これは、読み応えのある論考でした。
『新潮45』休刊の背景~貧すれば鈍する名門雑誌の最期~
古谷経衡
著者は、当月刊誌の著者でもあります。
ご一読、お勧めします。
私にはとても分かりやすかったです。
「新潮45」と「VOICE」を較べて、どちらも二重構造の言論雑誌だということです。
主要連載陣を見れば一目瞭然、と。
「ヘイト雑誌」「ネトウヨ雑誌」とはほど遠い連載陣
ということです。確かに。
余談ですけれど、
ヤマザキマリの漫画「プリニウス」もすでに数年の長い連載をしているのですね。休刊にともなって、その続きはどこに連載されるのでしょうか。読者ではないのですが、それが気になります。なぜなら、私はヤマザキマリファンだからです。漫画ではなく、新聞の人生相談やたまに出演されるテレビ番組のトーク。彼女自身の人生とか人生観もユニークで爽快なのですよね。対談や仕事ぶりから垣間見られる彼女の国際感覚と自由な精神性が、なんとも羨ましいくらいにステキなのです。
もとい、
結局やはり、部数の減少というのが今で言うところの「炎上商法」の要因であることは免れないようです。
この論考に挙げられている
「安倍支持」「反野党」「反左翼」「嫌韓・嫌中」などの古典的なまでのネット右翼迎合記事で徹頭徹尾締めくくられている。これは創刊当時からの該雑誌の姿勢が右派に軸を置いたモノだったのだから、当たり前だ。
の雑誌たちは、分かりやすいです。
けれども、古谷が「新潮45」と引き比べてくれた「VOICE」については、PHPのコンセプトとは馴染まない感を強く抱きます。
もちろん、ひとつの出版社から多様な書物が出されてもまったく良いわけですが、つまり、先の記事にも書きました小学館が教育本と子供に見せられないような本を同時に世に出していても。
とはいえ、「言論機関」って何だろうということをもう一度振り返ってみたほうがいいような気がします。
古谷はこう言います。
雑誌不況、と言われて久しい。今回の『新潮45』の休刊を、単に「生きるか、死ぬか」の切迫した状況で生まれた悲劇、と断じてしまっていいのだろうか。これは苦戦する雑誌媒体のみならず、断末魔へと向かう他業種の業界全体の業界人にも、我が事としてとらえなければならない問題と言える。正に己が死に向かうそのとき、それまで営々と先人が築きあげてきたポリシーや崇高な理念をかなぐり捨ててでも、「売り上げ」を優先してしまうという心境が、『新潮45』だけに固有のものであったとは、誰が言い切れるのだろうか。
逆もあります。
とても素晴らしい古典的思想書を出しているので、どんな出版社だろうと確認してみたら、え?こんな記事ばっかり扱う雑誌だしてるんだ、とちょっとショックを受けたことがかつてありました。
売れればなんでもいいなのか、担当者が違うだけなのか……。
いずれにせよ出版社というのは、どういった種類、性質の書物を扱っているのか、というところは、書物というのは「思想」のかたまりなわけですので、そこは眺望されても致し方ないのではないかと思います。
古谷は最後に「風の谷のナウシカ」に例えて「また村がひとつ死んだ」と言っています。
『新潮45』の最期は、この「勝利(―もはや勝利ですら無く延命なのだが)のためには国土が没することも厭わない」という、悲壮な土塊軍の戦術を私に想記させてならないのだ。
それやったらあなたも死ぬよ、ということを悪魔という存在は最後の手段として取る、と聞いたことがあります。これは相手をやりこめて勝利を得る為、いわゆる世界征服のためなのです。が、言論雑誌のそれは、売り上げという勝利目標はあるものの、身を守るための行為だったわけで、なんとも言えない自爆となりました。巻き込まれたのは、執筆者たちと誠実な編集者たちと新潮社の伝統(そもそも「FOCUS」も奇妙でした。廃刊になっていますが)。
私としては、
奇しくも最終号となった2018年10月号の表紙にも、『酔っ払った山尾志桜里に罵倒された夜 古谷経衡』が目玉原稿のひとつとして表紙を飾っている
この記事がもっと注目されてほしかったのですが。「ええ?ほんとそれ?」と思っていましたので。
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