ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

清水眞砂子「日常を散策するⅠ Ⅱ Ⅲ」③〜ひとり居とわがままのすすめ〜自分でいるために〜

「成長の大部分はひとりでいる時に起こる」

E・L・カニグズバーグ(児童文学作家/アメリカ)

 

日常を散策するⅠ「本の虫ではないのだけれど」

日常を散策するⅡ「不器用な日々」

日常を散策するⅢ「あいまいさを引きうけて」

清水眞砂子かもがわ出版

 

短大在職中、私は毎年新入生に、わかり急ぐなと話すと同時に、せめてここにいる二年ないし三年は、できるかぎりひとり居の時間を持つように、といってきたが、学生たちの驚きよういったらなかった。彼女たちは、そんなことをいう大人に初めて会ったといい、けれど、授業が終わると毎年きまってひとり、ふたり廊下で私をつかまえて、「本当にひとりでいていいんですよね」と念押しするのだった。

(「あいまいさを引きうけて」P211「半音のない世界で」)

 清水は、冒頭にあげたカニグズバーグの言葉を引用して学生たちの背中を押したという。

講演に出かけても、その先々で、子どもがひとりでいることが多いと担任の先生からいわれた、と不安そうに訴える親に会う。協調性に欠けると注意されたというのである。同調すること。これは学校だけなく、日本の社会が常に私たちに押しつけてくる価値である。

そこへもってきて、さらに消費社会は軽佻浮薄であることを人々に強いる。軽みではない、軽薄を強要するのである。

学生たちは昼休みになると、私の研究室にきて昼食を共にしながら、「ここは安心して真面目になれる」といった。初めてこのことばを聞いたとき、私は驚き、それから痛々しさを覚えた。学生たちは本当は真面目にいろんなことを考えたいのに、それができないでいるのだと知った瞬間だった。

(同上P211〜212)

 

(略)「昼休みにひとりで図書館に向かう子どもは要注意」と学校の先生たちが神経をとがらせているという話を初めて耳にした時は、まさかと思いました。

(「同上P196「ヒトを人にしていくものは」)

 あちこちの講演会場で同じ話を聞くようになった、と清水は言う。幼児教育の現場でも「ひとりでいる子には声をかける」は常識になっているようだ、と。

ひとり居のひととき、その子どもがどんな深い世界に生きているか、どんなに遥かな世界に思いを馳せているかを忘れて、ずかずかと子どもの内面に踏み込むことを私たち大人はしばしばやってしまいます。

さらにここ十数年の教育の現場では、「表現」が重視され、強いられる。すぐには言葉にならない思いを黙ったまま燠(おき)のように内に抱え込むことが許されない。問われたことには急いで答えなくてはならない。

(同上P196)

 

 上のエッセイは比較的新しく、2015年のものだ。

 2016年8月28日の朝日新聞「好書好日」への寄稿文でも同様のことを書いている。

 ある中学校長の全校生徒向けメッセージに「笑顔が基本、みんな仲良し」「本校にはいじめはない。あるのは絆だけ」とあったそうだ。「うそだ」と思う人はいいのだが「そのとおり」とうなずく人たちは心配だと言う。

私はそういう人たちが問うことから遠ざかり、大学生になってもなお独り居はだめ人間のすること、と思い込み、いつも笑顔でいなくてはと痛ましい努力を続けるのを三十数年間、見続けてきた。

 カニグズバーグの言葉も知らず、と清水は続ける。

学校が提示してよこしたスローガンをそのまま信じて、自分自身、すでに加害者にもなりつつあるのだった。

 どこの中学の校長か知らないが、珍しいことではないのだろうなと思うと背筋が凍る。

  

「ひとり居」の時間は大切だと私も思っている。

 私はタロット占い師だが、「ひとり居」はNo9「隠者」のカードのエネルギーである。占いのなかで「隠者」が出てくるとき、私は「ひとりで自分と向き合うことの大切さ」についてお伝えしている。

 相談者さんだけではないが、スケジュール帳を次々埋めていく人たちが非常に多い。理由は2つあると考える。すなわち、暇があることや独りでいることが悪いという風潮があること。そして、自分と向き合うのが怖いので常に誰かといたり、騒いでいたりして気持ちを紛らわせようとしている。

 飲み会やカラオケもその類だ。もちろん、人間は誰でも多かれ少なかれストレスと無縁ではない。コロナ禍で飲食店に営業時間制限がかかるなか、公園や路上で宴会を楽しんでしまうのもストレス解消にとって必要な行為ではあるのだと思うが、一方で「ひとり居」ができないという人間の恐怖心の現れ、大袈裟に言えば自己からの逃走的行為とも考えられる。

 私はカニグズバーグという作家を恥ずかしながら知らなかったのだが、こんな素晴らしい名言を残していることを清水眞砂子によって知ることができた。

 

(略)いつもいつも感じていた周囲との違和感は、たとえ孤立しても孤独にならずにいられる生き方のあることをやがて私に教えてくれた。

(「不器用な日々」P29〜30「違和と問いの中で」)

「ねずみ女房」という物語に触れながら、清水はこう自分を振り返る。

「孤独」と「孤立」については、私自身、「隠者カード」について書く際に熟考しようと思っている。

 

 片柳弘史神父(カトリック宇部教会)は以前次のようにツィートしていた。

英語では「孤独」に2つの種類があります。独りぼっちの寂しさを抱えた「ロンリネス」と、独りでも寂しくはない「ソリチュード」。

人間関係の基本は、独りでいる力を身に着けること。独りになるのを恐れ、周りに合わせるばかりでは、自分らしさを失ってしまいます。

 

