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タロットカードNo10「運命の輪」~「そのうちなんとかなるだろう」内田樹③~運命ってわらしべ長者?~

承前)

流れに任せて、ご縁をたどって生きていたら、気づいたら「いるべきところ」にいて、適切な機会を過(あやま)たず「なすべきこと」を果たしている。

(P94)

  

「そのうちなんとかなるだろう」

内田樹/マガジンハウス

 

この書物を読む前からそうだとは思っていましたが、著者は、本人が言うように、まこと自然に生きて、無理せず、幸運(と言ったら怒られるかもしれませんが)を掴んでこられたようです。

①でも書きましたが、なかなか尋常ではない少年・青年時代(その冒険譚は著書を読んでください)はあるにせよ、いや、それすらも実は著者の自然体のなかに流れ込んできた人生だったのだということのようです。

ひとことで言えば、著者は、自分がしたくないことはまずほとんどしないで生きてきたようです。これはなかなかすごいことです。

もちろん細かいことは様々あり、ときに忍耐もあったでしょうし、大検、大学入試も、頭が良いので朝飯前だったかもしれませんが、それでもそれなりに苦労はあったでしょうし、大学教授になるまでの論文が落選しつづけた時間の長さとか……。でもきっと、著者はそれらの全てを常に楽しんでいたように本著から読み取れます。それらの巷間で言うところの不遇な時も、著者自身がしたいことをしている時だったわけです。それが「自然体」ということなのだと思います。人間ですからあれこれ思うところがないわけではないと思いますが、合気道の武道家になるだけあって、生来そのような気質が備わっていたのでしょう。もちろん武道家にだって不自然な人はいますが。

 

私はタロット占い師なので、運命論的物語を読むときには、職業病のようにどうしてもタロットカードNo10「運命/幸運の輪」が心を過ります。

著者の言説は、タロットカード的にもたいへん有益だと感じます。

「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」というのは、武道のめざすところです。

(P94)

けれどもそれは、いつだろう、どこだろう、なんだろうと、きょろきょろ辺りを見回すことではない、ということです。

なぜか?

それは自分で選ぶものではないからです。

(P94)

そして冒頭にあげた引用です。

流れに任せて、ご縁をたどって生きていたら、気づいたら「いるべきところ」にいて、適切な機会を過たず「なすべきこと」を果たしている。

さらにこうあります。

(略)

わらしべ長者」のような話ですけれど、「会うべき人に会うべきときに会い、必要な支援がそれを必要としているまさにそのときに差し出される」というのは奇跡でもなんでもなくて、(略)当たり前の経験側なのです。

(P95)

この「わらしべ長者」物語は、ぜひ本著でご堪能ください。

 

「強く念じたことは実現する」というふうに言うこともできますし、「自分の思いが実現できそうな環境や人間関係」に直感に導かれて自分から近づいていっているとも言えます。

こういった状況を「シンクロニシティ」とか「引き寄せの法則」などと、神秘思想の世界では言います。

Aが引き金となってB、BによってC、Cを通じてD……と引き続いて事が起きていく、つまり「わらしべ長者」。そもそも人生というのは、そういったシンクロニシティによって進んでいくものなのでしょう。それを止めて停滞させているのが、自分自身の頑強な思い込みだったり、疑念だったり、過度の警戒、嫉妬、虚栄心だったりするのだと思います(この話題はNo13「死神」で)。

 

どんなとき、どんな場所でも、僕たち一人ひとりには、自分にできること、自分にしかできないことがあります。とりあえず、その場にいる他の誰もできないことが、自分にだけはできるということがある。

でも、ふつうはそれがなんだかわからない。

(P96)

「自分が今特に無理をせずにできること」が「自分がそれをすることを宿命づけられていたこと」だと思えたら、誰だって、当然のようにそれをしますよね。

そういうのは、外からは「呼びかけ」とそれへの「応答」のように見えるんだと思います。

(P97)

「自分にできること」というものがあるはずなのだがそれが「ふつうは分からない」、と書いてあります。確かに、分かっていれば、迷うことも悩むこともいわゆる自分さがしをすることも必要ありません。それを知りたくてタロットカードを引いたりします。

けれども、ここにはその「答え」が書いてあります。「外からの呼びかけへの自分の答え」です。「コーリング」や「招命」と、神秘思想やときにカルト教団などで言われていることと同じだと思ます。じゃあそれが何かというと「自分が無理せずにできること」なのです。「自分にできること」なら当然のように「それをする」と。 

例えば、「誰かこの仕事できる人いませんか」と呼びかけがあって、「あの~僕でよければ……」的にその仕事をはじめる。「天職」に出会うときというのはそういうものだ、と著者は言います。

