なんと優しいコトバの本だろう。
「本を読めなくなった人のための読書論」
著者の存在を知ったきっかけを私ははっきりとは覚えていない。おそらくツィッターのなかだったのではないか、と思う。その発信に惹かれてフォローしたのだと思う。そして、「NHK100分de名著」の「苦海浄土」の講師として出演している著者を見て、なんて心深い人なのだろう、世の中にこんな人がいるんだ、そう思ったのを覚えている。「こんな人」とは「こんなに純真で心深い人」という意味である。
私は本を読めなくなったことはない。あまり読まない、という時期はあったかもしれない。ジャンルによっては、読めなくなったものがある。小説を読むことが苦痛になってしまった。物語は、ドラマか映画で堪能することにしている(ちなみに漫画も読めない)。思想書、哲学書、エッセイが私の好きな書物だ。古典も含めて。
読書は、量や速さを誇ったり競ったり、相対的に捉えるものではない、と著者は言う。
週に何冊読んだ、読むとか吹聴して喜んでいる人を私も知っている。読書が好きなのかと思って少し話をしてみると、とんでもなく唯物的で、表層的で、偉そうにプラトンの話をして、「あ、新しい訳でたんですよねそれ」とか言ってこちらをやり込めることで自分の評価を高めようとしていた。プラトンの著作の「コトバ」を理解しているのだろうかこの人と、とても腹立たしく感じたことがあった。
「コトバ」とは?若松は次のように書いている。
この本では「ことば」を表すときに二つの異なる文字を使います。
私たちが日ごろ用いている、文字や声、いわゆる言語としての「ことば」を示すときは「言葉」と漢字で書きます。
しかし、私たちは、言葉だけで意味を感じているのではありません。
(略)力強くはたらくもう一つの「コトバ」
(略)言葉の姿をしていない意味のあらわれ、それをここでは「コトバ」と書くことにします。
(P73〜74)
読書の冊数を誇っていた人は、「言葉」だけを読んでいた人なのかもしれない。読書というのは、発見や気づき、感じ入るところがあってこそのものなのだろうと思う。いわゆる「クオリア」のない読書は衒学的になりがちだ。
そんなふうに書くと、若松が言うところの「本の読み方に正誤はない」に反してしまうかもしれないが、「コトバ」という観点から許していただきたい。
「読み方」に正誤はないのと同時に「感じ方」にも正誤はないのだから、そう考えると「国語」で解答、正答を押し付けてくる、そのような授業や試験に疑問を感じずにはいられない。だからといって、現政権が推し進めている教育改革の一貫としての文学を教科書から排除していこうする姿勢には断固反対だ。
若松英輔の文章も、これまでに数十の大学や高校の国語の試験に採用されたことがあるそうだ。試験終了後に、報告が問題と共に送られてくる。
ほとんど場合、筆者である私が解答できない問題を含んでいます。あるいは、答え合わせをすると、私の答えが正解にならない場合も数多くあるのです。
もし、世の中でいわれている「正しい」読みが、作者の考えを読み取ることであれば、テストで試されているのは「正しい」読みではないのです。それは問題を作成した人が「正しい」と感じたものであるのに過ぎません。
(P103)
これは多くの作家からよく聞く話だ。自分で解答できない、と。林修の発信などを聞いていると、「問題を作成した人が正しいと感じたものであるのに過ぎません」がよく分かる。問題作成者の意図を想像できる人が高得点を取る。そういう人を頭の良い人、と世間一般では言っているのかもしれない。だとすると一方で、そうでない自分自身の感想、感覚、感受性を持っている人や「コトバ」を堪能している人は国語が苦手ということになる。そして次第に読書もしなくなってしまった、という人もけっこういるのではないか。
実は私も中学生のときにそれに近いものがあった。あったが、私の場合、海外文学の雰囲気が好きだったので、本から離れてしまうことはなかった。とはいえ、高校でも入試でも国語はニガテな教科だった。私の場合は、単に頭が悪いだけ、ひねくれているだけ、だったのかもしれないが。今現在も。
(略)
この一つの言葉に出会ったことで、私は、文字通りの意味で救われたのだと思います。
(P126)
書物に救われることは多い。
心深い思想を持っている学生が周囲と話が合わないとき、自分は間違っているのか?と悩んだりする。そんなとき、哲学者や思想家の書物を読んで、自分は間違っていなかったんだと救われた、という経験談を何人かの人から聞いたことがある。
私自身もあった。大小さまざま読書が続く限りそれはあり続けるのだが、あのひとつの体験はちょっと衝撃だった。
もしもこの眼が太陽でなかったならば
なぜに光を見ることができようか
