、思い違いをしていたこともありました。いただいた助言を活かしきれずに頑なに別の方へ歩もうとしていた20代のころの自分の姿が見えました。

人というのは、Aと思い込んでいると、Bじゃない?と言われたときに気づかなかったり否定的にとらえたりしてしまうものなのだな、と長い道のりを通じてあらためて体感しました。これは今となっては納得の発見でした。占いに例えれば、過去の占いを見て、え?そんなこと言われてたんだ、でもやっぱりそうだったよなと気づく的な感覚です。

けれども不思議なことに、いつの間にかこの気づきの方向へと、ゆっくりではありますが人生を掛けて歩んで来たようではありますので、これら過去からのプレゼントは、今の自分への確証と承認、奨励にもなりました。

 

また、こんなこともありました。これはちょっと驚いてしまった発見です。今現在私が主張していることや、考え続けていることを、すでに20代のころから話し、書き、考え続けていたということが、手紙や自分自身のメモなどから分かったのです。

人は成長しますので、考え方や価値観は変化します。極端な例を上げれば、原発に賛成だった人が反対を主張しはじめる、そんな元首相が日本にもいます。それを、言っていることがちょいちょい変わるとか、一貫していないとは言いません。変わったのではなく、成長したのです。

成長し続けるのが人間ですが、その一方で、一貫して変わらない背骨のようなものがあります。そこはころころ変わってはいけない部分です。道徳とか倫理の部類になるかもしれません。真理や哲学、宇宙の摂理の根本は一貫しているはずです。成長過程で多少の変形はあるかもしれませんが、数量的、定量的な価値観とは違うものです。

私が確証を得たその主張(思考)は、今現在も占いのときに相談者さんたちによく話している助言とも一致します。

ここまでの人生を振り返って、なんだかんだとまとまりのない人生だったなといささかネガティブに思っていた私ですが、そうした一貫性が私の思想のなかにあったのだという発見は、驚きであり、嬉しいことでした。お片づけ&処分作業をしなければ、ここまではっきりと気づかされることはなかったでしょう。アイデンティティとはこういうことかもしれません。

ここから先の人生を楽しく、心豊かに過ごしていくためにも、非常に有り難い発見となりました。

 

少し話はずれますが、こんなこともありました。

手紙のなかに、いっとき頻繁になかなか深い内容の遣り取りをしていて、名前には見覚えがあるのですが、いったいどこで知り合ったどんな人だったのかをさっぱり思い出せない人がいました。年賀状の処分でも登場していたし、そこには彼女の子どもの写真もあったので、子ども関係で知り合ったのか……。

ここまで思い出せない人は他にいなかったのです。年賀状には赤ちゃんの写真しかなく。せめて家族写真だったらよかったのに(家族写真付き年賀ハガキを処分しながらその流行を否定していたのに)などと思いつつ、そうそう都合良くはいかないものだよね、と思ったりしていました。そして、何がきっかけでこれだけ濃厚な関係がぷっつり切れたのか、いわゆる自然消滅か?関係というのはある日突然、無情にも必要なくなったりするものでもあります。けっこうな数の文通をしているということは、どこか気の合うクオリアを感じたからなのでしょう(もしかしたら一方的だったのかもしれませんが)。全ての手紙がとても丁寧な内容で、優しく思いやり深い雰囲気の文面です。

この人、どうしておられるかなぁ……。

 

兎にも角にも、年賀状、手紙のお片づけ&処分が終わりました。なんでこんなにいっぱい取っておいたのかなと反省しながらも、上記の目安で、まだ手元に置いておきたいと感じたものを保管しておくという仕事もとりあえず完了しました。

年賀状が詰め込まれていた引き出しは空き、手紙を入れていた箱がなくなったのでクローゼットにも余裕ができました。

そして、残した手紙やメモ類を引き出しに仕舞って、そこには「死ぬ前に処分するもの」というラベルを貼りました。

 

ついでながら最後に、住所録をどうしましょうか。

これは、たった一冊のノートなので、そのまま保管しておくことにしました。

昔は住所録は大切なものでした。

昨今では、メールアドレスは知っていても住所は知らない、という知人友人がいたりしますけれど。

 

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60歳タロット 手紙 @kinirobotti