不思議なことに(不思議でもなんでもないのですが)、事が進むとき、うまくいくときというのは、するするするっと進んで行くものです。それを称して「努力なしで」と言ったりするわけです。それは「自分が今できること」だったり「縁」だったり、それこそ「自分のすべきこと」だったりするからです。無理矢理押し続けてもできないことは、それは「自分のすることではない」「今ではない」ということで、内田流に言えば「自然」ではないこと、なのです(この話題はNo12「吊られた男」で)。自分にとって不自然なものを掴もうと思っても掴めません。もし掴めたとしても、どこかで不具合が起きてくるでしょう。極端な表現をすれば「必要以上の楽しくない努力をしなければ進めない道は、自分の道ではない」ということなのだと、私は思っています。

 

運命的な出会いというのは、人生のなかで何度かあります。

私は「運命/幸運の輪」の解説をするとき「カードの絵のように自分で回してくださいね」とお伝えします。

え?内田樹が言ってるの違うじゃん。

いやいや、運命の輪は自分で回さないとだめでしょう。誰かに回してもらうということは、その人に自分の運命を預ける、その人にコントロールされる、ということですから。

そうは言っても、なにやら不可視の不可思議な力が働いて……という神秘的なこともあります。が、引用にあるように、著者は「奇跡でもなんでもなく」と書いています。

「強く念じたこと」とも書いてありますので、おそらく著者はいわゆる「念」の強い人なのだと想像します。武道家でもありますので、この世ならざるパワーのようなものを全く感じたことがないと言えば嘘になるのではないかと、私は想像しています。「いるべきときに、いるべきところにいて、やるべきことをやっている」という自然の成り行きのようにも聞こえる状態ですが、その自然の成り行きをつくったのは、やはり本人の「意志」と「行動」がはっきりとあったのだと思います。本著を読めば分かりますが、著者は極めて活動的です。

さらにこうあります。

決断とか選択ということはできるだけしないほうがいいと思います。右に行くのか、左に行くのか選択に悩むというのは、すでにそれまでにたくさんの選択ミスを犯してきたことの帰結です。

ふつうに自然な流れに従って道を歩いていたら、「どちらに行こうか」と悩むということは起きません。

(P200)

この先どちらの道を行ったらいいのかを悩むというのは、どちらの道もあまり「ぜひ採りたい選択肢」ではないからです。どちらかはっきりと魅力的な選択肢だったら、迷うことはありません。

(P201)

なかなか手厳しい助言です。

占いをするときの私たちの心わずらいはといえば、ここから先どうなるのか、Aを選んだらどうなるのか、結婚相手はどちっがいいか、という選択の迷いです。もちろん、心は決めているけど、ちょっと背中を押してほしいということもあるでしょう。

内田論法でいきますと、どっちと結婚したらいいか迷っているということは、どっちも実は魅力に欠ける、ということのようです……。

確かに、失敗したなぁということを多く体験していると、分かれ道で迷ってしまうことが多くなります。また失敗するかもしれないと思えば選べなくなって、誰かに選んでもらおうとするかもしれません。それで失敗しても自分の責任ではないので、自分を責めなくて済みますから。失敗したら他人のせいにすればいいし、あるいは自分の負担を軽くしてくれたのだからたとえ失敗しても恨み辛みも後悔もないかもしれません。

失敗というのは不自然な道を選んだ結果、なのです。

 

「運命の輪」は自分で回します。けれども無理矢理は回しません。無理矢理回したら、カードに描かれている「運命の輪」も壊れてしまいます。

自然の流れにのっていくということは、「運命の輪が回るときに、回る方向に、無理なく回す」ということなのだと思います。

「啐啄同時」(※)という言葉がありますが、「運命/幸運の輪」も同様に、こちらの回す気持ちと外からやって来る機会が、タイミングよく合ったときに最も良い回転をするのだろうと思います。

(※) またとない好機のこと。また、学ぼうとする者と教え導く者の息が合って、相通じること。鳥の雛が卵から出ようと鳴く声と母鳥が外から殻をつつくのが同時であるという意から。(goo辞書)

 

僕の場合の人生の分岐点でどちらを選んでも、結局は、同じようなところにたどり着いたような気がします。

(P204)

これは、ラ・フォンテーヌの名言

「人はしばしば運命を避けようとした道でその運命に出会う」

に相通じるものがあります。ラ・フォンテーヌの名言を聞くと、良くないこと、避けたいたいことを避ける道を選んでほっとしても結局はその避けたはずの事に会ってしまう、というどちらかというと悪いことを想定する場合が多いと思います。例えば、過去に戻って起こってほしくない出来事を変えることに成功したと喜んでも、その後結局は別の時間、別の場所で同じような事件が起きてしまう、というタイムトラベルドラマを観たことがある人は多いと思います。

そうしたドラマチックなことではなくとも、私たちの人生というのは俯瞰してみると究極的には「どちらの道を選んでも行くところは同じ」なのかもしれません。

 

