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「生きづらさについて考える」内田樹~長いにものに巻かれない~

私は、率直に言って、嫌われるタイプの人間です。なぜなら、長いものに巻かれないし、主従的関係を忖度してお付き合いしたり、自分の意に反して誰かを持ち上げたりしません。えばっている人にヘコヘコ挨拶したり、医者にお金を渡したりしません。つまるところ損するタイプです。

生きづらいです。この社会では、国では、地球では生きていけないのかもしれないとずっと思っていました。今でも同様に思っていますし、実際そうなんだと思いますが、たまたま夫と子供たちというよき理解者に恵まれて、ここまで生きてくることができました。

 

「生きづらさについて考える」

内田樹 毎日新聞出版

 

上記のような悩みに答えてくれる本ではない。いや、広義的には答えてくれる。

ここ数年の社会現象のなかで、日本という社会の病理が浮かび上がってきたことで、生きづらさを感じ続けていた人々、つまりいわゆる少数派の人々が、どうしてそうなのかがほんのり分かる。

 

格付けというのは、「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。

(P149)

これは、日本の大学教育から創造性が失われて、大学が劣化していることについて書かれている箇所だ。

が、これは、大学だけではなく小中高も、仕事場も、どこもかしこも「これ」である。スピードと要領の良さだけが要求され、点数がつけられる。

ゆっくりじっくり考えて行動する、言葉を選んで話す、という実は高度な思考力と思索力を持った人たちは、短絡的で要領の良さだけを評価し、評価される人間たちから誤解され、忌み嫌われ、排除されていく。そして、世間はどんどん即物化していく。

スポーツ界や学校や企業で起きている様々な問題を報道番組で見るにつけても、思索的な人たちのほうが退いていかざるを得ないというのが現況だ。

 

さらに、これ。

どのような理不尽で無意味な業務命令であっても、上司の指示には抗命しない、質問もしない。どんな命令にも「イエス」と即答する、そういう従属的なマインドセットを企業は求めている。

(P151)

求められているので、大学でもそのような教育をする、せざるを得ない、と神戸女学院の教授だった内田は、この本だけではなく、あらゆる言論の場でそういった仕組みを国から強制されることによるこの国の知的リスクについて、ずっと発信してきた。

 

大学だけではない。日本では、幼い頃からずっとそういった環境のなかで人々が教育されてきたと思う。この効果は絶大だ。いよいよ集大成のときがやってきたと言わんばかりだ。

いまの40代、50代を見ると、どの組織でも、まともな批判精神がある人間は出世できていない。東芝や日産や神戸製鋼などの日本を代表する企業が次々と不祥事を起こしたが、どれも目先の利益を求め、ミスを隠蔽し、問題解決を先送りしたからである。上司や前任者の指示に無批判に従い、事を荒立てないことだけに汲々とするイエスマンばかりが重用された結果である。

ある意味では就活がそういうタイプの人間を組織的に作り出してきたのである。

(P153)

原発事故という、最悪の場合日本に人が住めなくなるかもしれないような状況が起きているさなかに、我が身、我が地位の心配だけをして、おそらくは上司から怒られるのが怖さに、いかにすれば不都合を隠すことができるのかに頭を働かせていた人間たちがいた。

 

それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。
なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。

NHK NEWS WEB)

スウェーデンの高校生、16歳のグレタ・トゥーンベリさんが、国連温暖化サミットでこのように発言した。

あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり」は、温暖化問題にだけ通じることではない。そもそも支配層、富裕層の人間たちの果てしない強欲が作る社会の仕組みが、不自然な世界や貧困を生み出している。

 

いわゆる「コミュ障」についても著者は次のように語る。

先日大学で短いレポートを課したら、「私、コミュ障なんです」と書いてきた学生が数人いました。

(P171)

