ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

高みにのぼる?~塔から転落するな、いや転落しろ~知性という土台~支配的圧力を避けるための知性~批判と戒め~

組織支配者たちの横暴、という構図が少し前から私たちの目に見えるようになってきました。

いや実は、そいういった支配構造は、どこの集団にもあって、すでに誰でもが見聞きし、経験しているものなのでしょう。

政界、大学、協会、大企業という大きな集団から、あらゆる職場、小中高等学校、ご近所付き合い、父母会、ママ友、家庭…、あらゆる場所に「それ」はあります。いわゆるイジメも同質の構図だと思います。

ちょっとおかしな人物からの嫌がらせもなかなか解決困難ではありますが、昨今報道されている圧力的支配、「権力」を持った人々の「独裁的振る舞い」という闇(病み)から逃れるのは、自身がそのなかでの成功を望んでいるのなら、それが好きなことであるのならなおのこと至難の業です。

 

そこで私は特に、理事などの肩書を持った人々の権力が、なぜ、ほとんど必ず独裁化していくのか、ということに思いを致してみました。

といいますのも、「高い場所へのぼる」ということは、「景色が開ける」「遠くまで見える」という良い印象を私は持って生きてきましたので、「その場所」へ行った人々が転落していくというのは、いったいなぜなのか、と思ったわけです。いや、こんな横暴な人々ですから、むしろ転落してくれたほうが幸いなわけで、いつまでも善良な人々を組み敷いたまま高みの見物をしている人は、おそらくまだまだあちらこちらの組織にいることでしょう。

 

タロットカードに「塔」というカードがあります。

さまざまな意味がありますが、そのひとつに「バベルの塔」的意味があります。つまり、高みを目指し過ぎて崩れ落ちる状況、不遜になってしまった人などを表しています。タロットカードは善エネルギーのカードですから、「塔」のカードには、天空からの稲妻に打たれて塔から地面に放り出される人間が描かれています。

いわゆる「高み」から、思うがまま、優越意識、自己顕示と自己満足の価値観で立ち振る舞っている人たちは、本当ならば神の鉄槌が下ってもおかしくないのだと思います。ところがこの世では、どうも悪人のほうが強く、善人やまっとうな人々は、泣き寝入りや我慢を強いられ、それが「大人」の態度だ、などと不条理な論理で押さえつけられています。意見すれば、要注意人物となり居場所を奪われます。

あらゆる場所に、暴力的集団やマイルドヤンキーやカルト教団ヒエラルキー的上下関係の強力な抑圧的組織構図があります。どこの国にもあるのですが、日本人の場合「意見する」といった批判検討的精神が教育されていないので、あたかもこういった社会構造が普遍的常識であるかのような感覚を持っている人が多いようです。

 

理事などの役職は、その組織のなかの上層、ピラミッドのてっぺんです。

丘や山に登ったり、高層ビルや東京タワー、スカイツリーから見る景色はどうでしょう?遠くまで見えるし、広く見えます。視野が広がります。

視野が広がるということは、心も広くなり、理解の幅も広がるということですから、寛容や多様という尊い精神を持つことができるのだと思います。

ですがどうやら真逆で、彼らの視野はむしろ狭くなっているようです。いわゆる「偉くなって」しまうのでしょう。そして、もっと高く、と際限なく思っているかもしれません。まさしく「(バベルの)塔」です。

 

威張ること、従えること、地位を守ることに汲々とし、頂点にのぼることだけが目標で、人々が自分にひれ伏して言うことを聞くのが愉快で心躍るのでしょう。人間としての勘違いが、組織のなかで醸成されてきたのでしょう。その片棒を担いているのは、実は周辺の人々なのだ、ということも忘れてはいけないと思います。イヤイヤ従っている人も、積極的にゴマをすっている人も。

 

なぜなのでしょう。どうしてそんなに視野が開けたところにいて、狭隘なのでしょう。自己中心的でいられるのでしょう。

 

アメリカのマケイン上院議員の葬儀でのオバマ元大統領の弔辞にこうありました。

「この国の政治や公職や公の議論の大部分が、小さくて意地悪でせせこましいものに思える。大げさな物言いと侮辱と、にせの対立や加工された怒りをやりとりするばかりで。これは、勇敢でタフな振りをしつつも、実は恐怖から生まれる政治だ」

この葬儀では、その名前は出さないものの、トランプ大統領への批判が相次いだそうです。マケイン氏は生前、トランプ氏には葬儀に来てほしくないと言っていたそうで、実際招待されなかったということです。

