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「能力で人を分けなくなる日」最首悟著〜コスパ・タイパの地球でいいのか〜障害者 病人 老人は?

 著者の最首悟(さいしゅさとる)と語らう中高生たちの思考力の深さ、高さに驚く。

 

「能力で人を分けなくなる日 いのちと価値のあいだ

最首悟(さいしゅさとる) 

創元社 シリーズ「あいだで考える」

 

最首悟さんの4番目の子どもの星子さんはダウン症と重度の知的障害を持ち、目が見えず、言葉を話さず、立つことも、歩くこともわずかでひとりでは食事も排泄もできません。最首さんと母親の五十鈴さんがお世話をして、今日まで家で暮らしてきました。

(P8)

 その最首さん(86歳)のもとに集まった中高生たちが、命とは、生とは、死とは、能力とは……を語り合った、その記録。

 

 人は頼り頼られて生きているけど、それは「依存」とは違う。互いに、それそれができることをして、助け合って生きること。依存はべったりとしていて、そこには支配と従属の関係があるイメージだと私は思った。

 

「津久井やまゆり園事件」の植松青年(最首は「青年」と呼ぶ)と、文通をしていた最首。彼は、自分は正しいことをしたと思っている、という。

 

 脳死、植物状態、高齢者、障害者……。臓器提供は殺人ではないのか。

 人は、IQの高低、能力によって比べられて分けられていくものなのか。

 少子高齢化社会の解決策として「高齢者は集団自決すればいい」と発言した成田悠輔にとっても、植松にとっても、高齢者や障害者、脳死、植物状態の人々は、死すべき存在ということになる。優生思想である。社会の負担がかかる、お金(税金)がかかる人間は必要ない。

 

「働かざる者食うべからず」という言葉あるが、これは昭和時代にはけっこうよく耳にする言い回しだった。なので、私はあまり深く追求したことはなかった。が、この本を読んで、これはひどい人非人な言い回しだと思った。

 例えば、学校を卒業して何もせずぶらぶらしている息子に活を入れようとしてこの言葉を使う、ということはあるかもしれない。食費だってたいへんなんだからさぁ、と。ときにこれは冗談交じりの言い様だったように思う。

  でもこれは、よく考えてみれば、障害者や高齢者、病人などにとっては「生きるな」と言っているに等しい。

 

「情は人のためならず」も、本来は「他人にかけた情は、めぐりめぐって自分に帰ってくる」という意味だったのが、今は「親切にしてあげることはその人のためにならない」という冷酷な意味に変化してしまっている。私もすでにそちらの意味で理解していた世代となる。

 

 高度経済成長期にさまざま価値観が変化したのか。いや、明治のころからのようだ。

 

 学校でも定量的に順位がつけられる。点数という数字が、あたかも人間の価値を示しているかのように。いや、それが全てであるかのように。そして、それで社会は動いている、人類はそのように動く社会をつくりあげてきた。

 ゆえに、その数字の上位に当てはまらない人たちは、優秀ではないと言われる。

 

 大谷翔平、芦田愛菜、藤井聡太の「能力を守り、遺伝子を残していくために、結婚相手を選ぶのは国家プロジェクトだ、という意見がツイッターに出て問題になった(P81)」これも、優生思想だ、と最首は言う。

 大谷は、今年(2024年)結婚したが、どうだろう。元バスケットボールの選手だった真美子さんは、身長180cmで早稲田大学出身。国家プロジェクトを叫んでいた人たちには合格なんだろうか。優生思想的にはOKですか?

 こんなこと考えること自体が、悲しく、いささか気味が悪い。

 上記のようなプロジェクトに関わろうと声をあげる人々はみな、いわゆる優生思想的には優秀の部類に入る人々なのだろうか。

 高齢者の集団自決を唱えた学者は、自分は高齢者にはならないと思っているのだろうか。それとも、僕のように優秀な高齢者は別格、ということなのかな。

 富裕層の発言に同調する人たちはみな、同様に富裕な人々なのだろうか。政治家の横暴、権力を容認する人たちはみな、自分は彼らと同じ側だ、彼らと同じように行動、生活できると思っているのだろうか。 すなわち例えば、やまゆり園で生活している人々は、この園の居住者たちは生きているべきではない、と言うだろうか。

 なかには、病人でも失業者でも、死を望む人はいるだろう。しかし、あらゆる人々を包み込んで、受け止めて、助け合っていくことが、人間の生きる道なのではないだろうか。絶望して死にたいと思っていた人が生きたいと思える社会、そもそも、過酷なことが起きても絶望せずに生きていける社会、をつくることが人間の目指すべき道なのではないか。

 

 人の優しさは、他の人を、その立場を理解しようとする気持ち、思いやりからはじまる。

 

 健康に生きていても、仕事に困っていなくても、人は誰でも、そうではないことになることがある。病を得たり、失業したりする。コスパ、タイパを声高に叫ぶ人たちは、あるいは金持ちたちは、それを自己責任だと言って譲らない。だから助ける必要はないのだ、と。

 

 世界には様々なタイプの人がいる。

 ゆっくり話し、ゆっくり行動し、ゆっくり覚える人もいる。現代社会では、そういう人たちはコスパ、タイパが悪いとなり、ときに排除される。排除されないときは、意地悪される。

 

 他人を傷つけてはいけないという根本的な問題と、加えて、資本主義が行き過ぎた、いや行き着いた先に現れた(育てたれた)人間の卑劣な言動の問題を、同時に見つめ直していく必要がある。

 

 個人的に思うところばかりを書いてしまいました。

 

 命、生と死、自分の価値などについて、中高生たちが真摯に向き合って意見を述べ、著者が経験やヒントを語る。

 冒頭にも書いたが、この中高生たちの思考が十分に哲学的で、本当に驚きます。

 現代社会が定量的に動いているなか、これから社会に出ていく彼らは、その社会の仕組みのなかで生きていくしかないのか。そんな乱暴な社会ではとても生きてはいけないという人だっているはず。

 こうして考えを巡らせた彼らのような若者たちが、優生思想や定量的価値判断はおかしいとして、変革を促す方向へ何らかのアクションを起こしていってくれることを願うばかりだ。

 

 そのヒントになるのが「武器としての土着思考」(青木真平著/東洋経済新報社)かもしれないと思った。

 この本についてはのちに取り上げる予定。

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