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「そのうちなんとかなるだろう」内田樹②~ダークサイドは嫉妬から~無意識の阻害~占いはひとりで来たほうがいいよ~

承前)

親が我が子の才能、能力発揮の邪魔をするということはめったにないかもしれませんが、教師や師匠という類いの人々にはそれがあるようです。

それは嫉妬からくるのでしょう。

 

「そのうちなんとかなるだろう」

内田樹/マガジンハウス

 

親はめったにそんなことはしない、と書きましたがまれにあるようで、自分の子供が自分よりも頭がよかったり、特別な能力があれば嬉しいはずだと思うのですが、なぜかそれを阻止しようとする親がいるようです。昔々は例えば、農業に学問はいらん、と頑固に子どもを学校へ行かせない親がいました。「大草原の小さな家」にもときどき出てきます。学をつけると家を出て都会へ行きたがり(大学も含め)、親の仕事をついでくれなくなるのではないか、という恐れもあったのでしょう。他には、自分よりも優秀な存在にならないようにしようという意図から、我が子の能力を発揮できないままに留めてしまう親もいます。それは、子どもに親の言うことを聞かせるためです。親が偉い存在、神のような存在として我が子をコントロールするためです。無意識の場合もあるでしょうが、そうすることに何か問題があるという意識に至ることはまずなく、むしろ正しいことをしているという感覚なのだと思います。自分は親なので間違うはずはない、という無知性な勘違いです。

最近は、子どもの優秀さが親の優秀さの証明だという価値観が蔓延しているようで、親自身の自己実現のために、我が子の特殊性を我が子の誕生のときから探るということが競争意識とともになされているということもあります。それはそれでまた、歪んだ愛情のようにも見えます。子どもの能力を伸ばしてあげる環境を整えることは素晴らしいことで決して否定されることではありません。が、それが親自身の世間への優越願望から来るものであるときには、結局どこかで破たんするでしょう。

 

道家であり学者である内田樹はこう述べています。

多くの師は無意識のうちに「弟子が自分に劣る」状況を作り出そうとします。

そういう設定にしたほうが教育的には有効だからです。

「絶対に乗り越えられないほど卓越した師に就いている」と信じ込んだほうが弟子にとって術技の向上にとっては効率的です。

(P89)

 「師に命じられたことを何も考えずに愚直に稽古する弟子のほうが、師に逆らう小賢しい弟子よりも上達するのは当たり前、武道でも芸能でも学問でも」と説明し、さらに内田は次のように話します。

ただ、このシステムには「ダークサイド」がある。

それは、つねに弟子が「師を乗り越えることはできない」と思い続けるように仕向けるために、弟子が上達しないように、弟子の成長を無意識のうちに阻害するように先生がふるまうリスクがあることです。

そういう先生は残念ながら、かなりの頻度で登場してきます。

先生自身には「そんなこと」をしている気はないのです。

でも、弟子が自分を追い抜かないように、ある段階より上に行かせないように、弟子のやる気を挫いたり、弟子の自信を失わせるようなことを無意識のうちにしてしまう。

そういうことをしていると先生自身も気づかない。もちろん弟子も気づかない。

というのは、先生が弟子を「伸ばすために言うこと」と「潰す(まではゆかなくとも、「足踏みさせる」)ために言うこと」は言葉の表面だけ見るとよく似ているからです。

(略)

どんな分野でもそうです。学問の世界でもそうです。

(P90~91)

 そしてこのあと

横で見ていると、岡目八目でその先生に「本気で育てる気があるかどうか」はわかります。でも、弟子には分からない。

と書いています。

そういう著者自身は、合気道を始めた若いときに「伸ばす先生」「生涯の師」と出会いました。

 

自分の威厳のために弟子、教え子が伸びないような指導(それを指導というのが分かりませんが)をする「先生」に当たってしまったら、その先生から逃げたほういいと私は思います。我が子の学校の教師(担任)が「はずれ」だったという悪運がやってきてしまった場合には、逃げるのは不可能に近いですので、簡単ではないかもしれませんが、それでも家庭でフォローしてあげないと、あのときの担任が悪かったと後で文句を言ってもなにも良いことはありません。