 古代ローマの哲学者セネカは次のように書き残している。

多忙に追われている者たちにとって、まさに最良の日は真っ先に逃げていく。

(「人生の短さについて」P29“岩波文庫/茂手木元蔵訳”)

 

われわれはいかなる時代からも締め出されることなく、あらゆる時代に入れてもらえる。またもし広い心をもって人間的な弱点の隘路を出ていきたいならば、そこには自由に過ごすことのできるたくさんの時間がある。われわれはソクラテスと論じ合うこともでき、(略)ストア派の人々とともに人間性を打ち破ることもでき、またそれをキュニコス派の人々とともに乗り越えることもできる。

(同上P42〜43)

 図書館に行く生徒を要注意人物だとして見張ろうとするなど、何をか言わんや、である。

「自由」を意味するタロットカードはいくつかある。No0の「愚者」は自由奔放として有名かもしれない。

 タロット好きの人でもあまりピンと来ないかもしれないが、私はNo9「隠者」の持つ自由のエネルギーは最強だと思っている。なぜなら、自己と対話できる、ゆっくりと考えることのできる、周囲に振り回されない自分だけの豊かな時間を持っているから。図書館というのは、隠者にとっての洞窟なのかもしれない。

 本(読書)は考える力、感じる力を育ててくれて、私たちを狭い世間という束縛から解放してくれる。

 

「好書好日」で清水はさらに次のように書いている。

私が十代の終わりを生きる学生たちと付き合ってきて、驚いたことは他にもある。例えば個性個性と騒ぐわりには、みんな似たような恰好をしたり、自分が心から歩みたいと思う道を進むようにいうと、「それってわがままじゃないんですか」と驚いて聞き返してきたり。

 社会運動を研究している立命館大学准教授の富永京子は、「声をあげること」の大切さについて書籍やコラム、テレビやネットなどで発信している。日本人には「声をあげること」「デモをすること」などを「わがまま」だと思っている人が多いという。不満を言っているだけだ、と。

 私たちは民主主義国家を名乗る国で、我慢すること、命令に従うこと、自己主張しないことをどれほど巧みに教育されてきたのだろう。あるいは民族性なのか。

 人はみな権利主張を許されているのだし、いやなことはいやだと言うべきだし、不便なことやおかしいと思うことには声をあげるべきだ。

不平や不満を訴えることは、私たちの社会において、苦しみや痛みを一方的に誰かに押し付けないために、絶対に必要なものです。

(富永京子「みんなの“わがまま”入門」P12)

 それにしても「自分が心から歩みたいと思う道を進む」ことが「わがまま」だと思っているとは、重症だ。学校でも家庭でも、そう教育されているのだろう。

「そんな夢みたいなこと言って」とか「そんなことして食べていけるのか」は、親が子の夢を奪い、能力を挫く定番の「愛情」だ。

 

 社会活動家の仁藤夢乃は、次のように書いている。

 災害支援物資も含めた、いわゆる寄付についての記事だ。これでもかというくらい同じ物が届けられたり、使い古しのものが届いたりする。

支援される人が、「これは嫌だ」「これはいらない」「これはうざい」と言うことは、悪いことではない。当然の権利である。支援する人が「こういう支援をしたい」と押し付けをしたり、支援が空回りした時に「わがまま」などと突き返すのではなく、一緒に何ができるか、何が必要か考えていくことが大切だと思う。

(imidas「バカなフリして生きるのやめた/ここがおかしい第7回」より)

 使用済みの短い鉛筆やノート、シミだらけのボロボロの衣類などなど「いらないからあげる」的なものが、仁藤が代表をつとめるColabo(10代女性向けシェルター・シェアハウス)にも送られてくると言う。

 もうかれこれ30年以上も前に私も、「使い古しの歯ブラシを送ってくる人がいるんだって」という話を知人から聞いたことがあってそのときもえらく驚いたものだったが、いまだにそのような心持ちでいる人たちがいることにさらなる驚愕を覚える。戦後の混乱期だって、古着はともかくも、使い古しの歯ブラシってありなのか?

自分の友人には、こんなもの送れないのでは……とも思った。被災者なんだから、困っている人なんだから、「こんなものでいいだろう」という気持ちが、どこかにあるのではないかと。

(同上)

「送り主がどんな気持ちで送ってくれたかは、箱を開けた瞬間にわかる」と仁藤は書いている。

 寄付をしようとする人の心根もさまざまだろう。自己満足的な人もいるだろう。誰かを見下すことで快感を得ている人もいるだろう。不必要なものを捨てるように寄付する人もいるだろう。もちろん本気の親切もある。

 仁藤は言う。「送る」ではなく「贈る」という気持ちで寄付をお願いしたいと。

 人権意識と品位の成熟が問われるのかもしれない。けれどもそれは、なにも日本に限ったことでもないのだろうと思う。キリスト教的倫理観や哲学を幼い頃から学んでいようがいまいが、その人の人間性によるところは大きい。

 

 寄付というと「ありがたく黙って受け取れ」「文句言うなら寄付しない」的な発想を持つ人が多いのではないかと推測するが、そうではないのだ、ということだ。

 そして「寄付を受け取る人々は、はっきりと意思表示をする、していいのだ」ということを、寄付をする側もされる側も心しておくことが大事なのだろうと思う。

「わがまま」なんかではない。

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読書 @kinirobotti