ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

人生の回収①〜私の人生の伏線がここにあった〜「老い」の哲学〈+α〉=60歳からのわがままタロットセラピー19=

 テレビドラマには、サスペンスではなくてもストーリー展開のなかで「伏線」というものがある。あとから「ああ、あれはこのことだったのか」「あのときのあれでこの人は今こうなのか」と合点がいったりする。

 ときに、伏線を覚えていなかったり、見逃していたりすることがある。ひとつのエピソードのなかで回収されていれば見つけ出すのは容易だが、何話も遡らないといけなかったり、どこに伏線あったっけ?というときはなかなか面倒だ。とはいえそんなことができるのも、録画視聴ができるからである。逆に、そういったこともあるので、ドラマはオンエアで観ても録画しておくに越したことはない。映画も一度よりは二度三度観るほうが良い、というのにはそういう意味もあるのだろう。

 ときどき、この関係はどのように回収するつもりなのかなというような興味深い展開もあって、脚本家の腕前を推し量ったりするのもまた楽しい。

 しかし、なんでも回収されればいいというものでもないし、回収しなければならない、というものでもない。

 人生は特にそうだ。老年期に入って要らない行動を取って余計に回収できなくなる人もいるのではないか?過去をほじくり返して、例えば初恋の人に会いに行ったり、誰かにお礼を言うのならまだいいが、晴れない恨みを思い出して何やら決着をつけに行ったりする人もいるかもしれない。そういうことは忘れたほうが無難だ。余生の楽しい生活と穏やかな死のために。

 

ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」という言葉がある。「分からないものを、分からないまま受け入れる力」だそうだ。詩人ジョン・キーツが手紙のなかで1回だけ述べている言葉だということ。それはシェイクスピアについて書かれている箇所。「分からないこと、謎めいたものを、分からないまま受け入れて表現したところが素晴らしい」と。

 ウィキペディアにはこうある。

キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」の理論は1817年12月21日日曜日付けの弟宛ての書簡に表明されている:

私はディルクにさまざまなテーマで論争ではないが長い説明をした。私の心の中で数多くのことがぴたりと符合しハッとした。特に文学において、人に偉業を成し遂げしむるもの、シェイクスピアが桁外れに有していたもの――それがネガティブ・ケイパビリティ、短気に事実や理由を求めることなく、不確かさや、不可解なことや、疑惑ある状態の中に人が留まることが出来る時に見出されるものである。

 サスペンスやホラーで、え?で、どうなるの?みたいなThe Endがある。わざと余韻を残すときもあるが(続編のために)、そうでなくても結局ほとんど回収されないまま終わるものもある。ドラマの場合シーズン2あたりで打ち切りになったりすると、悲惨だ。え?じゃぁ、あの人はどうなったの?あれは誰だったの?と、伏線はるだけはっておいてほとんど何も解決しないままもう観ることができない。…ひどい楽しみにしてたのに…キャッスルロック(正直なところあまり良い出来ではなかったので、打ち切りも納得だが)。

 話を大きくし過ぎて、作家が回収できなくなるパターンも確実にありそうだ。

 

 人生にも「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」的なことはあるだろうか。

 ある。

 何もかも答えが出てすっきりして「はい、さようなら」ってな具合にはいかない。それでもとりあえず、自分の人生には何らかの決着をつけて、ある程度の納得はしておきたいものだ。

 あの伏線はここでのこのためだったのだ、ここで回収されたのだ、という認識はすなわち、因果の法則。原因があって結果がある。タロットカードで言えば「No8正義」のカードだ。老年期の今のあなたの境遇や環境は、あなたの過去の言動、出来事への対処の結果、歩んで来た道のりの行き着いた先だ。あなたは今そこにいる。

 

 物理的にすべてを回収することはできないが、自分という人間のありようの要因を回収することはできそうだ。これが、今私にこのテキストを書かせている動機である。

 