「あのとき、ああしておけばよかった」と思うのは「あのときああしていた自分」が「本当の自分」だと思っているということです。でも、今の自分は「あのときあれをしなかった自分」です。だから、論理的に言うと、今の自分は「本当の自分」じゃないということになる。「オレは本当はこんなところにいて、こんなことをしてるはずじゃない」と思っている「仮の自分」です。

(P208~209)

過去を振り返れば、あのときああしていたら今ごろどうなっていたかな、と、全員とは言いませんが、多くの人がそう思う人生のシーンをいくつか持っていることでしょう。人生も晩年が近づいているにもかかわらず、その辺りが消化(昇華)しきれていない人は意外と多いのかもしれません。

このくだりを読みますと「あ、あっちの自分が本当の自分だったのかな」という思いが能天気に一瞬過ります。が、内田の言説は厳しいです。

そういう人はその失敗を糧にすることもできないし、それを通じて人格陶冶をすることもできません。

だって、今「あれしておけばよかった」と思って悔やんでいるのは本当の自分じゃない「誰か」だからです。(略)後悔だけがあって、「こんな失敗は二度と繰り返すまい」と思っている人間がいない。

(P209)

後悔している自分は本当の自分ではない、ゆえに後悔しながら生きているということは「本当の自分」を生きてない、ということになります。

上記の少し前にこうあります。

後悔には2種類があります。「何かをしてしまった後悔」と「何かをしなかった後悔」です。

取り返しがつかないのは「何かをしなかった後悔」のほうです。

「してしまったことについての悔い」は、なんだかんだ言ってもやったのはたしかに自分なんです。(略)それについては自分で責任を取るしかない。

(P208)

 「しなかったこと」の結果は分かりません。ゆえにうまくいったかもしれないからAをやっておけばよかった、と後悔するのだと思います。Aをやらなかったことを後悔しているということは、AをやらずにBをやって上手くいかなかったという現況であることが想像できます。あるいは、老後に人生を振り返って、やっておけばよかったなぁとしみじみと思う、などということもあるでしょう。でもそれは、そうしみじみ思うのなら、そして今できることならば、後悔だけしていないで今やればいいだけのことだ、と私は思います(これは私が提唱しております「死神幸福論」です)。

内田運命論には「選択」ということはないわけですが、そうはいっても「岐路」に見える状況は確かにあります。

じゃあ、どうすればいいのでしょう。

やりたくないことは、やらないほうがいい。

(P202)

これは、過労死寸前まで働いたり、病気になって倒れてから働き方を改めたりする人々へ向けて発信しているくだりです。根性論、精神論がいまだはびこっている日本では「なんとなくいやだな」「胃が痛い」というのは怠け者のレッテルを貼られたります。仕事自体なのか、環境(人間)なのか、自分の心身に不具合が生じるということは、それは「アラーム」なのだ、と内田は言います。「やりたくないことをやっている」日本人が大半なのだろうと思います。でもそれやらないと生存できなくなるから……。

 

「なんとなく違う」という感覚は、自分を守るために神様か何かが与えくれた感覚なのだと思います。

内田運命論で言うところの「選択というものは本来ない」は、要するに、自身の自然の感覚に従っていれば岐路は岐路ではなくなって自ずと別の道は消えている、ということなのだと理解しました(今ところ)。

 

「しなかったこと」を後悔しないように「覚悟を決めてやる」ことも大事です。「覚悟」がないので、迷うのです。そして誰かに選んでもらおうとします。「覚悟」というのは、内田も言っているように「結果がどうであれその結果を受けとめる」覚悟です。上手くいけばそれはそれで喜べばいいですし、上手くいかなかった場合はこれではだめなんだということが分かったわけですから次の手を考えればいいだけです。

これは「死神幸福論」になってしまいますが、「やりたくないことをやらない」「やりたいことをやる」ためには「明日死ぬとしたら今日何をしますか?」です。テレビドラマ「死神くん(テレビ朝日)」ではありませんが、「あなたは3日後に死にます」と宣告されたら、今あなたは何をしますか?ということです。胃の痛くなる会社へ行きますか?生活費のためだけにやっている仕事をしに行きますか?ということです。

 

女優・小林聡美の書評「佐野洋子著 ぼくの鳥あげる」の最後に、次のように書かれていました。

生きていれば、人は思いがけず新たな境地に立っていたりする。それは気づかないうちに出会ったさまざまなものに導かれてのことに違いない。言葉をかえれば「成長した」ともいえる。成長するには、植物には植物の時間が、人には人の時間が必要。焦らないで、じっくりと。思いがけない奇跡を楽しみに。

サンデー毎日 2019年8月11日増大号)

様々に導かれる出会いも、全ては当たり前に起きているのかもしれせん。

そして奇跡を起こしているのは、神様でも天使でもなく、私たち自身……。

 

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