「ひとりずもう」が、ちびまる子ちゃんのその後、つまりさくらももこの中学高校大学からデビューまでを描いたエッセイであると先の記事に書きました。
「憧れのまほうつかい」(新潮文庫)には、
「ひとりずもう」には書かれていない、高校生のさくらももこが描かれています。
「ひとりずもう」だけですと、さくらももこの美と絵画への憧憬と希求という強い心持ちがまったく分からないと思います。
短大へ行くのかどうするのか、絵を描くのが大好きな自分の将来はどうなるのかを悩んでいる最中に、彼女が出会った画家、絵本、画集は素晴らしいものでした。また、それを手に入れるさくらももこの執念のすごさが、素晴らしすぎるのです。
高校2年生の冬、さくらももこは「その素晴らしい作品」を発見します。
いつものように書店の絵本のコーナーに行き、いわさきちひろや安野光雅の本を見たり、その他の絵本を物色している最中、偶然に“エロール・ル・カイン”という名前を見かけたのである。
(「憧れのまほうつかい」P10)
「おどる12人のおひめさま」という絵本でした。表紙を見たとたん「ひと目でその絵に恋してしまった」さくら。いつもなら1冊買うのにもかなり考慮する彼女が(少ないお小遣いから買うので)、「何もためらわずにレジに直行した」と書いています。
おそらくこの本は、私にものすごい感動を与えてくれるに違いない。そんな期待でいっぱいであった。
(P11)
そうだろうと思います。「ちびまる子ちゃん」の世界観からは想像しにくいですが、さくらももこの魂の原風景を想像することを無理なく助けてくれるル・カインのイラストだと思います。「コジコジ」の住んでいるメルヘンの国を知っている人であれば、すんなりその美の世界を、さくらももこという作家とともに受け入れることができるかもしれません。
絵本を購入した彼女は自転車をぶっとばして帰宅し、「この世の素敵を全て集めたかのような絵本」のページを「ああ…」とため息をつきながら捲ります。
すっかり魅了されて、その後何冊か手に入れます。どうしたらこのような絵が描けるのか、そのテクニックに圧倒されつつ探求します。
この本で私は、さくらももこのル・カインへの憧憬と情熱を思いっきり感じることができました。痛いほどに彼女の気持ちが迫ってきたのです。
「ちびまる子ちゃん」や「コジコジ」の絵で、ル・カイン風のものがさくらももこの手によってたくさん描かれています。私もこの本「憧れのまほうつかい」を読んで、はじめてル・カインという画家とその絵を知るに至りましたが、ああ、本当に好きだったんだなぁ、と納得した次第です。
コジコジの世界観は、ル・カインの画風とぴったりと合っているように思えてなりません。
エロール・ル・カインは、1989年に47歳という若さで死去。
さくらはある日、書店のコーナーに「遺作」という文字を発見したのだそうです。
私の憧れの世界を描く魔法使いはもういない。あの美しい世界がどうやって描かれていたのか、もう知ることはできない。ル・カインにはもう決して会えない。
いくつもの悲しい思いが次々に浮かんだ。しばらく書店のル・カインのコーナーの近くに静かに立ったままで居た。シャガールが死んだ時よりショックだった。
(P24)
同様のショックを今、地球に住んでいるさくらももこファンは感じています。
その後さくらは、
もし、私にあんなにたくさんの憧れを与えてくれたル・カインに、何かできることがあればと色々考えた。そして、彼のことをいつか書いて紹介したいと思うようになってきた。
(P28)
と、関係者を通じて、日本のル・カインコレクターに会い、さらにル・カインの話を聞きくためにイギリスに渡ります。
その様々が、いつものさくらももこ調でこの本には綴られています。
ル・カインの他にも、さくらももこを魅了してやまない画家は何人かいるのですが、ル・カイン以外のエピソードで印象深いのが、いわさきちひろです。たまちゃんといっしょに中学生のときから夢中になっていたそうです。
たまちゃんと同じ高校に合格したさくら。
入学前にお母さんが「新しいカバンを買ってあげるから」というんで、私は「カバンはいらないからそのかわりにいわさきちひろの作品集を買ってほしい」っていったんだ。どうしても欲しいと思ってたんだけど、二万円くらいしたんだよね。ちひろの作品集のためなら、カバンなんて中学から使っているやつで十分だと思ったんだ。カバンなんてたった三年間しか使わないけど、ちひろの作品集なら一生の宝物になるからね。
(P124)
こう、巻末のインタビューのなかで語っています。質問者も
