ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

「ミステリと言う勿れ」〜癒やしの論理と社会性〜ついでながら「老いの哲学 人生回収⑦」の補足として〜

 興味深いドラマ。久しぶりに民放テレビドラマを取り上げる。

 もう終わっちゃうの?続きが観たい!と思わせてくれる民放のドラマはどのくらぶりだろう。

 

「ミステリと言う勿れ」フジテレビ 月曜日夜9時

脚本/相沢友子  原作コミック/田村由美

出演/菅田将暉 伊藤沙莉 尾上松也 筒井道隆

 

 なんだかとても理屈ぽいドラマ。

 私はこういうのが好きだ。

 原作があるので、脚本家よりも原作者の天才性なのだろう。原作を読んだことがないので較べて論じることはできないが、主人公である久能整(くのうととのう/菅田将暉)のいちいちの論理展開が秀逸。(日本の)現代社会、世間というものを覆っている理不尽や不条理を、持ち前の論理と倫理でよどみなく語る。それが事件解決とともに、関わった人物たちへのカウンセリングになっている。

 久能って何者?探偵?と思っていたら、大学生。滔々と喋りながらも、そういう自分もただの親のすねかじりだと、ときどき弁明する。そして、久能は何か秘密を抱えているのだろうと視聴者に推測させる伏線が張られている。

 

 第2話では、バスジャックにあった数名の乗客たち、そして犯人に対する久能の説示が見事に展開されていく。

 バスジャックによって連れて来られた屋敷に監禁された乗客たちは、そこで犯人からひとつの課題を突きつけられる。それは「これまでに自分が犯した一番重い罪を告白すること」だった。

 屋敷の大広間は、カウンセリング集会さながらの様相となる。

 私は「秘密を語る」というテーマで「老いの哲学 人生回収」についていくつか記事を書いてきたが、まさにこのドラマのこのシーンは「秘密を語る」現場だ。犯罪に巻き込まれた監禁状態という極めて特殊な状況で、彼らは「打ち明け話」をしていく。

 前の記事にも書いたが、秘密を語ることは癒やしにもなるが、聞き手を間違えると逆効果になるという悲劇もあるので、慎重が求められる。

 この現場の設定は、旅先で出会った行きずりの人に語る状況と似ているので、条件は良い。さらに、久能整のようなカウンセラー的存在がいるので尚の事おあつらえ向きと言えるだろう。

 

 例えば淡路一平(森永悠希)。子供のころ駄菓子屋で万引を繰り返していた。するとその店がつぶれてしまった。その事実だけをピックアップすれば、淡路はとても悪い奴だ。しかし、万引を繰り返した、いや、繰り返さなければならないのには訳があった。いじめを受けてやらされていたから。淡路は言う「当時は“逃げていいよ”と言ってくれる人はいなかった。ずっと逃げたかったのに」。

 久能は語る。

僕はつねづね思ってるんですが、どうしていじめられてる方が逃げなきゃならないんでしょう。

 欧米の一部では、いじめているほうが病んでいると判断する。いじめなきゃいられないほど病んでいる。ゆえに、隔離してカウンセリングを受けさせて癒やすべきだと考える。でも日本は逆。いじめられている子に逃げ場をつくってなんとかしようとする。

DVもそうだけど、どうして被害者側に逃げさせるんだろう。病んでたり、迷惑だったり、恥ずかしくて問題があるのは加害者のほうなのに。

たとえば歩いてて知らない人にいきなり殴られたら、周りに言うでしょう?それと同じように先生や親に、あいつにいじめられたよって、あいつ病んでるかもしれないからカウンセリング受けさせてやってよって、みんなが簡単に言えるようになればいいと思う。

淡路 いじめてるほうが、病んでる?オレのせいじゃなくて?