われらのなかに神の力がなかったならば
聖なるものが なぜに心を惹きつけようか
「ゲーテとの対話(岩波文庫全3巻)」にもずいぶん救われたが、この詩が当時の私に与えてくれた衝撃は、まさに衝撃だった。涙が溢れて止まらなかった。私、間違ってない、そう思わせてくれた。周囲から洗脳のようなあれこれを言われて、自分は間違っているのか?おかしいのか?萎縮していた私の心に、この「言葉」が「コトバ」となってわぁ〜とばかりに入り込んできた。あのときの感動を今でも忘れることができない。今読んでも泣いたりしないが、あのときは、それこそ神の光、天空から降りてくる一筋の光のようだったのだと思う。
自分を待ってくれている本、コトバがある。じっとそこで控えている。自宅の書棚、書店、図書館……、ある日私はそれを見つける、あるいは誰かの手を介してそれはやってくるかもしれない。
いや、本が私を見つけてくれたのかもしれない。書店の効用にはそれがある。ふと立ち寄った店で、ふっと眼につく本。まるで買ってくれと言わんばかりにこちらを向いている。まさしく「呼ばれている」 のである。
ネット書店にだって実はそれはある、と私は思っている。たいていは目的の書物があって検索する。しかし、そうこうしている間にいわゆるサーフィン的に辿って、いつの間にかある書物に辿り着いていたということもある。
本は一定の時間で読み終えなければいけないわけではない、と著者は言う。
「愛読」という言葉があります。「通読」という言葉もあります。私には、長く通読することのできなかった愛読書がありました。今もあります。
たしかに読み通せてはいない。しかし、それらはほんとうに愛すべき、私にとって大切な本なのです。(略)
ある人は、私の「読めない本」を二日で通読するかもしれません。しかし、私にとってその本は、十年をかけても読み終えることのない本なのです。
(P116〜117)
本にはパワーがあって、たとえ読まなくても、書棚に並んでいるだけでそこから内容のエキスのようなものを漂わせて持ち主に何らかの影響を与えることがきる。ゆえに、欲しいと思ったら購入して並べておく、積んでおくのもよい、というようなことを茂木健一郎も言っていた。
この書物は「本を読めなくなった人」のための「読書論」だが、誰にでも通じる「読書論」だ。
本の探し方、読み方、付き合い方……がとても易しく、そして優しく書かれている。
こんな面白いことも書いてあった。
名言・格言集のようなものが多く売られているが、それらは「引用集」だ。
言葉には不思議なはたらきがあって、書物のなかだとあまり心動かされないものでも、引用されると、熱いものになって飛び込んでくることがあります。
(P97)
確かにそうだな、と思う。そこだけ切り取られて際立たせると、文章のなかで読んだときには注目しなかったけどすばらしい名言となって迫ってくるものもある。もちろん線を引いたりしているものもあるが、線を引いて付箋も貼っているのに、引用されていると、え、そんなこと書いてあったっけ?と思うことしばしばだ。不思議だ。
めぐり会うべき本へのアンテナは、すでに私たちの日常生活、深層意識、そして自らの人生という歴史のなかにあるのです。
内面にすでにあるものを発見しようとするとき、まず、準備すべきは「ひとり」の場所と「ひとり」の空間です。
(P158)
ゆえに、タロット占い師の立場から言わせていただければ、「読書」は「No9隠者」のカードが担っている、と言えるのです。
2019年10月5日に若松英輔は次のようにツィートしている。
読書の経験を深めるために最も重要なことの一つは、「悪書」を読まないことである、とショーペンハウエルが書いているが本当だ。この哲学者の『読書について』は、読書の効用よりも、読書の「罠(わな)」に多くのページが割かれている。こうした本も、今改めて読んでみる意味があるのかもしれない。
ショーペンハウエルの「読書について」は、私の愛読書でもある。ずいぶんと参考にさせてもらった(それこそ、新しい訳が出てます)。私としては共感も多いが、なかなか手厳しい読書論でもある。
どんな本でもよい、好きな本を読めばいいのではあるが、書物には「良書」と「悪書」があるのはいたしかたのない事実だ。ゆえに、幼少期、小中高では「良書」に触れておくことが大切になってくる。さすれば「悪書」を見分けて避けていくことができるはずだ。が、これも経験を積むしかない、というところもあろうかと思う。
「本を読めなくなった人のための読書論」は、心が穏やかになる一冊です。
どのような読み方をしても、どのように感じても、途中で投げ出しても、若松さんは受け止めてくれるし、待ってくれる、と思います。
この本は、きっと最後まで読めます。
読書の秋にぜひ。