爆笑問題の太田光が、あるイベントでさくらももこといっしょになったとき、さくらももこが大嫌いだと、ずいぶんと悪口を言ったのだそうです。その後、それを知っていてさくらももこは「爆チュー問題」と「ちびまる子ちゃん」のコラボをぜひお願いしたい、と依頼してきたそうです。
そもそも太田は、なぜそれほどまでにさくらももこのことが大嫌いだったのか。さくらももこが面白過ぎなので「嫉妬」だったのでしょうか?
を、このたびはじめて読みました。
まる子のその後、ということです。
中学高校大学時代からデビューまでが描かれた、いつも通りの面白エッセイです。
様々な感想があります。「ちびまる子ちゃん」のような世界観を期待して読んだけれども違っていてがっかりした、から、大爆笑だった、まで幅広い。私は、そのどちらでもない……ですね。がっかりもしませんでしたし、大爆笑もありませんでした。
おしゃれにも男子にも興味がないことが延々と書かれているのですが、あるときすれ違った男子に片思いらしき気持ちを抱いたりするくだりもあります。
しかし、このエッセイの醍醐味は、「夢」を語っているところではないでしょうか。つまり「自分のやりたいことをやりたいんだ、やるんだ」という気持ちです。誰に否定されようとも、バカにされようとも、自分の才能を疑うときがあっても。それが「私の感想はそのどちらでもない」と上に書いた理由です。
ずっと絵が好きだった彼女。小学校3年生からずっとずっといつもいつも絵を描いていました。「ちびまる子ちゃん」は、どうでしょうか、そのような雰囲気はないように思いますが。ゆえに、「ちびまる子ちゃん」をそのままイメージしていると、「ひとりずもう」には少し違うまるちゃんを感じて落胆する人がいるのかもしれません。まる子ちゃんよりもずっとさくらももこに近いさくらももこが自分について書いている、というややこしい感じでしょうか。しかも思春期。
エッセイの後半。ちょうど真ん中辺りから高校生になります。そして17歳になった夏休み、ここから将来についてのあれやこれやの独特のつぶやきである「ひとりずもう」が始まります。
本当は部活もあったのだけれど「何もしない夏休み」というタイトルのなかでの彼女は、ダラダラとした日々を過ごしていました。
ひとつも悪いことはしていないのに、私は毎日母から文句を言われていた。ダラダラするなと言うのである。こちらとしては、ダラダラする以外にはやる事が無いというのに、それすらしてはいけないなんて言われたら、死ねと言われているのと同じだ。
(P103)
今まで自分は真面目だと思っていたが、それは勘違いだったのかもしれない。万引きとか売春等の犯罪行為をしていないから真面目なのだと思い込んでいたが、部活をサボり、文化際もサボり、先輩が泣いているのをただ見ているだけなんて、真面目な人間のする事じゃない。私は不真面目な人間なんだ。
新しい発見だった。自分は真面目なんだと思い込んでいるとしんどい気持ちになる時もあるが、多少不真面目なところもあるのだと思うといろいろと納得がいく。不真面目なところがあるので、部活をサボっちゃったり呑気にしちゃったりするけれど、万引き等はしない、それが私だ。
(P125~126)
「ひとつも悪いことはしていないのに」
「不真面目なところがあるので、部活をサボっちゃったり呑気にしちゃったりするけれど、万引き等はしない、それが私だ。」
これは、コジコジです。
「コジコジ第1話」にこのようなシーンがあります。
向上心が無さすぎると先生に職員室で叱られたコジコジ。毎日いったい何をしているんだと問われてこう答えます。
え?毎日?あのね 空飛んで 遊んでね そんで おかし食べて 山に行って遊んだり 海に行って遊んだりね あと 寝たりしてるよ
遊んで食べて寝てるだけじゃないか、と驚く先生に、コジコジはこう言います。
えっ 悪いの? 遊んで食べて寝てちゃダメ?盗みや殺しやサギなんかしてないよ遊んで食べて寝てるだけだよ なんで悪いの?