そのへんの見極めっていうのか、思い切りのよさってさすがですね。
と感心しています。
私もまったくこの質問者に同感しました。
この見極めと思いきりのよさが非凡です。凡人ですと、そうはいっても親ですから、両方買ってくれるだろうくらいの甘い気持ちを抱くかもしれませんし(私はこれかも)、2万円もする本を買って、のちに興味を失ってゴミになってしまうかもしれないことを考えたら、とても新品の学生カバンと引き換えにする勇気はないかもしれません。
ル・カイン同様、さくらは、自分にとっての「本物」「宝物」を敏感にキャッチしていたのだろうと想像します。
けれども、誰でも経験があると思いますが、人間は、とくに子どもや10代のころは、突然夢中になる「もの」が心に飛び込んでくるものです。
何だか分からないけれど、心を惹きつけられてやまない不思議な出来事。
けれども、あとで考えると何であんな気持ちを抱いたのだろうと思ってしまうことがあります。それほど、そうした情熱は冷めやすいものでもあるのです。そのときは、確かに一生の宝だと思ったとしてもです。
そこを見越した親は、たいていそんなものやめなさい、カバンを買ったほういいよ、などとなだめたりします。
ところがさくらの母親は、高校の学生カバンの代わりに画集を買うことを許したわけで、なかなかの人のように思えます。いや、カバンなら中学時代のがあるし、お姉ちゃんが使っていたのもあるし、くらいの軽い気持ちだったのかもしれません。
が、私が注目するのは、だからと言って、加えて新しいカバンを決して買ってあげなかったことです。例えば、じゃあ、高校入学のお祝いに画集を買ってあげるよ、カバンは別で、といったようにしませんでした。
これは、娘の「選択」と「覚悟」を尊重したことになるので、娘の心の自立や尊厳というものを育て守ることに少なくない影響を及ぼしたのではないか、と私は感じています。
母親が意図していたなかったとしても、自然な流れだったのだしても、単に本当に金銭的余裕がなかったから致し方なくだったとしても、結果そうなったということは、運命なのかなんなのか、いずれにせよ、そうです、やっぱりさくらももこが言うところの「快適な選択」に従った、あるいは導かれただけなのだろう、とあたらめて思います。
とはいえ詰まる所、さくらの情熱の強さは凡庸からはほど遠いのであり、今年の流行り言葉を借りれば「半端ない」、ということなのでしょう。
それからデビューまでの道のりは、心身共にハードだったとはいえ、年月はさほど要さなかった(5年も10年もかからなかったという意味で)ことを考えれば、情熱が冷めるほどの時間はなかったのかもしれませんが、それでも、中学から高校の3~6年というのは、長じてからの同年月とは比べものにならないくらい密度の高い時間だと思います。
一方でさくらももこは飽きっぽかったらしいのです。
先の記事でも引用しました。土屋賢二の新聞への追悼寄稿。
これほどの集中力を発揮するのに、集中力が続かず、長いドラマや好きなミュージシャンのコンサートも最後まで見ていられないとおっしゃっていたから、夢中になったかと思えば飽きやすい子どものようだった。
天才性のひとつに飽きっぽい、というのはありますが、ここで披瀝されている「集中力」と「飽きやすい」は、それとは少し違うように感じます。
ル・カインらお気に入りの画家たちとその絵画への「集中力」のすごさは、並外れています。その執心ぶりは漫画家として大成する素地でしょう。
一方で「飽きやすい」。長いドラマやコンサート、ということですので、じっとしていることが苦手なのでは、と想像します。単なる「飽きっぽい」とは少し違うのかもしれません。じっとして何かを見たり聞いたりするのが苦手だというのは、何か特別に突出した能力を持っている人間に見られがちです(人の能力の特徴や発揮の仕方はそれぞれですので定型はありません)。漫画を描くのもしばらく座って描くわけですが、不動でも静止しているわけでもないですものね。考えている、描いている。
受け身の状態が苦痛なのかもしれませんね。
そもそも「集中力」というのは労力を伴うので、人によって差はありますが、そうそう長く続けることはできません、誰でも。
ですので、さくらの集中力は普通の人の何倍ものエネルギー量だったのかもしれない、ということもあるやもしれませんね。
ル・カインたちへの思い入れの強さは、そうした地上のエネルギーを超越していたのでしょう。
さくらさん、天国で、メルヘンの国で、ル・カインたちと会って楽しいお話でもしているでしょうか。それとも憧れの人と会って、いくらか緊張しているかな。