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死に支度をはじめた私~「ヨーコさんの言葉“2008年冬”」~死神が教えてくれること「死神幸福論」~

「ヨーコさんの“言葉” わけがわからん」

佐野洋子×北村裕花

講談社

のなかに「2008年冬」というエッセイがある。

 

私が「ヨーコさんの言葉」にたどり着いた経緯は、別の記事に書いた(私が「ヨーコさんの言葉」にたどり着いた道のり~早朝にEテレの語学番組を観たご褒美~)。

 

佐野洋子は2010年に亡くなっている。「2008年冬」というエッセイから2年後だ。

そう思うとなんとも切ないのではあるが、このエッセイはすごい!

 

私の乳ガンは 女の耳鼻咽喉科医が 見つけてくれた。

「すぐ病院にいきなさい」と言われ、

やっぱりガンだったので 切ってもらった。

と著者は書きはじめる。

まず、え?耳鼻咽喉科の医者が乳ガンを発見って、そんなことあるんだ、と刹那に思いがよぎりつつ、静かに語りの進んでいく随想についていく私。

 

一週間の入院後、抗がん剤で「ツルッパゲ」になって帰宅した著者。使いものにならないので寝たきりで韓流ドラマを楽しんでいたらあごがはずれた。骨に再発。

医者に訊くと、ホスピスを入れてあと2年の命、死ぬまで1千万円くらいかかる、と。抗がん剤も延命もやめて普通の生活をすることを選択して、ヨーコさんは「ラッキー」と言う。

私は自由業で 年金がないから 

九十まで生きたらどうしようとセコセコ貯金をしていた。

そして、近所のジャガー代理店でイングリッシュグリーンの車を買う。車庫入れが下手でしかも家の車庫が狭いので一週間でボコボコになった、そうだ。

子供も育って、母も他界して、今の自分には何の義務もなく、やりたい仕事があって心残りだというほどに仕事が好きでもない、と言う著者はさらにこう書く。

二年と言われたら 十数年私を苦しめた ウツ病がほとんど消えた。

人間は神秘だ。

人生が急に充実してきた。毎日が とても楽しくて仕方ない。

死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う。

 

タロットカード「死神」が教えてくれる事々は色々ある。

この「ヨーコさんの言葉」もそれだ。とても分かりやすい体験談だと思う。

死ぬのに「楽しい」ってどういうこと?死ぬのは怖い、余命が分かって自暴自棄になる人も多い、というか大抵はそうだろう。

ヨーコさんの「ウツ病がほとんど消えた」というのは象徴的だ。近々死ぬことが分かって、社会や生活や人生の細かいあれこれ、つまり生きることの束縛や面倒から解放された状態になった、ということの証しだ。死への得体の知れない恐怖よりも、なにやら「心が軽くなった」ことのほうが大きかったのだろう。

ヨーコさんの場合は高い年齢ということもあるだろうが、それでも、年齢に関係なく(幼い子どもは別として)(いや、ときに幼い子どものほうが悟っている)、ある程度知性が育まれた大人なら誰しも、「死」「人生のタイムリミット」ということを心の隅に置きつつ日々を生きる、過ごすということの大切さを「死神」は教えてくれている。

 

「死神」は私たちを怖がらせているわけではない。

たとえば、明日やればいいや、来年やればいいや、これが終わったら、あれが手に入ったら、お金がたまったら、結婚したら、卒業したら、定年退職したら……やろう、と私たちは先延ばしにすることが多い。まるで永遠の命があるかように。若いときはとくにそうだ。自分が年を取るなどとは夢にも思ってない。しかし、あるときハッと気づく。え?もうこんな年齢、こんなに時が過ぎたんだ、と。

最近はそこで肉体的なアンチエイジングで永遠を獲得しようとする。そのうち人間は死ななくなる、とも言われはじめた。じゃあ、何百年も、明日やればいいや、100年後にやればいいや、と体たらくな暮らしをするというのか?なんだかつまらなそうだ。金持ちのこれ見よがしの豪遊だって、何百年も続けられるものなのか?それを古代から地獄と言ってきたのではなかったか。そもそも見栄を張りながら、あるいは誰かを恨みながらこれからさらに100年も200年も生きたいだろうか。

