「男性より才能豊かな女性」「自立する(できる)女性」を描いた映画が、昨年いくつか日本で公開された。
「シュガー・ラッシュ:オンライン」
「メアリーの総て」
「天才作家の妻 40年目の真実」
「アリー/スター誕生」
「コレット」
「アリー/スター誕生」はレディー・ガガ主演の広く知られた映画。(私自身は未視聴。録画はしてある)
「シュガー・ラッシュ:オンライン」は、ディズニーへのお姫さまイメージ(女性の価値観を固定化する)批判を覆すべくつくられたと言っても過言ではない作品。ディズニー苦手の私だが、これは楽しめた。単純に面白かった。ネットのなかの様子が手に取るように分かるのも醍醐味だが、男の子たちに頼らないで生きようとする女の子たちの繊細な気持ちが上手に描かれていたと思う。
「コレット」は、有名なフランス人作家の物語。「夫の名前で出版した」というエピソードが「メアリーの総て」「天才作家の妻」に通じる(「コレット」はまだ観る機会を得ていない)。
さてこの度(2020年1月)「メアリーの総て」「天才作家の妻 40年目の真実」を観た。
どちらも、女性が作家として生きていくことは難しい。才能ある女性は、じゃあどうすればいいんだ?といったテーマを扱っている。
「メアリーの総て」のほうは、実はちょっと期待外れだった。期待しすぎていたからかもしれない。
メアリーとは「フランケンシュタイン」の作者メアリー・シェリーのこと。天才詩人パーシー・シェリーと駆け落ちする、ちょっと奔放なエピソードもあるなかで、女性蔑視の社会模様も描かれる。「フランケンシュタイン」は、女性の名前では出版できないという出版社の意向で、夫が序文を書くことを条件に匿名で出版されることになる。世間は夫パーシーの作品だと思うだろうから、と。
けれども出版記念会で「この作品はメアリーのものだ」と、パーシーは参加者の前で明かす。
ここが「天才作家の妻」と違うところ。
無理もないか。一方は天才詩人で有名人。一方は才能のない元大学教授。
「天才作家の妻」では、妻は夫のゴーストライター。妻には豊かな才能が備わっていた。そしてなんと、1990年、夫はノーベル文学賞を受賞してしまう。
「メアリー」は19世紀、「天才作家」のほうは20世紀の物語だが、それでもまだ女性の地位は低い。
余談だが、J・K・ローリング。言わずと知れた「ハリー・ポッター」の作者だが、彼女も「女性だということがわかると売れない」と出版社に言われて「J・K」というペンネームにした(町山智浩情報)というから驚きだ。「ハリー・ポッターと賢者の石」が出版されたのは1997年。
大学教授と学生として出会った二人。夫の書く小説は下手くそ。だが彼の小説をどうにか出版してあげたい。ゆえに、妻が手直しして出版。それ以来の夫と妻の関係だ。
私は、この元大学教授の夫ジョゼフが気に食わない。現代文学の巨匠とまで讃えられているジョゼフ。作家としては全く才能がないのに、何なんだこの男、と腹立たしく思わざるを得ない。この男のこの堂々とした態度はいったいどこから来るのだろう、と私は映画を見ている間ずっと考えていた。悪びれる様子も、恥入る様子もまったくない。それどころか、授賞式で訪れたスウェーデンでも相変わらず浮気の虫をうずかせる。
あまりにも長い年月そうしてきたので、本当に自分自身が巨匠だと思い込んでしまったのか?心理学、精神医学的に興味深い。
デビュー当時は1960年代なので、女の名前では売れない、オレの名前でオマエの小説を売ってやってきたんだ、ということか?むしろ憐れみすら抱いて自分を高みに置いているのか?
心の底から妻を信頼しているから?そのわりには浮気ばかりしている。そもそも大学教授時代、教え子だったジョーンと浮気したのだった。
たぶん、信頼してるから浮気するって言うんだよねこういう男って。
けれども、スウェーデンでの二人の遣り取りや若い時代の回想シーンから、妻ジョーンは夫ジョゼフを愛しているのだろう、と容易に伺い知れる。ジョーンを演じているグレン・クローズの天才的演技が、妻でありゴーストライターであるジョーンの心のもどかしさを、画面を通して痛切に、そして痛烈に伝えてくる。
この元大学教授はどう見ても、どうしようもないサイコパス男だ。でもジョーンは、彼を愛してるんだなどうしよもなく。そう思うと、私もこのクズ夫を徹底して責めきれなくなる。
この夫は、いったい何を求めていたのだろう。名誉?金?