「コミュ障」という言葉をそのときはじめて見たという著者。「コミュニケーション障害」の略語だろうとは理解したが、どういう意味で使っているのか分からなかった。

よくよく読んでみると、(略)周りが一斉に「そうそうそうそう!」と手を叩いて、激しく頷くようなふるまいを指しているらしい。全面的な同意と共感を誇示することを「コミュニケーションが成り立っているさま」だと思いこんでいるらしい。(略)

コミュニケーションが「そういうもの」だと思っていたら、たしかに日々がさぞやつらいことでしょう。

(P172)

2019年夏ドラマ「凪のお暇」のなかの主人公・大島凪(黒木華)がまさに「その人」だった。いわゆる空気を読みながら生きている。

いつの間にそのような空気が作られるのだろう。不思議だが、どうしてもそうなる。カリスマ的存在の人、声の大きい人を中心に空気がつくられ、それに合わない人、合うように振る舞わない人は、多数の人たちにとって気に食わない人間になり、いじめられたり、仲間はずれにされたりする。でもその多数派の人たちのなかにも、無理して合わせている人は大勢いる。いわゆるヘイト、差別主義者も同様な原理で育つのだろう。

 

コミュニケーションすることの最大の喜びは、自分が思いもしなかったアイディアを他人から得ることや、自分とは違う感受性を通じて世界を知ることにあると僕は思っています。(略)対話することの甲斐は、対話を通じて自分が豊かになり、より複雑になることでしょう?

(P174)

そして著者は、意義や疑義を批判と捉え、ゼロか100かで生きている最近の若者たちを気の毒に思うと言っています。

極端な同調的コミュニケーションにしても、自己責任論にしても、格付け志向にしても、彼らの責任ではないんです。社会がそうさせているんです。

(P174)

内田樹は別の著書で、そのような社会をつくってしまった自分たちの世代に責任があると、若者へ向けての謝罪の気持ちまで書いている。

 

ドラマ「凪のお暇」の主人公である凪は、あれこれ考え、感じて、最終話で自立した。

この状況っておかしいよね、と思っている人は意外と大勢いるはずだ。勇気を持ってそのおかしい場所から飛び出すことはできる。そうできる人がどんどん増えることで、明らかに社会は変わっていく……はずだ。 

 

即戦力という言葉が優秀の代名詞になって久しい。

大学の授業から教養が消えた。 

自分たちがいま生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間であることに気づいて、生き延びる道を見つけること、人文学を学ぶ意味は、そこにあります。

人文学というのは、扱う素材の時間軸が長く、空間も広い。(略)「いま、ここ、私」という基準では測り知れないことについて学び、理解するのが人文学です。

(P175)

知性は大事だ。しかし、知的で思索的な人物は強欲な社会の仕組みからは嫌われる。操ることができない、イエスマンではないからだ。

 

「自分が機嫌よくいられる場所」を見つけること。(略)それは、そこにいると、次の動きについての選択肢が多く、可動域が広い場所であるということです。(略)違和感や不快感を順番に消していって達成される「ギアがニュートラルに入った」ような感じです。

(P180)

若い人たちが感じている「生きづらさ」は「正しい位置」にいないことで生じた心身の歪みがもたらす詰まりや痛みです。

(P182)

知的に思索的に生きることができる場所がある。生きづらさを感じている人たちは「そこ」を探すしかない。

ひきこもってしまっている人たちのなかには、その場所「正しい位置」を探すことができず、出来合いの場所と無知性で冷笑的な人間たちの間で、その存在さえ許されないと思い込まされてしまっている人たちもいる。彼らにとっての「正しい場所」はとても繊細だ。いや、人間というのはみな繊細だ。粗野かそうでないか、という違いだろうか。

 

「日本には自由はない」と言っていいと思います。勘違いしてほしくないんですけれど、日本には「その代わりになるもの」がある。

(略)

集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いたときに、日本人は開放感と達成感を覚えます。(略)ヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。

(P246)

 