 

上記の文面にあるような「先生」というのを私も見たことがあります。傍から見ているとよく分かります。そういう人は本当は教師の資格はないのだと私は思います。

自分一代限りの何かであれば、生徒を集めてひとりで威張りながらやっていればいいと思いますが、小中高の学校の先生はそうはいきません。大勢の生徒、学生の人生がかかっているのですから。

しかし日本の場合、いわゆる「金八先生」(あの金八先生の是非はともかく)のような教師はまずほとんどいません。

 

なぜ弟子(生徒)の能力を潰すようなことをする「先生」がいるのでしょう。

「弟子が自分に劣る状況を作り出したほうが教育効果があがる」というのは、つまり、自分は素晴らしい先生に教えてもらっているのだと思い込んだほうが、弟子(生徒)のほうも真摯に取り組むし、先生サイドからも、そのほうが弟子(生徒)が言うことをよく聞くので指導しやすいということでしょう。

親が学校の教師の悪口を言っていると、子どもがその教師をバカにしたりするようになってその先生から学ぼうという意欲がなくなってしまうので、それを避けるためにも、家庭で学校の先生を貶さないということは実は大事なことなのですが、それでもあまりに下劣な教師もいますから、難しいところです。

この方法だと、ある程度までは先生の指導に従って成長するでしょう。けれどもそれはその先生の能力の範囲内止まりです。この先生の限界がその生徒の限界になります。伸びてきた弟子(生徒)は、次第に先生の限界に気づき始めます。すると、師を変えようとするはずです。真の師なら、自分の限界を知っていますから、自分よりも実力の高い先生を紹介し、送り出すでしょう。

けれども、自分のところから出そうとしない先生もいます。あるいは、自分が見下されてはたまらない、プライドが傷つかないためにも自分を追い抜かないように、無意識にときに意識的に仕向けて行きます。

著者の言うように、そういう先生役の人物は残念ながらちょいちょい人生のあちこちに登場するようです。そしてまた、そういう類いの親もいる、という悲劇もあります。

 

その根底にあるのは「嫉妬」だと私は思います。

いまSNSは罵倒と呪詛の言葉が渦巻いていますけれど、口汚く人を罵る人たちを駆り立てているのは実はおおかたが嫉妬です。

(略)

彼らが怒っているのは、彼らの罵っている相手が「オレがいるはずの場所」を占めていると思っているからです。

(P209~210)

この箇所は、教育や子弟関係の話題からは外れるのですが、人間に歪んだ行動をさせてしまう「嫉妬」という感情は同質であると思います。自分が行きたくて行けなかった場所にこいつを行かせるわけにはいかない、あるいは、自分の同じ場所になぞ上がって来てもらっては困る、と。

でも本当は逆ですよね。自分を越えていく弟子、その弟子の師であったということは嫉妬ではなく自慢のはずです。もちろん、弟子のなかにも、追い抜いた師をこれ見よがしに侮蔑してくる下劣なヤカラはいます。そこまで育ててもらった恩義は忘れ、さもひとりで成長したかのごとく。感謝という感情を持ち合わせていない無機質体質です。

 

上に「無意識」の行動だとあります。教える方も教えられる方もその不具合に気づかない、と。知らぬが仏、なのでしょうか。

それでもどちらの側でも、気づく人はいます。

生徒の側でしたら、どうしてこれやらせてくれないのかな、とか、否定ばかりされるとか、気づきのきっかけやワードはそこここに散らばっています。

子どもの場合(大人も同様かもしれませんが)そのままでいると、つまらなくなってきたりして心も身体も暴れます。身が持ちません。それを見た親は、ダメな子と誤解してしまうかもしれません。親は審美眼を育てることも重要です。

先生の側でしたら、生徒の能力を抑え込んでしまっているような指導をしたとき、故意にではなくても「あれ、自分は何をしているんだろう」と反省的に気づく人もいます。ヤバイと思えば指導方法を変えますし、これ以上は教えられないのでしたら別の先生を紹介します。うすうす気づいていても、そのままその状態を続ける怠慢、あるいは悪質な先生もいます。そのままでいられるということは、そういう性質の人間になってしまっていて、自分がしていることがどのような影響を生徒にもたらすのかという思いに至ることもなく、自身の教育方法になんら疑問を抱かないまま、一生を終える人なのだと評するしかありません。