妻に書かせた作品を自分の名前で世に出し、そして有名になってお金も得た。
作家になりたかったけれど、才能あるものが書けない元大学教授。ジョーンも、なんとか彼を世に出したいという強い思いからの行動だったのだろうが……それはそれで幸せだったのかもしれない。愛する人を助け、その愛する人はどんどん出世し、そして自分は溢れる文才で次々小説を世に出せる。夫への評価は自分への評価だ。
しかし、遂に爆発してしまったジョーン。もう耐えられない、離婚してほしい、帰国したら弁護士を呼ぶ、と。もちろん夫はそれでは困る。そうだよね。離婚なんかしたらこれ以降、小説を発表できなくなってしまうものね、ジョゼフさん。必死に引き止めるよね。
あんたの浮気への怒りの気持ちを小説にぶつけていた、と叫ぶ妻。おまえの小説の源はオレにあるんだ、と開き直る夫。
そもそも仲良く連名で出版すればよかったのにね、木皿泉みたいに、と安易に思う私。
そして、夫は心臓発作で……。
本当はあなたが書いていたのだろうと疑ってつきまとっていた記者に、帰国の飛行機内でジョーンは言う。夫の名誉を傷つけたら訴える、と。
夫の死によって、ある意味、これまでのあれこれは回収されたのかもしれない。
妻にとって耐えられなかったのは、ゴーストライターとしての自分の地位ではなく、夫の浮気だったのだろう。
息子も記者との接触で疑いを深めていた。帰国の飛行機のなかで、姉さんも呼んで二人に本当のことを話す、と母ジョーンが息子に言うラストシーン。
このあとどうなったんだろう……。
文才は隠せない、留めておけない、つまり溢れ出てくるのではないだろうかと私は思う。もう老齢とはいえ、作家は肉体労働ではない。死ぬまで書きたい意欲は止められないだろうし、書き続けることができる。
それとも、夫の死が彼女の書きたい意欲を萎えさてしまうのだろうか。それほど夫を愛していたみたいだし。
夫への愛と文才、どちらがジョーンという小説家の晩年を支配するのだろう。
附記1
外国映画の邦題には不満を述べる人も多い。「天才作家の妻 40年目の真実」の原題は「The Wife」とシンプル。「メアリーの総て」は「Mary Shelly」。
なぜかかっこ悪い邦題。文化的、民族的、言語的違いに伴う理解や感性の問題なのか。それにしても、幼稚な感じがするのは私だけだろうか。副題みたいなタイトルにすることで色がついてしまうし、ときに内容と不似合いなものもあるように思う。このくらいの題名にしないと分からないだろう、お客が来ないだろう、という一方的な親切心なのだろうか。ありがた迷惑、余計なお世話である。
日本語は単語や名前だけでは成り立たない言語なのだろうか?
CNNでもアンカーや記者たちが名前で呼び合うし、相手にマイクを返すとき会話の最後に相手の名前を添える。
例えば犯罪捜査ドラマで、FBIが犯人の家に突入するとき原語では男性も女性も捜査官は「FBI!」と叫ぶ。吹き替えだと「FBIよ」「FBIだ」となっている(終助詞?)。
邦題の悪習慣はその延長なのかもしれない。学者に委ねる。
関連して余談になるが、スティーヴン・キング原作の映画「黙秘」。キャシー・ベイツ(「ミザリー」でアカデミー主演女優賞)が主演ということもあって大好きな映画のひとつなのだが、これもひどい。原題は「ドロレス・クレイボーン」。主役の女性の名前だ。「黙秘」というワードは、メイドとして雇われていた屋敷の未亡人ヴェラが自殺したことで殺人犯として訴えられた母ドロレスに、娘が黙秘しろと言うセリフにのみ使われている。
何が「黙秘」なのだろうと思いながら観ていたが、おそらく、ドロレスがある仕掛けをしてDV夫を死に追いやったその真実を誰にも話していない「そのこと」なのだろう。そしてそれは、ヴェラから授かった知恵、夫から自由になることを促されて実行したことだったのだ(ヴェラも同様に夫を殺害したことが劇中で匂わされている)。
この邦題をつけた人の気持ちが分からないでもないが……。でも私は、「メイン州の寂しい町に住む、ドロレス・クレイボーンというひとりの女性の、とある人生」という印象のほうが強いので「Dolores Claiborne」で十分だ。
そういえばこの映画も、妻の尊厳がテーマだ。
附記2
「The Wife」のジョーンを演じてゴールデングローブ主演女優賞を受賞したグレン・クローズ。その受賞スピーチで次のように述べた。
女性は子供を産んで育てることばかり期待されています。でもなぜ、女性が自分自身の夢を追ってはいけないんですか?
グレン・クローズは、他にも人権を問い掛ける映画に出演している。
「ガーブの世界」ではアセクシャルの女性を、「アルバート氏の人生」では一人で生きていくために男性として生きていく女性を演じているそうだ。