ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「友だち幻想」~みんなとなんか仲良くできません~友だちという呪縛~同質性からの脱却~

「友だち幻想」

菅野仁/ちくまプリマー新書

 

ここで言う「幻想」とはすなわち「世間的に言われている常識」のことです。

 

この本の帯には

「みんな仲良く」という重圧に苦しんでいる人へ。

と書いてあります。

著者は言います。「みんなと仲良くなどできるなずはない」と。

 

世界情勢を眺めたとき、「みんな仲良くしようよ」と、私は単純に思います。この「みんな仲良くしようよ」は、戦争をはじめ「争うのはやめよう」です。私の「仲良くしよう」は、互いの立場を「尊重し合おう」「認め合おう」なのです。 その意味では、みんな仲良くしなければいけない、と私は思っています。

けっこう前のことですが、この書物からだったのか別の誰かの発信だったのか忘れましたが、「仲良くしよう」という言葉の概念のネガティブが提示されているのを見て、はっとして、私は自分のサイトに書いていた「みんな仲良くしようよ」というサイト紹介の文面を変えた記憶があります。

ドキッとしました。あ、仲良くって、そういう意味にもなるのか、と。仲良くしようという道徳的文言がプレッシャーになるとは……。

逆に、なぜ人間は本当の意味で仲良くできないのか、と考えると、その背景が見えてきます。つまり、人々は他を理解したり、認めたり、許したりすることが苦手だということです。

「調和」も「和を以て貴しとなす」も「誤解」されているようです。何事もなく済ますこと。黙っていること。隷従すること。ではありません。

故事ことわざ辞典にこうあります。 

礼記』には「礼は之和を以て貴しと為す」とある。
「和」の精神とは、体裁だけ取り繕ったものではなく、自分にも人にも正直に、不満があればお互いにそれをぶつけ合い、理解し合うということが本質ではなかろうか。

元来の意味とは違って使われてしまったのか、いつの間にか誰がどこかで都合よく概念を変えていったのか……。

 

日本では、意見を主張したり、逆に意見に耳を傾けたり、という習慣がありません。それは日本人の元来の性質なのか、教育によって植えつけられたものなのか、それは専門家の研究に譲りたいと思いますが。

生来のDNA的なものだとすると、変革するのはなかなか難しいでしょう。けれども、それでも「教育」によってかなりの部分は変えていけるはずです。肉体的に明らかな日本人でも、例えばアメリカでアメリカ人の家庭で育ち、アメリカの学校教育を受けた人間は、見た目は東洋人でも、精神面はアメリカ人になるはずだからです。

教育が変わればあらゆる環境が変わっていきます。その第一歩を始めるのは困難かもしれません。100年以上の歳月を要するかもしれません。でも戦後のように、ある日突然価値観が変わるということもなきにしもあらずです。

ですが戦後、民主主義がアメリカからもたらされて軍国主義教育が改めさせられましたが、どうも抜け切れない日本人のDNAに棲みついている深い深い病みがいまだに漂い、平成時代も終わろうとするときになって、いよいよその鎌首をもたげはじめてきているようにすら見えます。

 

「仲良くする」「調和」は一言で言うと「尊重する」です。「互いの違う立場を理解し合い認め合うこと」だと私は思っています。

違うからこそ、思いやりを掛け合います。自分と違う、理解できない、ということで排除したり批判したり攻撃したりしません。

思いやったり、理解しようとしたり、不正を正したりしようとすることは、面倒なことです。その面倒なことを率先してすることのできる人、そういう人こそがいわゆる「エリート」だと私は思っているのですが、どうやら逆のようで、波風を立てないことが冷静で理性的な態度なのだ、と思っているいわゆる高学歴系の人が多いようです。そのために、黙る、我慢する、忖度して出世する、という人生の選択をしているようです。そして、疑問を持って意見する人たちを見下すような視線を持って不健全なプライドなるものをがっつりと抱え込んでいます。そのプライドを守るための鎧は強固で、少しでも崩されそうになるとまるで幼い子どものようにめくらめっぽう剣を振り回します。それができない人は逃げます。この「逃げる」は「役に立つ恥」ではなくただの「卑怯」です。

こんな人は世界中どこにでもいるでしょうが、しかしヨーロッパには、意見交換するという文化的特性があります。とても知性的です。

私の占いの師匠はヨーロッパ人です。指導を受けているときに言われました。

「どうして日本人は語り合わないのか。私たちは、たとえ言い争いになっても翌日には仲良しです。日本人は喧嘩して別れる、ということになってしまうようですね」と。

私の師匠は「コミュニケーション」の大切さをくどいほど伝えてくれました。そんなに日本のことをけちょんけちょんに言わなくても、と思ったりもしましたが、私もその通りだなと思いますので、致し方ありません。コミュニケーションは、理解し合うには欠かせない要素なのですが、日本人は苦手です。でも教育で変えていけるはずです。ここで言うコミュニケーションは、最近はやりの「コミュ能力の高低」とか「コミュ障」とか言われている概念とは違います。これらの言葉は差別的でもありますので、私は好きではありません。

