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「そのうちなんとかなるだろう」内田樹①~創作/教育/才能~批判否定は百害あって一利なし~

才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれる」んです。

(P188)

 

「そのうちなんとかなるだろう」

内田樹/マガジンハウス

 

「なんとなく」いや、強烈に引き寄せられて購入。一気に読みました。

内田樹の半生が、子ども時代から小学校、中学校、高校、東京大学まで、登校拒否から家出、大検、学生運動、武道との出会い、就職から執筆活動、離婚、子育てまで、面白おかしく(と言ってはなんですが)綴られています。

私が内田ファンになってからまだほんの数年です。内田樹の存在を知ったのは、ツィッターのなかでした。私がフォローしている誰かがリツィートしていた内田のツィートを読んだのがきっかけです。わ、こんなすごいこと言う人がいるんだ、と思ったのと同時に、私としては内田樹の思想がとても納得のいくことばかりでしたので、思わずフォローしました。Who are youと内田を探っていくと、本もたくさん出していて、神戸女学院大学の教授(現・名誉教授)で、外国語が堪能で、フランス語の長い文面もささっと訳してぱぱっとブログにあげてくれるというありがたさ。な、な、なんてすごい人なんだと、どんどんファンになっていった次第です。

「知の巨人」内田樹。書物などで断片的に知り得ていた内田先生のここまでの人生が、より詳しく、そして点が線となってつながって嬉しくなった書物です。 

内田先生も、かなり変わり者だったようですが、その辺りの子供のころからの冒険譚はぜひ本著を読んでいただきたく思います。

 

この本は内田樹の自伝であり、人生論であり、社会への提言でもあると私は読みました。

第3章「生きていくのに一番大切な能力」のなかの小見出し「その人の一番いいところを見る」には、とてもセンシティブで重要な事が指摘されています。

なぜ仕事で出会った人とその後も付き合いが続くのか、どうしてはじめて会った人とすぐに仲よくなれるのか、とよく聞かれることについて、

僕はその人の一番「いいところ」、一番「面白いところ」、一番「ユニークなところ」だけを見るようにしています。

(P185)

と語っています。

ここからさらに話題は広がります。つまり以下は誰かの才能を伸ばす、引き出す、ということについての言説です。少し長く引用します。

批判されたり、面罵されたりした人が、そう言われることでやる気を出して、その次によいものを仕上げるということはふつうありません。

(P185)

 

どうすれば、クリエーターの質が上がるかというと、これはもう「いいところをほめる」しかないわけです。

(略)

「おべんちゃら」を言えと言っているわけじゃないんです。

(略)

作品について「この辺がダメだ」と辛辣に指摘すれば必ず次の作品がよいものになるというのなら、僕だって寸暇を惜しんでダメ出ししますよ。

でも人間はそういう生き物じゃありません。

人に質の高いものを生み出してほしいと思ったら、いいところを探し出して、「これ、最高ですね」「ここが、僕は大好きです」と伝えたほうがいいに決まっている。

少なくとも僕はそうです。批判されたら落ち込む。ほめられるとやる気になる。当たり前ですよ。

(P186)

 

肺腑をえぐるような批判をされてボロボロになるのは、もちろんその批判が「当たっている」からです。

でも、批判が当たっているからと言って、それで次の仕事にむかって「さあ、やるぞ」と意気軒高になるということはありません。

同じような失敗をしないように警戒心は高まるでしょう。欠点は補正されるでしょう。でも、そのせいで魅力的な部分がより開花するということはありません。

絶対にありません。

批判を受けたせいで魅力が増すということはないんです。

というのは、才能ある人の魅力というのは、ある種の「無防備さ」と不可分だからです。

一度深く傷つけられると、この「無防備さ」はもう回復しません。その人の作品の中にあった「素直さ」「無垢」「開放性」「明るさ」は一度失われると二度と戻らない。

(P187) 

 

そして、経験的にわかったのは、人にほんとうに才能を発揮してほしいと思ったら、その人の「これまでの業績」についての正確な評価を下すことよりも、その人がもしかすると「これから創り出すかもしれない傑作」に対して期待を抱くほうがいいということです。

(略)

才能はしばしば「あなたには才能がある」という熱い期待のまなざしに触れたことがきっかけになって開花する。

才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれる」んです。

(P188)

「批判するよりはほめ、査定するよりは期待する」と言う内田。

「創作」についても「教育」についてもまったく同じことが言える、と締めくくっています。

 