さらに、将来何になりたいんだと問われて、
と答えます。
「コジコジはコジコジだよ」は、あまりに有名なセリフかもしれません。文脈を知るとこの言葉の深い意味、この声の純真さが心に響き渡ります。
さていよいよ、高校2年生も3学期が終わって春休みになりました。
漫画家になりたいと思っていたのですが、何もしないで高校の2年間が過ぎ去ったことに焦りを感じはじめます。
ラブコメの少女漫画を描きます。その大変さにくじけそうになりながらも、描くしかない、自分の人生を地道に切り開くしかない、と描き続けます。
漫画を描くというのは非情に地道な作業だ。(略)孤独にコツコツとやるだけである。でも、この地道な作業が大きな夢につながっているかもしれない。
ここから先、どのような気持ちで、どのように漫画を仕上げていったのかが書かれています。これを読んでいると、2018年前期の朝ドラ「半分、青い。」のスズメと重なります。スズメはデビューして連載もし、単行本も出せたものの、次第に描けなくなって漫画家を途中でやめることになりはしましたが、その取り組みの壮絶さは、ここでさくらももこが表現しているそのままです。
初めての投稿は問題外の結果となり、自分のレベルを思い知って再挑戦をする気力は失われます。
その後、さくらは地元の短大に推薦入学を希望します。
夏休み前に、短大の国文科への推薦希望者は「作文の模擬テスト」を受けることになりました。
その作文が、ものすごくほめられた。評価のところに、「エッセイ風のこの文体は、とても高校生の書いたものとは思えない。清少納言が現代に来て書いたようだ」とまで書かれていた。
(P183)
学校の外部でやった小論文のテスト受けたんだよね。「私の好きな言葉」っていうテーマで四百字で作文を書くっていうのだったんだけど、これが結構うまく書けたんだよね。(略)私のは誤字なんかのマイナスだけで九五点がついたんだから。それでその採点をしてくれた会ったこともない外部の先生のコメントが、「まるで現代の清少納言」っていうんだから。すごい褒められ方でしょう?
(略)そんな採点をしたってことすら、きっと覚えてないだろうね。
(「憧れのまほうつかい」P136~137)
さくらはこのときの喜びを「ひとりずもう」ではこう表現しています。
冷静になるように心掛けたが、みぞおちの奥から頭のてっぺんまで熱くなるのが感じられた。うれしい。こんな私の書いた文章を、そんなにほめてくれる人がこの世にいたなんて、うれしくてたまらない。
(P184)
帰宅すると風呂場でホースのシャワーを浴びました。
風呂場の窓が、昼の光で輝いていた。ホースから出ている水がキラキラ輝いていた。水しぶきも全部輝いていた。このろくでもない風呂場全体が、虹色に包まれているように感じた。
(P184)
さくらももこは、この賞賛を受けて「エッセイ漫画」を描こうと思いつき、「ちびまる子ちゃん」や「コジコジ」を生み出していくことになります。
この、模擬テストの添削指導員はいったいどんな人だったのでしょう。
入試小論文といのは、いわゆる「型」を求められるもので「個性」はむしろ減点されたりする、という印象を私は持っています。「エッセイでも小説でもないのだから」と。
個性を発見できるこんな素晴らしい指導員がいるのですね。杓子定規ではない。
あるいは、そう賛辞を贈らなければいけないほどずば抜けて素晴らしい文章と内容で、これは才能あるぞ、小論文とはこう書くものですなどと添削するなど野暮なことをして才能をつぶしてはいけない、などと思ったのかもしれません。いや、思うも何も、反射的に「高校生の書いたものとは思えない」とコメントを書いてしまったのかもしれません。素直な反応で。視点を変えれば、さくらさんの文章がそうさせた、ということなのでしょう。
いずれにせよ、この添削指導員の言葉が、ひとりの人間の将来を大きく切り開いてくれるものとなったのは事実です。
ここで思うことは、学校にせよ、塾にせよ、どこぞの添削にせよ、その指導の言葉によって、一人の生徒の、人間の未来が左右されるということがあるのだ、ということです。だからこそ、「先生」というのは本来とても大きな存在であり聖職と言われたりもするのだと思います。生徒が気づいていない「何か」に気づいて、気づかせてくれる。
残念ながら往々にして逆のことが(今の)教育現場では起こりがち、という現象があちらこちらで目立ちます。
学校の先生に限りません。親かもしれません。兄弟姉妹、親類、友人かもしれません。会社の同僚、後輩、上司、社長かもしれません。旅先で出会った誰かかもしれません。私は占い師ですので、そのような場面により多く出会っているひとりです。
人に投げかける「言葉」というものは、非常に大切なものです。
「たったの一言」が人の人生を変えたり、希望を与えたり、逆に落胆させたりします。
ゆえに、有毒な言葉を吐かないように注意することは人間として大事なことだと思っています。
心療内科、精神医学的にも、投薬よりも「言葉の薬」のほうが有効なのではないか、と私は思っています。
「みぞおちから熱くなる」感覚を得たり「お風呂場の虹」を見るようなとき、人は希望、夢に向かって前進していけるのでしょう。