ヨーロッパの街でびっくりさせられるのは夏の終わりの少し肌寒い日に「もう」毛皮のコートを着ている人と、「まだ」半袖半ズボンの人が並んで歩いている風景を見ることです。彼らは、自分の身体感覚に従って何を着るか決めている。他人が何を着ようと気にしない。その「周りを気にしない」様子を見ると、「ああ、これが自由というものなんだな。日本人にはないなあ」と思います。

(P257)

日本人にも周りの目を気にしていない人はいるが、そういう人は逆に、自分は凡人じゃないアピールのためにそれを装っている、と著者は言う。肩肘を張っているので、全く自由ではない。むしろ窮屈だろうな、と私も思う。気にしないと言いながら、めっちゃ気にしているわけだから。

 

日本人は「おもてなし」と言いつつ実は案外、冷徹だ。何に長けているかと言うと「干渉」。ゆえに、内田が書いているヨーロッパの街角のような光景を見かけることはない。他人への干渉趣味を改善しないかぎり、本当の意味での自由はやってこない。個人主義は、日本ではネガティブに捉えられることもある。個々人を尊重する、ということなのに。

学生のとき、英会話の先生が言っていたことがいまだに忘れられない。この先生はアメリカの永住権を持っているバイリンガル。「むこうにいくと、訪問先から帰るとき、挨拶して一歩外へ出ると、ばたっと扉を閉じる。冷たいと感じるかもしれない」と個人主義の例として話してくれた。確かに日本では、いつまでも手を振って相手が見えなくなるまで見送っていたりする。その日本的現象を私は「水戸黄門」と呼んでいる。テレビドラマの「水戸黄門」だ。

余談になるが、「水戸黄門」というテレビドラマはたいへんよく日本らしさを体現している、と私は思っている。ドラマのつくり方しかり、権力を振りかざして人々を組敷く様子(これを見た視聴者の気分は満足する)が毎回出てくる。最近では、関西電力原発事業に伴う「袖の下」がまさに「水戸黄門」そのもので日本国中が「江戸時代?」と呆れた。「江戸時代」というより「水戸黄門」だろう。

 

干渉趣味から個人尊重の精神へ心の改善をしていったほうが自由と自立のためにはいいのではないか。干渉は優しさではない。個人尊重は冷たさではない。 

個人主義からくる自由の感覚は、実はとても「楽」なことである。服装も仕事も生活スタイルも好きなことも生き方も、人それぞれであるという価値観認識は、万人にとって「楽」なはずだ。想像してみるといいと思う。どんな生き方をしても、どんな服装をしても、誰にも何も言われない日々を。 

個々を、個々が認め合い尊重し合うことが個人主義だと私は思っている。それが本当の思いやりだ。

「思いやり」とは「干渉」でもなければ、「空気を読む」ことでも「イエスマン」になることでもない。

 

貧して鈍しないように、教養を深めたいものだ。ところが日本では、そのような心がけの人間は常に「生きづらさ」を感じ続けることになる。

 

自分の生命や財産を安定的に確保したいと思ったら、「他人のものをいくら奪ってもよい」というルールで回っている社会より「他人のものには手を出さない」というルールを成員が内面化している社会にいる方がいい。全員が自己利益追求を優先させると、社会は「万人の万人に対する戦い」の場になり、自己利益が安定的に確保できない。だから、「公共(res publica)」を立ち上げた。

(P272)

 

いつからはじまったのか、誰が決めたのか知らないが、まずは就活のあの奇妙で気味の悪い服装・髪型・持ち物ルールを撤廃、あるいは無視するべきだ。

たとえ真夏に毛皮のコートを着ている人がいても、それを指差して笑ったりする人がいない、そういう社会になったらいいな、と私は思っています。

 

追伸

冒頭におべっかを使わない私自身のことを書きましたが、逆もしかりです。付け届けなどによって誰かを重用したり、ひいきしたりしません。むしろそんなことをしてくる人を訝しく思ったりします。

長いものに巻かれませんが、自分が長いものになることもありません。私にとってはなんとも生きづらい世の中です。ある種の方々にとっては迷惑な人間でしょう。

 

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