ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「いま 世界の哲学者が 考えていること」~哲学(者)とは?~宗教は復活する?~

「いま 世界の哲学者が 考えていること」

岡本雄一朗著/ダイヤモンド社

という本があります。

 

この本では、古代から哲学がになってきたこと、そして現在の世界はどのような思想的状態にあるのかを、主要な思想家とその思想を紹介しながら示しています。

 

「哲学」というと、日本では誤解されており、「人生とは何ぞや」「いかに生くべきか」といった問題を考えるのが哲学だなど「人生論」をイメージする人が多いのではないか、と序章にあります。

D.カーネギーの「人を動かす」「道は開ける」は「哲学・思想」ジャンルの長期ベストセラー。

ソクラテスは「ただ生きることではなく、よく生きること」を問題とした。

ヒルティやラッセルの「幸福論」も「人生論」として読み継がれている。

しかしこうした「人生論としての哲学」を、今でも哲学者たちが積極的に語っているかといえば「No」と言わなくてはなりません。(P18)

哲学の研究とは、歴史上の偉大な人物(哲学者)の考えを紹介したり、解釈したりすることだ見なされているのです。大学院の哲学科に入って、最初に決めることは「誰(の哲学)を研究するか」になります。哲学研究とは、ある哲学者の説を詳細に理解することだ、と考えられているからです。(P19)

そういった研究者の存在も必要だと思いますが、彼らは解説者であって、哲学者ではない。哲学者とは本来、哲学する人、知を愛する人、考える人、なのだと私は思っています。

考えるといっても、何を考えるのでしょう。

「人を動かす」「道は開ける」などは、カーネギーより新しい時代で言えば、「ザ・シークレット」系の自己啓発書であって、哲学とは少し系統が違うように思います。うっかりするとスピリチュアルやカルトの部類に入ってしまうような内容もあります。

ヒルティやアラン、ラッセルを代表とする「幸福論」は、哲学的人生論と言えるのではないでしょうか。哲学者(思想家)たちが自らの人生の間中ずっと考え続けていた「人間の幸福」です。それについて書き記したもの。

ですので私は、哲学に「人生論」をイメージすることは決して間違ってはいない、と思っています。むしろ、哲学って庶民の生活に関係ない小難しいことを学術的な言葉でああだこうだ言ってるんだよね、というほうが誤解のように思えてなりません。欧米での感覚を私は体感することができないのですが、日本の場合は、翻訳された言葉もそのイメージをつくっているひとつの要因のように思います。意地悪な見方をすれば、わざわざ難解な言葉を使用することで、学者と言われる人たちのプライドは一方で保たれてきたのかもしれません。

プラトンにしても、カントにしても、ショーペンハウアー、アラン、エーリッヒ・フロム、マルクス・ガブリエルにしても、内田樹にしても、みな、人間がいかにすれば幸福に生きることができるのか、と考えています。そこには、社会や国や地球の在り方も含まれています。

「ただ生きるのではなく、より良く生きること」を探究している、というのが彼ら哲学者の思考、思索に一番近いように思います。

 

私は、現代の哲学者、思想家も、積極的に「人生論」を語っているように思います。そこには、1000年前、100年前には神秘だったことが明らかになったという状況があります。科学文明の発展によって思考の幅が広がったのだと思います。貧困格差問題も戦争も、仕事と生きがい、健康と生活から宇宙まで、思考の基礎と視野の広さが違います。とはいえ、紀元前から依然として答えを見いだせていないこともあります。権力を持った者たち、支配者たちの恣意や悪意、悪事、人間の悪質な感情や強欲です。あれだけ、プラトンからエーリッヒ・フロムに至るまで「大事な事」が叫ばれ続けているのに、人間はどうにもこうにも変質していない、という現実が厳然としてあるわけです。

 

哲学者と言われる人たちの思想は、道徳に近いかもしれません。道徳、倫理。それは、どれほどAI化が進もうとも、人間には外せないものです。たぶんAIにも。

マルクス・ガブリエルはこう言っています。

倫理の土台がなければ、多数決は無意味です。人々の95%が賛成したからって、ユダヤ人を殺すわけにはいかない。人間の尊厳は譲れない権利だ。

(NHKBS1スペシャル「欲望の時代の哲学 マルクス・ガブリエル日本を行く」/2018年6月 朝日新聞本社 読者ホール「民主主義に何が期待できるのか」)

 

「いま 世界の哲学者が 考えていること」には、ポストモダンからIT革命まで、自然主義社会主義、民主主義、自由主義から資本主義は存続できるのかまで、分かりやすく、思考と社会の流れが書かれています。必ずしも、全ての説が正しいわけではないことも示しつつ。 

シュンペーターは次のように予言していたそうです。

「資本主義は成功することによって生き延びることができない」

 なるほど、頷いてしまう昨今の世界の様相です。

 

 第5章「人類が宗教を捨てることはありえないのか」を読んでいた私の心は、はたと立ち止まりました。 

第1節 近代は「脱宗教化」の家庭だった

第2節 多様な宗教の共存は不可能なのか

第3節 科学によって宗教が滅びることはありえない

人類はかつて宗教、神の支配下にありました。

 

「神」は存在するのでしょうか?科学的には証明することはできません。

神の声を聞いた、天使の声を聞いたという人は数多く、世界中に存在し、スピリチュアリティ、カルト化していく人たちもいます。自分は神の化身だとか、イエスや釈迦の生まれ変わりだ、などと叫ぶカルト教祖がそこかしこにいて、大儲けしたりしています。そして、人生について悩みを抱いているとき、私たちは騙されます。 