 

先延ばしにしたことが実行される日はまずやって来ない、とは自己啓発本でもよく見かけるフレーズだ。その通りである。読まなかった本は、あなたが死んだあと棺桶に入れられて燃やされることも、お墓に遺体といっしょに埋められることもなく、遺品整理のあとゴミ焼却場に運ばれる。ブックオフの棚にでも並べられれば、命を永らえられる。

 

私たちは、社会や世間体というものに拘束されて生きている。こうしなければいけない、この仕事しかない、この生き方しかない、と思い込まされている。ゆえにいわゆるブラック企業はなくならないし、パワハラは横行する。

明日死ぬとしたら、満員電車に耐えてストレスのかかる職場へ今日行くだろうか?行こうと思うだろうか?行きたい?私は、気分の良くない所へは行きたくないので行かない選択をする。もしその場所が自分にとって最良の場所なら、是が非でも行くだろう。が、私は心安らかに旅立ちたいので、静かな場所で過ごしたい。

 

「死神カード」は、自分の「死」を想定したとき「何をするのか、したいのか」を問い掛けてくるカードだ。そう想定したときに「いちばんやりたいと思ったこと」それが「自分の本当の望みである」ということを教えてくれる。

「死」を想定するということは、あらゆる条件を排除して考えるということだ。条件や常識と言われるルールは、私たちの行動に圧力をかけ、ときに諦めさせる。

ゆえに、明日死ぬという「死神瞑想」をするときに、お金や能力や家族という条件を足枷にする必要はまったくない。それをする、それができるあらゆる条件は整っていると仮定して考えなければ意味がない。

何でもできるなら何がしたい?それが自分のしたいことだ。

たいていの条件、足枷は、自分で勝手に思い込んでつくっている「できない理由」だ。それはときに「やらないための言い訳」になっていることもある。もしかしたら勇気がなくて、わざわざ言い訳をつくってほっとしているかもしれない。言い訳があれば体裁が保てる。「忙しいから」は、自分を誤魔化す弁解、釈明であり、手っ取り早い他人への体裁だ。

やりたくないならやらなければいいだけのことだ。いつまでも本当はできるのになどと思わないで、思わせぶりを示したり見栄を張ったりしないで、本気でやりたいことをすればいいだけだ。

 

ヨーコさんの言葉からも、ウツ病がいかにストレスから来ているのかが分かる。

ストレスは、外からも内からもやってくる。

自分の人生が終わるんだと分かったとき、おそらく人の心は解放される。おそらく、と書いたのは、そうではない人もいるし、そういった気持ちになるのに時間のかかる人もいるからなのだが、いずれにせよできるだけ早くそのステージにあがったほうがよい、と私は思っている。

ヨーコさんは、余命2年の宣告によって、ある種の「開放感」を得て、そして貯めていたお金も使い、自由にやりたいことをやろうと決意し、満足して死んでいくことを選んだのだろう。「開放感」とは、人生の雑事や未来への不安という拘束から解かれた、心穏やかな状態だ。

 

私事で恐縮だが、私は今年に入ってから「死に支度」をはじめた。はじめようと決意してはじめたわけではない。自然とそうしていた。

余命を宣告されているわけでもないし、自殺しようと思っているわけでもない。

人生も終盤に差し掛かり、見た目もすっかり若くはなくなってきて(心はいまだ27歳くらいなので鏡を見るとおどろくのだが)、あれもこれもやらなきゃとか、今日さぼっちゃったなとか、そんなにしゃかりきにならなくてもいいんじゃないか……ふと気づいたらそんな風に人生を悟り?はじめていた……ようだ。

そこで「読みかけ本、未読の本を読む」ということを実行しよう!と、図書館から借りた本の読書と並行して「読了大会」を実践に移した。意識して時間を確保して、ひと月ほどで読めた。そんなに多くはない。10冊ほど。とりあえず、書棚の読みかけ・未読本コーナーがすっきり空いた。大変気持ちが良かった。思考の整理もできた。心が追いついた感覚が心地良い。たったこのくらいのことで心の余裕ができるなんて安いものだ(図書購入にはお金がかかっている)。