ここでのポイントは、

「これは、勇敢でタフな振りをしつつも、実は恐怖から生まれる政治だ」

です。 

支配欲旺盛で、抑圧的で強権を振う組織、集団のリーダーというのは、実は常に「恐怖」を感じているのです。地位を奪われる恐怖かもしれませんし、下の者たちが命令に従わないかもしれないという恐れかもしれません。

吠えて怖がらせて従える、という独裁体制が楽なのだと思います。あるいは、それしかできない。

それも、みんなが怖がってくれるうち、ですが。

 

でもどうして?私ははたと思いました。

「知性」の問題ではないか、と。

「知性」は様々な場面でとても大切な要素です。知性が足りないと、理解することができません。理解できないものは排除してしまいます。とはいえ、沢山の「知」をあれこれ持ち合わせることは不可能です。しかし、「知」のある程度のベースと「知」への希求や憧憬があれば、「知らないこと」を排除したり、怒号したりすることはしないと思います。とりあえず「分からないこと」は「知ろう」とするからです。

最終的には「人間性」ということになるのでしょうが、その人間性も、生まれつきのものもありますが育成されるものでもありますから、「教育」ということがいかに大事か分かります。

 

脳科学者の茂木健一郎が「本をたくさん読むことはその本を積み上げただけの高さから景色を見ることができるということだ(正確な表現ではありません)」というようなことをどこかに書いてました。

またこうも言っています。

科学の特徴と言われる、「客観的にものごとを見る」能力、「自分を離れて徹底的に検証する」能力は、結局「自分以外の人の気持ちになる」能力であり、決して非人間的な、冷たい能力ではないのです。

科学にかぎらず、知性というのは「どれだけたくさんの人の立場で考えられるか」ということだとぼくは思います。それは「読む」ことによって養われる力なのであり、知的活動の現場で、実際に重要視されているのが、積極的な読書なのです。

(「頭は本の読み方で磨かれる」P27)

  

「こうでなければならない」「こうあるべきだ」という呪縛から解放されることが、ぼくは「本当の知性」ではないかと思うのです。

(同上P167)

 

たくさん知れば知るほど知らないことがさらにいっぱいあることに気づきます。プラトンソクラテス)が言うところの「無知の知」です。

つまり、読めば読むほど、学べば学ぶほど、「謙虚」になるのではないでしょうか。ならざるを得ない。本来は、のぼればのぼるほど、そのような人間になっているはず、なっていなければならないと、私は思います。

きっと、現在その独裁振りを暴露されている人たちは、ただただ権力欲や支配欲、優越意識を満足させるためだけに階段をのぼってきたのでしょう。あるいは、途中から意識が変質したのでしょう。

服従的組織のなかでの「古い価値観」もそのまま受け継いでいるので、いくら高いところにのぼっても「新しい世界」を見通すことはできません。考える力も知性も不足しているのはとても不幸なことです。

 

イジメについて様々提言している荻上チキが、こうようなことを言っていました。

社会に出たらイヤなことがいっぱいあるんだからがまんしろと言われる。

子どものときにイヤなことを我慢しない人を育てないと、社会の理不尽さがなおらない。

理不尽を理不尽と言える状況をつくっていくこと。

イヤだイヤだと言う人がいっぱい出てくれば、じゃあ変えようと、となっていく。

 

社会の空気を変えていかなければいけないのでしょう。

理不尽社会に一石を投じてくれたのが、イヤなことをイヤだと公表してくれたのが、若い世代のアメフト選手だったりボクシング選手だったり体操選手(彼女のケースは別の側面もはらんでいるようにみえます)だったりということになったようです。ファーストペンギンの勇気は計り知れません。

それに乗じて、あれこれ言い始めたメダリストや大御所たち。後押しは良いのですが、どうしてもっと早く変えられなかったのですか?

それも、「時代」なのでしょうか。

 

いよいよその時代が日本にもやってきた、と思っていいのでしょうか?

「塔」は土台をそっくり変えて建て替えなけれなりません。

同じ土台に建てないことを願います。

なにしろ、服従して我慢する方がぬるま湯だったり、何も言わないことがエリートだと思っている人々が少なからずいるようですので。

 

葬儀に来てほしくないと言ったマケインのように意思表示をすることは、決して感情的なことではなく、むしろ客観的な意思表明なのだと思います。