 

私事ですが、子どもころピアノを習っていました。バイエルがおわると、ブルグミュラー25練習曲、チェルニー100番と進むのですが、その間にやさしく編曲された楽曲なども取り入れてはくれます。私の場合、チャイコフスキーが一番印象に残っています。どうやら先生が好きだったみたいです。チェルニー100番は全てをこなすわけではありません。ところが私、チェルニー100番がいつまでたっても終わらないのです。それでソナチネに進めないのです。あのつまらないハノンをしつこくやらされて(当たり前なのですが)つまらないから練習さぼったりして、次のレッスンではハノンだけで終わったりとか、今日はレッスンしませんとか言われたりして泣いたりしていました。ブルグミュラーの楽しい曲を練習して先生に聴いてもらったら、と母が言うのでそうしたところ、聴いてはくれましたが、まだ早いとか言われました。あるときバロックアルバムをあてがわれて、どうやら私はバロック音楽が好きみたいで、そればっかり弾いていました。嬉しくて。すると急にそれはやらなくなりました。ハノンもできないのに、ということのようでした。とてもつまらなくなって(練習もおろそかになって)、引っ越しを機にやめました。ピアノの先生はその人だけではないのですから、別の先生のところへいってみればよかった、と今は後悔しています。

長じてから、音大出身の友人にその話をしたところ、その先生嫉妬してたんじゃない、ということでした。間違っても私にはピアノの才能はあったとはまったく思っていません。ですので、そういった意味での嫉妬というのは介在していなかったとは思います。別のところで何かあったのかもしれません。子どもの知り得ない何か。あるいは先生ご本人の深い心の闇とか。

結婚してからのことですが、近所のカフェの2階に「大人のためのピアノ教室」という看板があったので、習いにいくことにしました。そのとき担当してくださった先生に言われたのが「ずっと弾いてなかったのにこんなに指が動くんだ。こんなに弾けるのにソナチネやらせてもらえなかったの?」でした。

学校、塾、習い事などで子どもが愚図るときは、先生に能力がないのか、子どもが本気でそれを嫌っているのか、親は見極めてあげたほうがいいと思います。どちらがどうというわけでもなく、単なる相性の問題もあります。お互い人間同士ですので。

日本の「先生」と言われている人たちは生徒をめったにほめません。それでも、有名なピアニストの話などを聞いても叱られて指導されたという人ばかりなので、そこは単純に才能の問題なのかな、とも思います。

上記の私事(お目汚しですが)は、令和時代となった今でも不可思議な思い出です。 

自分自身が教える側になったとき、上の立場になったとき、「かなりの頻度で登場するダークサイド」の人間にならないようにしたいものです。

 

占い師の立場としてひとこと。

「無意識の阻害」は、先にも書きました親にも、さらには親類にも、友人知人にもあると思います。

やりたいことがあってそれを続けたほうがいいかどうかを尋ねてくる相談者さんは多いのですが、そのときに、友人や親といっしょにいらっしゃる人がいます。

占いをしながら、ときどき感じることがあるのです。この友人はこの相談者さんのことを本気で思いやっていない、むしろ悪い結果が出ることを望んでいるようだ、と。人間というのは、残念ながら近くの他人の成功を面白く思わない生き物です。ゆえに、私が良いことを言えば、この友人は不愉快なのです。両親や祖父母の場合は、隣りの席から子どもや孫の望みではなく自身の望みを話し、そちらへ誘導しようとする人もいます。これらのようなときは、また今度ひとりでおいで、と私は心で叫びます。

将来の夢、やりたいこと、やっていることの話題は、まずはできるだけひとりで相談したほうがいいですよ。「無意識の阻害」の波動には意外と影響されるものです。繊細な人ほど大きく影響を受けてしまいます。この話はまた別の機会に。

 

===③へつづく