本は購入してしまうと手元にあるものだからどうしても後回しにして、図書館から借りた本を優先する。返却期限があるので当たり前なのだが、私の場合もっとも馬鹿げていると思うのは、「図書館で借りて少し読んで気に入って購入した本」である。気に入ったのだから、手元に置きたい線を引きたいと思ったのだから、本当は早く読みたいはずなのに、返さなくていいという無期限に甘えて後回しにして、次から次へとさらに図書館で本を借りるというまことに愚かしい事態があった。

本当に読みたかった本を優先した、というそれだけのことだ。

この「読了大会」は、私にとっての「死に支度」のひとつだった。これからまた溜まるかもしれないが、できるだけ溜めないことを心掛けよう。一度に複数冊購入することもあるので、そこはお許し願いたい。そしてさらに心掛けることとしては、生きている間に、読みたいと思っている本を遠慮なく読む、ということ。最近はWOWOWなどへの加入で映画を観る楽しみにはまっているので、観たい映画を観る、とくに昔観たいと思っていて観ないままに過ごしてきた映画を観るということをしている。最近は日本のテレビ、ニュースからドラマまで非情に面白くないので、ちょうど都合が良い。

「あとでいいや」の「あと」はない。

 

もう数十年も昔のことだが、「モーツァルト全集」なるCDの大きなセットを購入した。しっかりとした造りのガラス扉のついたケースに入っている。そのときふと思ったことが今も記憶に残っている。きっと好きな曲ばかり聴くだろうし、これらのCD全部を死ぬまでに聴き終えることはできるのだろうか、たぶん聞き終えないだろうな、と若くて人生の時間もまだたっぷり残っているのに、なぜか一瞬そう思った。そして結局全部は聴いていない…と思う。なにしろ順番にていねいに聴いていたわけではないので、どれを聴いていないかも判然としない。資料的に持っている、といったところ。資料と考えればそれはでそれでいいのだろうが。

 

「死に支度」をはじめようと思ったとき、私自身、心がふっと軽くなったと思う。

世知辛い世の中でまだまだ生きていかなければならないのかと思ったら、どうしたって肩肘張るし、見栄も張りたくなる。誰かと較べて惨めになったり、欲望を募らせることもあるだろう。

 

「ToDoリスト」というのは、束縛を感じたり、無機質っぽくて気に食わないという人もいることだろう。だったら「死ぬまでにやりたいことリスト」のほうがいいかもしれない。けれども「死ぬまでにやりたいこと」は、健康な人だとリストをあげても後回しにしてしまうだろうから、「1年後に死ぬとしたら今何をしたいか」とあえて期間限定で考えたほうがよりよいかもしれない。

「明日死ぬとしたら何をしたいか」も、インパクト表現として私も使うが、覚醒の鉄槌としては効果的だが、実際問題としては、明日死んでしまうのならできることは限られてしまうので考え難いだろう。ゆえに、「明日死んでしまうなら、あなたは何を後悔するか」と考えるといいと思う。その「後悔」してしまうことが、今自分の「本当にやりたいこと」なのだから。

 

さらに言えば、私たちはみないずれ死ぬ。そしていつ死ぬか分からない。明日事故で死ぬかもしれない。なので、できるだけ先延ばしはしない。そういった気構えが、迷っているときの選択に役立つ。

 

最後にもう一度「ヨーコさんの言葉」を味わおう。

二年と言われたら 十数年私を苦しめた ウツ病がほとんど消えた。

人間は神秘だ。

人生が急に充実してきた。毎日が とても楽しくて仕方ない。

死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う。

人間は誰でも必ず死ぬ。生まれた日から死へ向かって歩んでいる。しかし人間は、生きていくうちに死ぬ存在だということを忘れる。ときに死にたくないとしがみつく。ゆえに「束縛」される。

人間は誰でも必ず死ぬ。生まれた日から死へ向かって歩んでいる。だとしたら人間は、生まれた瞬間から本当は「自由」なんだろう、と思う。

 

このエッセイはこう終わる。

人はいい気なものだ。

思い出すと恥ずかしくて 生きていられない 

失敗の固まりのような私でも

「私の一生は いい一生だった」と思える。

 

100万回生きたねこ」は今も多くの子どもたち大人たちに読み継がれている。