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「正義」の味方は出世しない〜ジャーナリズムって?〜「家庭教師のトラコ」

(娘)

ママはなんでお仕事やめちゃったの?

(父)

正義の味方だから。

ずるい人や間違っている人を許せなかったんだよ。真っ直ぐすぎて不器用なところあるし。

(娘)

不器用ってなに?

(父)

今は、まわりに流されたり、空気読んだりする人が多いけど、それができないんだママは。だからまわりからも浮いちゃうし、いろいろ悪口も言われちゃうけど、辛い顔なんか見せずにがんばっちゃうんだ。

(娘)

怒るとこわいのは、正義の味方だから?

(父)

そうそう、真面目だから家のことも完璧にやろうとするしな。

 テレビドラマ「家庭教師のトラコ」(日本テレビ2022年/脚本 遊川和彦/主演 橋本愛)のワンシーン。

 

 その第4話で、新聞記者・中村真希(美村里江)が、異動の辞令を蹴って自ら退職した。異動の理由は、上を怒らせる記事ばかり書くから。

じゃあ、財界や政界のお偉方に媚を売るような記事書いてればいいんですか、新聞社は。

 そういうヒーロー気取りはいいからいいかげん大人になれ、と言う上司。

私は子どもに説明できないことはできません。

娘に大人になるってどういうこと、って聞かれて、上の人に逆らわずにおとなしくすることよ、なんて言えますか?

 そういう熱血みたいのは流行らない、と上司。

 退職後、真希はあちこち就活するが、どこもその熱血ぶりを受け入れてくれない。

 

私はね、ただこの世界で起きている真実をそのまま伝えたいだけなの。それなのに、おまえのその正義感がめんどくさいって、会社とかから言われる辛さ、わかる?

 真希はそう叫ぶ。

 

 冒頭の対話は、苦しんでいる真希を気遣っている父(夫)と保育園へ通う娘のもの。真希の夫はずいぶんと理解のある人間のようであるところが救われる。こういったタイプの夫は珍しいかもしれない。

 そして、この夫のセリフは「正義の味方」をうまく言い得ているように思う。

 脚本は遊川和彦。「曲げられない女」「家政婦のミタ」「女王の教室」「ハケン占い師アタル」「同期のサクラ」「となりのチカラ」などの作品を振り返れば、第4話のこれらのセリフも頷ける。

 第4話の中心テーマは実はそこではないのだが、私はこの背景にとても注目してしまった。全体のストーリーはぜひドラマを観て楽しんでください。

 

 正義を語る人は面倒がられる傾向が日本にはある。

「正義」というと最近は、どちらの側にも正義はある、などと言うことが中立公正や冷静な態度のお手本のようになっていたりする。が、ここで言う「正義」は「道徳的倫理的に人間として間違っていないこと」という意味で捉えていただきたい。例えば、意地悪したり、殺したり、盗んだり、特定の人々をガス室に送ったりすることは、そうしたい人がいたとしても、それは正義ではない。

 

 日本のジャーナリストはジャーナリストではなく「社員」だ、と哲学者の國分功一郎は言っていた。

 普通の会社はともかくも、新聞社まで正義感を面倒がっているのなら、この国の未来は危うい、と素人の私ですら思わざるを得ない。

 そもそも学校で「おとなしくする」教育をしている日本。誰も声をあげなくなる。声をあげることが悪いことのような空気が醸成されている。いや、ストライキが盛んだった頃から実はずっとそうだったのかも、この国は。

 

 このドラマを観たあとに読んだ本のなかに、シンクロニシティがあった。

 内田樹が次のように述べていた。

日本社会では「リアリスト」と呼ばれているのは、すでに存在する現実に最適化できる人間のことであって、新しい現実を作り出す人間のことではありません。(略)

日本では、「新しい現実を作り出そうとする人間は」理想主義者だ、夢想家だと言われる。

「現実に最適化する」というのは目の前の現実に追随するということですから、構造的に「後手に回る」ことになる。

内田樹×想田和弘「下り坂のニッポンの幸福論」P99)

 

 人生の所々に不快なイニシエーションが用意されていて、それを我慢して自分を殺して初めて突破できるというシステムによって、権力関係が構築され機能している日本。それは受験だったり、就活だったりする、と想田和弘は言う。

(内田)

校則もそうですね。まったく意味のない校則に対しては、「意味がない」とわかっていながら従う人間が評価され、「これは違います」と言うと処罰される。

(想田)

意味がなければないほど、それに従うことに対する組織内の価値は高くなります。

(P156)