私自身、いつか「神様」という存在を見ることができるのだろうか、見ることができるかも、と本気で思いながら、学生のころ「神とは何か」みたいな書物を読んだ記憶があります。私は、「いる」なら会いたいです。異星人に会いたいのと同質の気持ちかもしれませんが、神よりも異星人のほうが可能性が高そうです。

 

キリスト教会が登場したのち宗教改革ルネサンス)前までは、神の名を使った聖職者という権威に支配されてきました。そして人々は神とともに、信仰とともに生きていました。科学の進歩によって自然主義が広がっていくと、社会の「世俗化」が起きます。政教分離です。

 

人類は長い時間、宗教も含めた迷信や魔術とともにありました。 次第に科学が進歩し、科学的に証明されないものは存在しない、事実ではない、という時代が来ました。いわゆる信仰心は薄れていきましたが、現在は一部の原理主義新興宗教やカルトはさらなる信仰心を強めています。

 

私は思いました。宗教は復活すべきではないのか、と。それはつまり、迷信や魔術的支配や権威主義的なものではなく、倫理道徳として、という意味です。

おそらく21世紀は、2000年前より100年前よりずっと洗練されているのだと思ます。人も社会も、物理的にも精神的にも。盗みや殺人は、今よりも昔のほうがずっと多かったのでしょう。知性や知識は今のほうが膨大に優れているはずです。

20世紀の世界大戦後、世界は真善美を大事にする平和な社会を目指すことを心掛けるように見えましたが、ここ10年、いや、数年の間に、すっかりと野蛮に戻っていこうとしているようです。品性のない言葉が飛び交い、汚い言葉で罵り、困っている人を助けようともしません。もしかしたら、押さえつけられてきた人間の欲望が堰を切って流れ出してきているのかもしれません。「今だけ金だけ自分だけ」がまかり通っています。

けれどもそれらは、個々人だけの問題ではなく、社会的な要素も大きいようです。

政治家も聖職者も、大昔から嘘つきではありましたが、戦後はそれでも、恥という感覚は持っていたように思いますし、悪事が暴かれたときには潔く退くという良識らしきものは持っていました。ところが、大統領や首相と言われる人々が、堂々と嘘をつき、悪事の責任を人に押し付け、悪びれることなく粗暴で、ときに侮辱的、ときに自己保存的な発信をし、社会を分断し続けています。権力や富を持っている人たちは利益主義でそれに忖度します。さらに、いささか理解しがたいことではありますが、庶民のなかにも支配層の横暴に同調し、なぜか精神的力を得て見倣う人たちが台頭してきています。

神をも畏れぬ、とはこのことなのか、いや、神は、天は自分の味方だと言わんばかりに。

 

こうした精神性劣化の流れに思いを致すとき、宗教の復活、道徳の復活が急がれる、そう思うわけです。

宗教は言っていました。

盗んではいけません。

殺してはいけません。

嘘をついてはいけません。

姦淫してはいけません。

これらは、モーゼの十戒にも、仏教の五戒にもあります。

当たり前のことじゃないか、と一笑に付してきたのかもしれません。そんなことするわけないだろう。そんなことする人は特別な悪人だ、と。

ごく普通の感覚の人々にはさすがに「不殺生」は遠いことかもしれませんが、その他はどうでしょう?「不邪淫」については、レイプ犯になる確率は低いとしても、不倫や痴漢行為、セクハラはどうですか?日常茶飯です。

人間は太古の昔から、まったく成長していないようです。病気は、ずいぶん多くを治せるようになりました。月にも行きました。手紙は1秒で世界中に届きます。2000年前の人たちからすれば、異世界か?と思うような暮らしぶりなのに、道徳さえ守ることができていません。と言うよりも、近頃の不道徳さは、訳が分かりません。不道徳を平気で為し、指摘されても嘘をつき通すことができるのです。

そういう意味での宗教の、道徳の、倫理の復活、という時代がもしやって来ないのであれば、野蛮への退行、もしかしたらそれこそ世界の終わりは近いのかもしれません。

そういえば以前、あるスピリチュアル系の人から聞いたことがあります。「今はアトランティス末期と同じ状態で、今回地球人がこここを乗り越えることができなければ、また原始時代から人類の歴史は始まることになります」と。これって、もしかしたら、こういうことだったのかしら……。

 

哲学は、この世界全体とは何なのかという問いに、学問的に取り組んできました。

(略)

人間が生きていることの意味への問いを立てるという課題が、哲学にはあります。

 (マルクス・ガブリエル著「なぜ世界は存在しないのか」p200)

 

哲学会に「悪いやつ」がいたことは明らかです。(社会主義独裁につながった)カール・マルクスや(ナチに利用された)ニーチェハイデガーらです。

一方で善い哲学には常に啓蒙の視点と、意見の交換がありました。私たちは他人の哲学、考えに耳を傾ける必要があります。デリダはこれを「友情の政治」と名付けました。この対局にあるのが、今日の「敵意の政治」です。(略)

私たちは改めて、友情が良いものだと学ぶ必要があるのかもしれません。

(2018年5月14日毎日新聞オピニオン「ポピュリズム現象とは?/社会を脅かすウソの政治/マルクス・ガブリエル」より)

 

「嘘をついてはいけません」などの宗教的戒律は、そこに神の存在がなくとも人間が生きていくときに必要な「道徳」です。

宗教が争いの原因になるのであれば、「啓蒙(人々に正しい知識を与え、ものの道理がわかるように導くこと/明鏡国語辞典)」の復活、と言ったほうがいいのかもしれません。

 

哲学とは「誰を研究するか」ではなく、「何を探求するか」なのだと思います。