 

「みんな違っていい」なのです。そして違っているみんなが、互いに認め合って尊重し合っていくことが「仲良くする」ということなのだと、私は思っています。目玉焼きにはソースなのか醤油なのか塩なのか、から、人種、宗教まで。

 

「1年生になったら、友だち100人できるかな」というCMソングがありました。

著者は「おかしい」と反応し、それを聞いていた筑摩書房の編集者とともに、この書物は誕生していったそうです。

また、当時小学生だった著者の娘、知世さんが学校に馴染めておらず、知世さんへ贈るメッセージでもあったそうです。 

誰とでも仲良くしなきゃいけないんだ、と思うことはない。友だちはたくさんいなければいけないんだと思うこともはない。著者はいわゆる常識とか世間体とかを片端から覆していきます。  

 

「仲良くする」の私的概念を上に書きました。が、当面の対処法として、著者も言っているように苦手な人からは遠ざかっておく、という策は身を守るためには有効だと思います。仲良くしなければと思って、無理に合わせたり、隷従したりするのでは、それは不健全な友人関係になってしまい、苦痛以外のなにものでもないでしょう。

 「自分は自分、人は人」とこの本にも書いてあります。すこし乱暴にも聞こえるこの表現はともすると極端に振れて、自己本位や排除につながってしまうかもしれません。あくまでも緊急避難であって、自立を失ってしまいそうになって卑下している自分を鼓舞するための応援なのだと私は思います。「和を以って貴しとなす」同様、誤解的認識で使ってしまうと、いつまでたっても調和や平和はやってこないでしょう。「言論・表現の自由」もそうですが、こういったフレーズは、使う側によって意味合いが異なってきます。権力者、支配者、力関係で上位にある者、自己本位な者、などが使用すると、それはさらなる権威的あるいは身勝手パワーの増長になってしまうのです。

 

さて、上記のCMが流行っていたころ、誰も疑うことなく、「友だちがたくさんいることはいいことだ」という感覚を持っていたように思います。

ひとりの時間を大切にする人は、どちらかというと奇異な目で見られたり、オタク系などと言われていたかもしれません。

それでも私自身振り返ってみますと、クラスには、ワイワイガヤガヤしている人もいましたが、一人静かに読書をしたりしている人もいました。今思いますと、そういう人のほうがむしろ強い人だったのかもしれません。

弱い人ほど群れたがるものですし、承認欲求も強い。家庭的な問題もあるのかもしれません。家庭に不具合がある場合、どうしても外で満足を得なければ自分が保てません。それがときにいわゆるイジメにもつながります。 

私が今のネット時代に小中高生だったら、と思うと実はぞっとします。

スマホでつながっているので、すぐに返事しろ、既読スルーするな……的なことが四六時中続いていたら、心を病んでしまうのではないかとすら想像します。

表に出るSNS系のいやがらせや友だち関係の悩みはほんの一部でしょう。ちょっとした日ごろの悩みは、もしかしたら昭和の比ではないのではないでしょうか。

 

高校生のとき私は、クラスメイトのひとりに「○○さんの悩みはなに?」と尋ねたことがありました。すると彼女は「友だちのこと」と答えたのです。私はちょっと意外でした。もっと別のことを想像していたので。けれども彼女を観察していると、彼女がいつもいっしょにいる人たちが彼女の本当の友人のようには、私には見えませんでした。その彼女の友だちの悩みというのは、自分が嫌われていないかどうか、いつもそれが心配なのだ、と話してくれました。そうか、だから媚び諂っているのか、彼女たちの罪まで背負ったのか、と私はそのとき思いました。でもね○○さん、すっごくいい子なんですよ。だからあんな底意地の悪い人たちといっしょにいるのはもったいない、と私は密かに思っていました。このことは、妙に記憶に残っているのです。学校の友だちというキーワードに触れるとき、ついつい彼女の顔が浮かんできてしまうのです。

 

先日も、相談者さんからお子さんにこれから友だちができるか心配なのだけれど、と尋ねられました。私がいつもお答えしているのは「悪い友だちならいないほうがいいくらいですよ」です。

つまり、友だちは無理してつくる必要はない、ということをお話ししています。

もちろん、ご近所づきあいや、保護者同士の関係やら、面倒なことや嫌なことは様々あるとは思いますが(ムラ社会的な)、「心の自立」ということはとても大事なことだと思います。犯されてはいけない精神というのがあります。自立を失ってまで、精神を犯されてまで「仲良く」しなければいけない人は、そもそも「友人」ではないでしょう。

 

SNSでちょっとつながっているだけで、自分は友だちが100人も200もいるんだ、と豪語している人もいます。それを聞いて、自分には友だちがいないと悩む人もいます。子どもだけではありません。大人もです。バカバカしいです。 