 2021年4月末。私は「一度きりの大泉の話(萩尾望都河出書房新社)」を読んだ。

 この書物の衝撃は非常に大きかった(すでにこちらで読書エッセイを書いているので詳細はそちらで確認してください)。萩尾望都の衝撃告白のあれこれよりもなによりも、私という人間を形作ってきた血肉の素材が思わぬ形で突きつけられ、そして深く認識することとなった。ショックというと悪い意味が強まるが、それでもやはり驚愕だった。そこには、私の人生の前半のある時期に、私が夢中になって摂取してきた栄養のほとんどすべての根源が読み取れた。それが私の全く知らない人物経由だったという事実に、言葉では表現できないほどの驚異であり驚嘆だった。

 けれども老齢期の今、知ることができたのは幸運だったと思う。なぜなら、このことによって私は「私自身」をつくりあげている確実な要素の一部にはっきりと気づくことができたから。もちろん知らないままこの世を去ることもできる。知らなくても大して支障のないことをわざわざ知って驚くなんてバカバカしい、と思う人もいるだろう。私も積極的に知ろうと思って知ったわけではなく、たまたまそういうことになった。それは私の人生に仕組まれていたのかもしれないし、今となっては、知らずに死んでいく余生を想像できない。

 

 少し話はずれるが、実は萩尾望都の本を読んだ前後、なかなかハードな書物を立て続けに読んだ。何冊か読書したあとに「一度きりの大泉の話」、さらに「暇と退屈の倫理学國分功一郎)」を読んだ。この2冊は特にハードであると共に興味深くぐいぐい入り込める著述だった。数日で一気に読んだ。メガネの度の具合がよくないので卓上ライトの真下に本を置いてまさに姿勢も脳も眼も、のめり込むようにして読んでいた。その直後、体調不良に陥ってしまい、あちこち病院に行くことになってしまった。原因は様々重なったとは思うが、それら書物の濃厚な内容と読み方もそのひとつ、というか「ひきがね」になったのだろうと思わざるを得ない。

 すこし体調が戻ったところでメガネを新調した。これからは少しずつ休み休み読書しなければならないのかと思うとちょっとやるせないが、老年期を肯定的に過ごすためには必要なのかなと思うと致し方ない。

 

 閑話休題

「人生の回収」は「思い出(の処理)」と関連づけることができる。いやいや、思い出そのものだ。私は「カップ6」のタロットカードを「思い出カード」と呼んでいる。思い出の処理の仕方については「60歳からのタロットセラピー」でも書いた。

「老いの哲学〈+α〉」では「思い出の回収」に焦点を当てる。

 

 体調が戻りつつあるなか何冊か読書できた(ゆっくり。正直なところ、読書は老後の楽しみ大きな部分を占めているので、思いっきり読めなくなったらここから先の人生をどうしようかと不安がよぎったのも事実)。

 そのなかに「挑発する少女小説斎藤美奈子著/集英社新書)」がある。

 この書物との出会いも偶然の出来事で、ツィッターのなかでたまたま知り得た情報だった。私がフォローしている学者のつぶやきへの誰かのリプライのなかにこの書名があり、面白そうだなと思って購入した。わざわざ追想しようと思って読んだわけではないのだが、すなわち「一度きりの大泉の話」も「挑発する少女小説」も、ここまで生きてきた私の人生の特質や様々な場面の追想を促すこととなった。

 

 斎藤美奈子は辛口で有名な文芸評論家だが「少女小説」についても、ビシバシ語る。少女小説の主人公の女の子のほとんどがみなし子、親や大人の存在を消してしまうのは親(大人)は子どもの自由を奪うものだから。そして斎藤は、主人公や登場人物たちをほんわか明るく評さない。え?そんな人たちだったの?と思ってしまうほど。そこが面白い。

 大人になってから読むと違った味わいがあるということなのか、それとも端折って書かれた児童書は内容が柔らかくなっているのか。この本で紹介されている物語は、私も含めておそらく児童書で読んだという人がほとんどではないだろうか。

 

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読書 ©2021kinirobotti

 

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