久能 そういう考え方にみんながなればいいと思う。

 困っている人のほうが退かなければならない現場は多々ある。というか、ほとんどがそうだ。加害者側は自己防衛能力が高く、マウントを取るのが得意だ。まともな話が通じないし、仕返しを恐れるなどの理由もあるし、なにしろ相手をするのが面倒だ。ゆえに、周囲の心ある人々も黙してしまう傾向は強い。

 さらに「どうしてやめてって言えなかったの」「やりたくないって言えなかったの」「なんで助けを求めなかったの」などと言って、被害者側の態度を咎める人は多い。不思議なことに、困っている人のほうが悪い人にすらなってしまう。「やめて」と言えないおまえが悪い。加害者より被害者のほうが悪い?そんなことないだろう!

 学校でも家庭でも、職場や地域社会でも、人が集っているところではおそらくかなりの確率で被害者が移動し、加害者が残る。この仕組と言っても良いほどの習癖は、本気でどうにかしたほうが良いと私も思う。

 

 小さな町工場で事務をしている露木リラ(ヒコロヒー)は、バカみたいに毎日同じことをしている自分がみっともない、と嘆く。同じ職場にいた元カレが「こんな小さな世界」を出て「大陸」に行って楽しそうに暮らしている、と話す。

久能 その元カレは筏でもつくって大陸に行ったんですか?

露木 そんなわけないでしょう、飛行機に決まってんじゃない。

久能 じゃあ、その飛行機を飛ばしたのは誰だと思ってるんだろう。

毎日コツコツ時間を守って働いてる人がいるからバスも飛行機も動くんです。大陸に行ってからもそういうことをしてくれる人たちがいるからこそ生活ができたんです。

その元カレが、山奥で完全自給自足をやってる人でないかぎり、話を聞く必要はきっぱりないです。

「そんなこと考えたこともなかった」とつぶやく露木。

 これは耳が痛い。私も若かりし頃、とても傲慢になっていて、しかも自分の行く道に悩んでいるときでもあったので、何をどう話したのかは忘れてしまったが、それに対する父親の言葉は今でもはっきりと覚えている。それはまるでこの久能のセリフと同じだった。「おまえは、ここから駅へ行くのにバスに乗る、そこから電車に乗って目的地へ行く。バスや電車を運転してくれる人がいるから行けるんだ」というような内容だった。私自身、はっと息を呑んだのを忘れていない。

 ここでは、元カレの自慢話やマウンティングは無視しろ、ということだ。

 加えて、どんなに大きなことをする人でもやっぱり、コツコツと積み重ねていくことが大事だし、王道なんだろう、と思う。

 そして私たち地球人は、COVID19パンデミックによって「毎日コツコツ時間を守って働いてる人たち」いわゆるエッセンシャルワーカーの存在を、あらためて意識するようになった。オミクロン株が広がるなかで(2022年1月末)、コンビニ(スーパーマーケット)や郵便、保育や医療、運送やゴミ収集など、生活に不可欠な仕事が止まってしまう状況が、日本でも起きた。私たちは、普段あまり意識することなく彼らのお世話になっている。経済を回す経済を回すと言うけれど、生活の根幹に不具合が生じれば、21世紀に生きる私たち人類は、社会混乱の後あっという間に死んでしまうだろう。経済どころの騒ぎではない。

 露木リラに話を戻す。

 私は思った。小さな町工場の事務仕事が、地味だとかバカみたいだとか言う理由でなく、その仕事が自分に合っていない、得意でない、楽しくないと思うなら、転職したほうがいい。けれどもそのためには、見栄えとか優越感とかで決めるのではなく、自分がほんとうにやりたいこと、を基軸に考えればよいのでは?というのが露木への私からのアドバイスだ。

 

 犯人が表へ飛び出して行って乗客たちに逃げるチャンスがきたとき、それを妨害した柏めぐみ(佐津川愛美)。マスコミが来てテレビ放送されるまで逃げないという。家族に自分を心配してほしいから、と。義母から子どもができないなら離婚して家を出ていくように言われている。

私の犯した最大の罪は、子供をおろしたことです。

 柏が絞り出すように語り始める。それは夫との間にできた子どもだったが、結婚前で体裁が悪いからと義母に言われてしかたなくおろした。そのあと、なかなか妊娠できず、不妊治療に通っている。体外受精なら可能性があると医師から言われたが、義母にも親族にもそれは神の領域、不自然なことはするなと反対されている。

柏 そんなに不自然なことですか?いけないことですか?