 これは、前回の記事で書いた「素直であること」にも通ずるものだ。

 根源的な人間の気持ち、道徳心や倫理観、いわゆる良心というものに素直に従う人、従わずにはいられない素直で率直、実直な人は、世間から疎まれる傾向がある。

 黙って命令や規則に追従するところに、創造性はない。

 

(内田)

無意味な指示については「これは無意味です」と意義を唱えるべきなんです。でも、そんな人間は絶対に出世できない。おべんちゃらのうまい人間ばかりが出世する。

(P160)

 今やまっすぐで不器用な正義の味方は、面倒くさい人間で、夢想家で理想主義者のレッテルを貼られて、しかも出世できない。

 戦後しばらく、昭和の時代までは、まだ正義やジャーナリズムが機能している部分はいくらかあったように思う。ところがそれは成長せず、あっという間に、倫理も道徳もない封建的で権威主義な世の中に変貌、いや戻っていっているようだ。

 

 BS日テレ2022年8月19日放送の「深層NEWS」(テーマは「日本の壁」にどう向き合う?)のなかで、戦争中に報道が大本営発表に加担した歴史を反省して、今のメディアのあり方はどうあるべきかという番組キャスターの問いかけに対して、ゲストのヤマザキマリ(漫画家・エッセイスト)が「何も求めるものはない」と言い放った。

メディアはなるようにしかならないもの。その時のニーズに沿って、一般大衆の人たちに受け入れてもらうためにあるのがメディア。

 今度はメディアではなく、見る側の私たちの問題。我々がメディアを少しは猜疑心の眼を持って、色々な角度から疑いの思考力を養っていけるかどうか。

 メディア自体は、そのものとしていい。ただ、そのメディアを捉えていく私たちがどう変わっていくのかということ。教育などから。

 メディアの言うことを鵜呑みにしてはいけないということは、このコロナ禍で私たちはすごく学んだ部分。さまざまなニュースも、こう言ってるけどそうじゃないんじゃないか、じゃあ、それをどこでソースとして調べていこうか。歴史を勉強してみたり、他の本を読んでみたり、他の国ではどう報道されているかなどを調べてみたり。それは私たちの問題。

 まとめるとこのようなことを語っていた。

 

 私たちは、ジャーナリスト、メディアがちゃんと報道しないからこうなった、と言ったりする。それも然りで、メディアはいくらでも偏向報道が可能だ。ストーリーをつくるのも得意だ。それによって、社会の雰囲気を変え、一定の方向へ誘導していくことができる。

 現在のロシアを見るとそういったフェイクの様子を垣間見ることができる。嘘だと分かってやっているのか、本気でそう思っているのか、分からないところが怖い。これはもう心理学者に委ねるしかないが、嘘を言っているうちに本当にそう思い込んでしまったということもあるだろうし、それこそそれが自分の正義だと思っているふしもある。民族的な話は特にそういうことになる。が、だからといって、人を殺してはいけない、ユダヤ人をガス室に送ってはいけない。明らかな正義は存在するはずだ。

 そしてまさに、日本でも第二次世界大戦直前と最中には明らかに嘘の報道をしていた。ゆえに、戦後、メディア側は大いに反省して、そうならないようにしなければならないと戒めてきた、ということもあるだろう。

 しかしヤマザキマリは、メディアはそういうものだと言い切る。これは私の心に刺さった。メディアの責任は大きい、と常に思ってきたので。権力者側の広報をすることはジャーナリズムではない、と。何だったらメディアさえ正しい報道をしてくれたら……とすら思っていた。

 おそらくヤマザキマリの言う通りなんだろう、と思った。ゆえに、市民は学ばなけれならない。そして何事も鵜呑みにしない批判的精神を育てていく必要がある(日本では小中高とそういう教育はなされていない)。幸い21世紀の社会では、世界中の報道に触れることができる。日本国内でも、様々な意見をネットで見聞きすることができる。

 固定のメディアに期待し、求めすぎてはいけない。

 とはいえ、海外のジャーナリストに較べて、日本の記者たちの姿勢はあまりに脆弱ではないか。それは出世のため?面倒なやつだと思われたくないから?

 

 おべんちゃらがうまい人ばかりが政界でも企業でも出世している日本の社会。それを全くと言っていいほど指摘できないメディア。日本という国が劣化して下り坂であるのは目に見えている。

 

「家庭教師のトラコ」の真希は、権威に迎合しない記事を書きたかっただけの「正義の味方」なのだ。でもこれが、ジャーナリストの本来の姿ではないか。

 余談だが、美村里江はいい役もらったな、と思う。確か「MIU404」(TBS2020年/脚本 野木亜紀子綾野剛 星野源)でも、自分の命を捨てて弱い人たちを助けるという正義の役でゲスト出演していた。

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