友人、知り合い、というのは、人それぞれです。数も長さも深さも。親しい関係を数十年続ける人もいれば、環境の変化で友人が変わっていく人もいます。途中ブランクがあってまた親しい関係が復活するということもあります。心境の変化や自身の成長具合などで、友人や知り合いが移りゆくのはごく自然なことだと、私は思っています。類は友を呼ぶ、です。

友人がどんどん変わっていくことを悩んでいる人もいますが、まったく悩む必要はないと、私は思います。

 

2018年9月24日 毎日新聞に次のような人生相談がありました。

相談者は53歳女性です。

高校1年生の息子が小学校のときから友だちができない。新学期になると新しい友だちはできるが長続きしない。ひとりで行動することが多い。ひとりを苦にしているようではない。自分も夫も友だちが少なく寂しい思いをした。どう考えればいいか。

回答者は作家の高橋源一郎です。

文章を書かせる授業で「誰にも言ったこのない秘密を書きなさい」という課題を出したところ、3分の1強が「友だちのふりをしているけどほんとうは嫌い」「友だちづきあいをしなければならないのがつかれる」といった回答だった。正直にいって驚いた、と書いてから次のように回答しています。

 (略)マンガ家のしりあがり寿さんは、わたしたちは「友だちの呪い」にかかっているとおっしゃっています。小さい頃から「さあ、お友だちと並んで」といわれ、「友だち」がいることが普通と思われているけれど、小中高など、そもそも偶然クラスが一緒なだけで、卒業してしまえば一生会わない、ただの「他人」なんだと。

いま、わたしには「友だち」といえる存在は数人です。彼らと会う必要さえありません。私にとって「友だち」は、お互いの「孤独」を理解し合える者のことだからです。

(略)ご子息は(略)「孤独」を知る人間に育ちつつあるのかもしれません。ならば、いつか気づくはずです。会ったことはなくとも、同じような「友だち」が世界中にいることに。わたしもそのひとりです。

 「友だちの呪い」とは「友だち幻想」のことでしょう。

友だちはいっぱいつくれ、友だちがいっぱいいる奴が偉い、友だちがいない奴は性格が悪い、大学では一生の友だちができる、学校は友だちをつくるために行くところ、友だち100人できるかな?などなど、「呪いの言葉」は数知れません。

こんな誰がつくったのか分からない価値観の呪いにかかって悩むことほど無駄なことはないでしょう。

ちょっと意地悪なことを言わせていただきますと、そもそも「自分には友だちがいっぱいいる」と言っているその人、自分が一方的にそう思っているだけで、友だち認定されている方々は迷惑しているかもしれませんよ。

翻訳家の小宮由さんとお会いしたとき、私はこんな話をうかがいました。

学生時代友だちがいなかった。話の合う人がいなかった。トルストイの本を読むと自分が考えていることが書いてあって、自分は間違っていないのだと涙した。

言葉は正確ではありませんが、おおよそこのような内容でした。

高橋源一郎が書いている「会ったことはなくとも、同じような友だちが世界中にいる」は、こういうことも言うのではないかな、と思います。書物や過去の偉人たちが「友だち」ということもあるでしょうし、またそうした人々もどこか「孤独」だったのかもしれません。

 

「友だち幻想」は10年前に出版された本です。

それが時を経て最注目のベストセラーとなった2018年。 

2018年8月2日 毎日新聞夕刊 特集ワイド

菅野さんにも今の子どもたちの交友関係についての考えを聞きたいが、それはかなわない。2016年9月に大腸がんで56歳の若さで亡くなったからだ。

「友だち幻想」は長女知世さんに伝えたいメッセージでもあったが、菅野さんが死去した5か月後に、知世さんも21歳の若さで突然の病で急逝した。

 

妻の順子さんはこう語る。

学術書や論文の執筆も大事だけれども、幅広い人に理解してもらえるような一般書として何年たっても読んでもらえるものを書きたいと言い続けていました。

 

著者と娘の知世さんが命をかけて今の私たちに残してくれた伝言、それがこの書物なのだと、お二人の早世を知って、驚きとともに深く感じ入った次第です。

 

そろそろ同質性を前提とする共同体の作法から、自覚的に脱却しなければならない時期だと思います。

(P25)

これは日本のあらゆる場所、組織へのアドバイスであり、警告でもあると思います。

 

友だち関係、人間関係とはどうあるべきか。

日本社会がつくりあげてきてしまったムラ社会的誤謬。

教師を目指す人へのアドバイス

他者存在の意味。

幸福ってなんだろうから読書の効用についてまで、

平易な言葉で丁寧に綴られています。

 

この本には自分を守るため、そして人とうまく付き合うためのノウハウがいっぱい書いてあります。

ご一読を。肩肘張らずに読めます。