2018年9月6日毎日新聞夕刊
【「人柄と才能 結んだ宝物」さくらももこさんを悼む】土屋賢二(哲学者)
にこうありました。
ちなみに土屋賢二とは、2001年に、さくらももことの対談本「ツチケンモモコラーゲン」を出版している人物です。
ちびまる子ちゃんがそのまま大人になったのがさくらももこだ、と土屋は言う。
もちろんただの子どもではない。天才だった。対談本を補足するために、わたしの目の前でサラサラと原稿用紙二、三枚を書き、一切の訂正もなく、完ぺきな原稿が出来上がった。ただ、これほどの集中力を発揮するのに、集中力が続かず、長いドラマや好きなミュージシャンのコンサートも最後まで見ていられないとおっしゃっていたから、夢中になったかと思えば飽きやすい子どものようだった。
また、イヤなことはやらないというさくらさんの姿勢は徹底していて、人がイヤがることを押しつけることはせず、「息子が学校に行きたくないと言ったら、『いかなくていいよ。罰金でも何でも払うから』と言う」とおっしゃっていた。
天才ぶりがよく分かる一文だと思います。土屋賢二も目の当たりにしてさぞ驚いたでしょうか、わくわくしたでしょうか。
「さくらさんは子どものころから無理とか我慢とか反省とかしない生活を貫いてきたのに、立派に成長して僕よりはるか高みにいる」と言う土屋に、さくらはこう答えます。
高み?何言ってるんですか。こういう性分だというだけのことです。
自分にとって心地よい方向の選択をするというだけのことなんで、個人の選択っていうのは言ってもどうしようもないことですから、もしそれが嫌でもそれを選択してるんだったら、それで何か学習すればそれもその人のためになるし、何も学習することがなかったら、ムダな選択だったねということを学習したねみたいなことで、しょうがないですよね。(「ツチケンモモコラーゲン」P138~139)
さくらさん、悟ってますね。
人生は選択の連続ですが、その「選択」ということについて、独特の口調ではありますが、極めて真理をついた認識を述べてくれています。
けれどもおそらく、悟りの低いたいていの人々は、ここまで達観できずにあれこれ悩んで低迷したり、最悪のパターンは「ムダな選択だったね」のときに、自分以外の誰かや何かの所為にして恨み辛み嫉妬を深めて尾を引いたりするのが関の山だったりします。
さくらももこがここまで言い切れるのは、「自分自身が選択しました」という意識を確実に持っているからでしょう。いや、むしろ、自分で選択しないことには動きが取れない性質(タチ)だったのだと思います。
「選択」というのはそういうものです。何叉路か分かりませんが人生の交差点に立つとき、相談にのってもらうこともあれば、ヒントやアドバイスをもらうこともあります。ときどき、あるいはしばしば、強権的な指示を与えてくる周囲の人もいるでしょう。それらを参考にはしますが、最終的に「選択」するのは自分です。そして「自分が選んだのだ」という意志は人を能動的にしますし、強くします。「覚悟」があるので、誰かや何かに責任を押し付けたりしませんし、後悔もしないでしょう。そして「ムダな選択だったね」のときは、すぐさま方向転換ができるのだと思います。もちろん休憩が必要なときもあります。
私は、すっきりしたほうが好きなんです。
ただ、人間生活をしていると、地球に生まれてきたことっていうのはいろいろ不便なこともあるんで、どうしたって何か問題があるわけですよね。それはくじけないで対処したり、改善の方向を選ぶっていうファイトが、私はわりかしあるほうだと思います。
(同上P141)
これは思わず、自分が「コジコジだ」「宇宙生命体だ」ということを、うっかり口を滑らせてしまった瞬間の対話のように聞こえます。
不便な地球で、しっかり地に足をつけて生きていけるファイトがある、と自分で言い切るあたりは、さすがとしか言いようがありません。これも「自分で選択する」の一環なのでしょう。
以下、「ツチケンモモコラーゲン」のなかの「選択とバランス」から、さくらももこの名言を抜粋しておきます。
自分が考えてるからそうなっているっていう話だけで。
私が自分の存在を自覚して、自分の存在している世界を快適にしようという選択を、生活の中であれこれやってるだけなんです。
それは、迷うということを選択の段階で選択しているんです。迷うことを選択するのが好きな人もいますよね。
選択しているという自覚をもつことは大切だと思っているんですけど。そのほうが、誤った選択をした場合の軌道修正もすぐにできますしね。自分がどういう選択をしているかというこを、日常的にクリアにしていることが肝心だと思っているんです。
自分の内面的なことも物理的なことも含めてのバランスを俯瞰で見て考えるようにしています。(略)
無理をしないでできることをやるという選択を最近は好んでいますね。
腹の底から分かるっていうことは、それを実行に移すっていうことだと思います。
繰り返しますが、人生は選択の連続です。
それが思い切ってできなかったり、迷ったりするので、占い師を訪れる人もいます。私も同様の相談をよく受けます。
「自分が主体的に選択すること」「その選択の結果が今だ」「自分自身が快適だと思う方向を選択すること」さくらももこはそう言っているのだと思いますが、私の占いのスタンスもまさにそのままで、今この本を読み返して驚いているところです。
さくらさんもこんなこと言ってたんだ、と。
さくらは、さらにこう述べています。
今、この瞬間に存在している自分の状況というのは、特殊なケースを除いては、すべて自分の選択によるものですから、誰のせいでもないわけです。
(ツチヤ)特殊なケースというと?
何らかの圧力による強制をうけたりして、自分自身の選択の余地がない場合とか。例えば、幼い頃は親の強制で選択の余地がないことも多いですし、戦争している国の国民なんかは選択の余地がないですよね、いろいろ。特殊なケースとはそういうケースです。
(ツチヤ)妻が高圧的で逆らうことができない場合は入りませんか?
それは離婚という選択があります(笑)。
自分が本当はどうしたいのか、もっともっと考えるべきだと思うんですよ。生活の細かいことまで自分の選択なのだということを意識しながら常に細かくいろいろ考えたほうがいいと思いますね。
選択の余地がない特殊なケースに「戦争」「親の強制」などの自分ではどうにもできない状況をあげています。この視野の広さにもあらためて感服します。親による圧力から自国や他国による圧力まで幅広く思考が及んでいます。
最後に子ども時代について話しています。
私の子供時代は、そんな感じで冷めていたんですが、だからって別に生意気だったりやたらと大人びた態度をとったりするようなことはなかったんですよ。どちらかというとモタモタした様子で、外見ははにかみ屋に見えていたと思います。
(P173)
私は、天才の宿命的な孤独感について、前の記事で書きました。
「はにかみ屋に見えていたと思う」という部分に、強引かもしれませんが、私はすこしその片鱗が見え隠れしているように感じてしまいます。
追伸。
上記のさくらももこの発言をあらためて読み返しますと、まるで「バシャール」や「神との対話」など、スピリチュアル系といってもいわゆる宇宙存在系の「トンデモ本」が重なります。さくらももこが挿絵を描いた「アミ 小さな宇宙人」とも通底しているでしょうか。