森有正の「バビロンの流れのほとりにて」「砂漠に向かって」を図書館で借りた。
昭和43年と45年が初版第一刷の書物だ。
森有正の名前には記憶があった。
森有正が翻訳したアランの「わが思索のあと」を持っているからだ。
けれども恥ずかしながら、私はこの人物について全く知り得ていなかった。
書評家で詩人の若松英輔が、「バビロンの流れのほとりにて」に触れているツィートを目にした。ロンドンへ向かう飛行機のなかで読んでいたようだ。
私は森有正を調べて、それから図書館で借りることにした。
手にしてびっくり。
こんなにびっしり書かれた本なのか。読み切れなさそうだ。
内容的には、著者が住んでいたパリを中心にヨーロッパの雰囲気を楽しめる、ちょっとした翻訳小説のような随想だ。そして、言ってみればアランの「わが思索のあと」と通じるものがある。
じっくり読みたい。そのためには手元に置きたい。が、残念ながら絶版になっている。古書が手に入らないこともないのだが……。
話はそこではない。
ペラペラと本をめくっていると、あるページに挟まれた貸出評をみつけた。
貸出評をみつけることは意外と多いが、これが楽しい。年代やタイトルを見てあれこれ空想が膨らむ。
印字はすでに薄れて半分ほど消えかかっていたが、2010年に貸し出されていることがわかった。
この人は、この本を読んで何を感じたのかな。どうしてこれを読もうと思ったのかな。この本を選択するような人だから知的で感受性豊かな人なのだろうな。ひょっとして卒論執筆のためかな。文学青年だった?悩み事があって立ち止まっている最中だった?
今私がこの紙片を見ているということはもしかして、2010年から私が借りるまで誰も借りていなかったのか……。
私は、この貸出評をまた本の中に戻した。
私の前に借りた人も、その前の人も、捨てないでそうしたのかもしれない。
司書さんはこの貸出評に気づいていないのだろう。気づいたらその時点で取り出して処分するだろうから、仕事として。
それとも、その司書さんもそっと忍ばせておくことを選んだのかもしれない。
人文的情緒のなかで。
とりあえず、現在出版されている「生きることと考えること」を購入しようと思う。精神史だそうだ。まさしく森版「アラン わが思索のあと」だろうか。