上に「センシティブ」と書いた理由は、上記引用から十分に理解可能かと思います。

創作でも教育でも、この内田が力強く語っている内容は、大事過ぎるほどに大事なことであるにもかかわらず、日本ではこれとは真逆のことが、家庭でも学校でも仕事場でも、あらゆる人間関係のなかでなされているという悲しい現状があります。

面罵やダメ出し、批判、否定は、人の才能、能力を伸ばすことに1ミクロンたりとも役立たないということです。詰まるところ、それは人の人生の幸福にかかわってくることです。否定ばかりされて育った、という日本人はけっこういるのではないでしょうか。

たとえほめられたことによってその人がその分野での才能、能力を思う存分に発揮しきれなかったとしても、そのほめられた事実はどこかで活かされるはずですし、人をほめて能力を発見し、気づかせ、伸ばしてあげるということをその人は別の人にしていくであろうという善循環が起きていくだろうと想像できます。

 

ほめて育てる教育が日本でもようやく話題になってきました。テニスの大坂なおみ選手の前コーチ、サーシャ・バインがそうでした。その一方で、ほめてばかりじゃだめだ、ほめても伸びない、などと「ほめて育てる教育」について恨みでもあるかのように反対意見を述べる学者も出てきました。ご自身のトラウマへの復讐なのか、叱らなきゃだめだと言い放っているその学者の顔は、本当の意味で穏やかそうには見えませんでした。

10代の頃、絵を描いていたという私の友人。もう描かなくなって久しいと寂しそうに話すので、また描けばいいじゃない、とすすめると彼女は言いました。

「もうだめなのよ」

彼女が絵を描くのをやめてしまった理由は、父親からのダメ出しでした。父親は軽い気持ちで言ったのかもしれません。正確な言葉は分かりませんが、それは彼女の心に突き刺さって落ち込ませるほどのものだったのです。たとえ他の人にはまったく気にならないような言葉だったとしても、彼女の意欲を削ぐには十分に効き目のある言葉だったのです。もしかしたら、照れ隠しで下手くそだなどと言ったかもしれません。日本人にはよく見かける光景です。特に家族をほめることはあまりありません(最近はすこし変化してきているとは思いますが)。

本当にもう描けないんだ、筆を持つことができないんだ、と私は彼女の口調から理解し、それ以降は絵のことに触れませんでした。幸い、息子さんが絵画関係のお仕事に就かれたということで、嬉しそうでした。たった一言だったかもしれない父親からの批判、否定。たったそれだけで、彼女の才能も喜びもふさがれてしまったのです。

いや、それでも本当に才能のある人は、そんなことではめげないのだ、という意見もあるでしょう。そんなことでだめになるならもともとだめなんだとか、とか。教師でもそのように言い放つ人がいます。あるいは面罵したその張本人が、相手のへこんだ様子を見て多少あわてたのか、自己防衛のための更なる暴言として、そんなことだからだめなんだ、とおおいかぶせたりします。

才能のある人は、どんなことがあってもやり続けるし、いつのまにかむくむくと頭角を現す。やり続けずにはいられないからだ。めげたということは才能がなかったということだ。そういうこともあると思います。そうなのかもしれません。しかしまた、それだけではないよ、と私は言いたいと思います。

楽しく取り組んでいたことの出鼻をくじかれる、という体験は、人を奈落の底へと突き落とし、立ち直る力まで奪い去ります。それ以後はどんな励ましも通用しません。トラウマになるかもしれません。自分を諦めるには十分すぎます。本当に「繊細」なものなのです。「お箸の持ち方が変だよ」「靴は揃えて脱ぎなさい」という物理的な作法の注意とは違うからです。心の深いところに迫ってきて、いわゆる「自己肯定感」を奪っていくからです。

「もうだめなのよ」という彼女の言葉が、今でも私の耳に残っています。

内田先生の上記文面を読みながら、私は泣きそうになっていました。

 

親の立場でも、先生の立場でも、友人でも、親類でも、知人でも、偶然縁のあった人でも、否定的発言はしないということを心掛けるべきでしょう。不思議なことに人というのは、評価を求められるとダメ出しをしたがるのです。

才能の生まれる瞬間を見るほうが、落胆に歪んだ表情を見るよりも、こちらもずっと幸せな気分になります。

誰かを貶めてその暗い表情を見るのが自分の幸福だという人もいるかもしれませんが、それは人間として言語道断の所業です。

自分がやられて嫌なこと(嫌だったこと)は人にもしない、ということを誰もが心していることの大切さを痛感します。

 

===②へつづく