久能 人は自然の生き物なので、人がすることはすべて自然の範疇だと思います。人にいちから蜂蜜をつくれと言ってもたぶん無理でしょう。植物のように光合成で酸素をつくろうとしてもまだ同じようにはいかない。そんな神の領域みたいなことを彼らは自然にやってるわけです。だとしたら、人間がする発明や革新的技術を生み出すこともまた自然の範疇だと言えるのではないでしょうか。

だからあなたも、できることでしたいことをしたらいいと思う。

だた、柏さん、苦しいことを薄めるためにより悪いことを望むのは悪いです。それがどうなっていくのか僕は知っているので。

「できることでしたいことをしたらいい」、ナイスなセリフ。

 上記の露木リラに私が言いたかったのも、これである。私も「老いの哲学」のなかで同様のことに何度か言及している。これは、若い世代から高齢者まで、万人に共通する助言であろうと思う。特に高齢者には声を大にしてい言いたい。なぜなら、ここまで己を封じ込めてきたであろう人たちが多いからだ。

「できること」で「したいこと」。人には、やりたいと思ってもできないことだってある。能力やタイミングということもあるだろうから。

 

 この柏めぐみの問題も、言ってみれば淡路一平のいじめ問題と同じで、子どもが産めないなら離婚して出て行けとは、あまりに理不尽だ。背景は違うが、ここで主張されているのは、良い人あるいは被害者が悪にされてしまう、というなんとも惨めな社会の構図だ。

「社会」と書いたが、ここまで来ると社会問題と言わざるを得ない。なぜなら、被害者にあれこれ要求して加害者を守るような社会システムになっているからだ。

 改善するには、人々の根本の思い方を変えなければならない。それは教育かもしれないし、メディアの発信の仕方もあるだろう。あるいは、政治の影響も大きいはずだ。

 久能が淡路に言った言葉が全てを物語っている。

そういう考え方にみんながなればいいと思う」

 

 柏めぐみの告白劇には、もうひとつ重要なポイントが潜んでいる。

 子どもが産めないのであれば離婚だと言い渡されている、と柏が打ち明けたとき、露木リラが「は?ひどい」と反応した。同じ女性として同調するのは当たり前といえばそれまでだが、こうして話をすることの価値がここで示されたように思う。

 荒井裕樹著「まとまらない 言葉を 生きる(柏書房)」に次のような一節がある。

自分の叫びが誰かの怒りになったり、誰かの叫びが自分の怒りになったりしたら、それはもう「リブ的なもの」が芽生えているように思う。2010年代後半に盛り上がった「#MeToo」運動を見ていて、ぼくはヒシヒシと「リブ的なもの」を感じた。

「叫び」というのは不思議だ。実際に声を出すのは一人ひとり。でも、人は独りじゃ叫べない。一人がやるけど、独りじゃできない。そうした「叫び」が、世の中を変えていくのだろう。

(P70)

※「リブ的なもの」

1960〜70年代、世界的にwomen's liberation movementと呼ばれる社会運動が盛り上がった。<性差別撤廃や女性の抑圧からの解放を求める女性運動>のことで、日本では和製英語で「ウーマン・リブ」と呼ばれることが多い。

リブという運動は、喩えるなら、「すり減った自尊心を抱きしめて、もうこれ以上『わたし』を失いたくないと叫ぶこと」かもしれない。(同上P69 〜70)

 柏の「叫び」が、露木の「怒り」を呼び起こした。

 ゆえに、「話すこと」「叫ぶこと」、21世紀ならSNSに「書くこと」は、理不尽に気づいたり、同調したり、理解したり、変革のためには必要なことだ。

 最近の日本人は怒らない、とよく言われる。海外の人々もそれを指摘する。この黙って眠っているような国民は、権力者、為政者たちにとっては好都合だ。

 さらに、このところ多くニュースになる巻き込み型の自死、無差別殺傷事件。社会の不安定を指摘する声もあるなか、こういうのは原則自己責任だ、と言い張るコメンテーターもまた目立つ(こういう人はなぜか声が大きい)。

 荒井裕樹はこう書いている。

もし自分が苦しい思いを強いられた時、「自分で自分を殺さないための言葉」はどちらだろう。

(同上P71)

 

 最後にもうひとつ。

 第1話で、新人刑事である風呂光聖子(伊藤沙莉)は、退職しようかどうしようか迷っている。現場にも連れて行ってもらえないし、男性刑事からは怒鳴られてばかり。そんな風呂光に久能が言う。

風呂光さんがなめられないように気をつけなければいけないのは、この署のおじさんたちにだと思います。それこそが、風呂光さんの存在意義だと思いますけど。

(略)

おじさんたちって、特に権力サイドにいる人たちって、徒党を組んで悪事を働くんですよ。都合の悪いことを隠蔽したり、こっそり談合したり、汚いお金を動かしたり。そこに女の人がひとり混ざっていると、おじさんたちはやりにくいんですよ。悪事に加担してくれないから。鉄の結束が乱れるから。風呂光さんがいる理由って、それじゃないですか。おじさんたちを見張る位置。男のロマン至上主義の人たちに混ざれないで困ってるんでしょうけど、至上でもなんでもないんで。あなたは違う生き物なんだから、違う生き物でいてください。

 これって、あれだよね。オリンピック組織委員会森喜朗が女は話が長いとかなんとか言って追い出そうとしたあれ。

 正しいことを言う人(女性)がいると、あいつ(あの女)はなんだ、とか言って追い出そうするおじさん、おじいさんが、あらゆる場所、集団にいる。

 本当のことを言う人、正論を述べる人は嫌われる。なぜなら世の中が嘘でできているから。その背景に横たわっているのは、権力の悪事と市民の虚栄だ。嘘がつけない人には「おとなになれよ」が定番の助言。

 

 社会学者の富永京子がどこかでこんなことを言っていた。

「自分の受けた理不尽を自分のせいにする人はとても多い」

 

 田村由美。私は、このドラマではじめてその存在を知った。

 同じ漫画家のヤマザキマリとの出会いも嬉しい偶然だった。興味深く知的な語りをする人だなと知ってファンになったときには、まだ「テルマエ・ロマエ」の作者だとは知らなかった。田村はヤマザキのようなエッセイは書かないのだろうか。

 こういう新しい出会いがこれからもまだまだあるのかな、と思うと長生きしたいなと思ったりもする。が、そのためにはぜひとも、社会が優しくなってほしいとも思う。

 

 内田樹は「コロナ後の世界(文藝春秋)」という書物のなかで、安倍菅政権を振り返って次のように書いている。

『「生きている気」がしなくなる国』というタイトルのエッセイ。

人間は他者からの敬意を糧として生きる。それを失ったものは「生きている気」がしなくなる。日本人は今そのようにして国力の衰微を味わっているのである。「誰の責任だ」と声を荒立てても仕方がない。

(P41)

 

「自分で自分を殺さないための言葉」を大切にし、「自分の受けた理不尽を自分のせいにしなくていい社会」を、「みんなが求めるようになればいい」と思う。

 

「ミステリと言う勿れ」。中だるみせずに最終話までいってほしい。

f:id:risakoyu:20220128093201j:plain

「ミステリと言う勿れ」 ©2022kinirobotti