え~~。主人公がこんな状態から物語がはじまるのぉ~~。
遊川和彦らしいと言えばらしいのだが。
朝ドラ「純と愛」の終盤を思い起こさせる。
「同期のサクラ」日本テレビ水曜夜10時
脚本/遊川和彦
高畑充希/橋本愛/新田真剣佑/竜星涼/岡山天音/相武紗季/椎名桔平
2009年から2019年までの10年間の物語。
北野桜(高畑)には夢がある。
故郷の島に橋を架けること(それがあれば両親は死なずにすんだ、と)。
一生信じ合える仲間をつくること。
その仲間とたくさんの人を幸せにする建物をつくること。
それだけは諦められないので。
私は自分にしかできないことをやります。
じゃぁ、また明日。
大手ゼネコン「花村建設」に入社したサクラ、月村百合(橋本)、木島葵(新田)、清水菊夫(竜星)、土井蓮太郎(岡山)。
この5人が新人研修でチームとなり、力を合わせて課題に取り組むのが第1話。
主人公のサクラは、いわゆる「忖度できない」「空気を読まない」まっすぐな人間。
同じ遊川作品で言えば「曲げられない女(2010年日テレ/主演・菅野美穂)」の主人公で弁護士を目指している荻原早紀(菅野)と似ている。
サクラは、花村建設が手掛けることになったサクラの故郷の島に橋を架ける事業に関わりたいと土木部志望だったが、人事部に配属される。
第2話は、営業部に配属された菊夫のエピソード。体育会系のパワハラ部長に逆らえず、無茶な命令に働きづめでついに倒れてしまう菊夫。「これ以上過酷な残業をして菊夫くんが過労死したら管理責任を問われることになりますが、覚悟はおありなんでしょうか?」とサクラが菊夫の部長を問い詰めるシーンも。
これは2010年の話だが、2019年の今にも十分に通ずる内容だ。
このようなパワハラ上司には「教育してやっているのだ」と本気で思い込んでいる人権意識の低いヤカラがいるのだろうな、とこのエピソードを観て、今更ながら恐ろしく思った。もちろん、ただのイジメでやっている無能上司もいるが。
最近私は思う、このようなヤカラは自己愛性パーソナリティ障害なのではないか、と。命令を遂行できずに倒れてしまう人間が劣っているのではなく、いじめられてウツになってしまった社員や同僚や生徒が逃げなければならない、心療内科を受診するのではなく、むしろこういったパワハラ、イジメ加害者のほうがカウンセリングを受けたほうが良いのではないか、と最近の私は本気で思っている。
第3話は、広報部に配属された百合のエピソード。百合はサクラの真逆。セクハラも我慢して、表ではいい顔をして生きている。家でも自分をごまかしている。これは2011年の話。3月に震災があり、それを機に彼氏(医者)からプロポーズされて寿退社することになるが、それが本心なのかとサクラから問い質される。そして、女はこんなもんだと諦めないで自分で変えていったらいいのでは、とサクラに促される百合。
女性の人権、尊厳に関しては、ずいぶんメディアでも言われてきているが、日本ではこの10年間ほとんど変わっていないのだな、という感想を私は持った。
第2話で、「おとなになること」は「自分の弱さを知ること」だ、という名言が新潟にいるサクラの祖父からFAXで届いた。自分の弱さ、弱点を知っていれば、強くなれる。それを隠そうとするから逆に弱くなって、自己主張できず、忖度しなければ生きていけないことになる。
例えば、菊夫の弱さは、パワハラから逃れられない自分。その理由は、部長が大学の先輩だということ。先輩だからなんでも言うことを聞かなければならないのか?理不尽で無謀な命令に従わなければならないのか?一方で、家に仕送りをしなければならないので、会社をやめられないし、瑣末に扱われたりしたら困るという弱味もある。
第3話の百合も同様だ。
「おとなになれよ」と日本で誰かが言うとき、それは「我慢しろよ」「忖度しろよ」「言うこと聞けよ」「意見を言うな」「黙ってろ」「従属しろ」ということだ。
日本社会全体の「パワハラと諦念」いう悪しき因習と言えるのかもしれない。
「イエスマン」や「ずる賢い人間」ばかり重宝して出世させてきた日本の会社、社会は、平成の30年間にどうなってきてしまったか。捏造、隠蔽、嘘、遺棄がまかり通り、自己保身のみを考える人間が部長になり、社長になり、権威者、権力者となって、ついに日本は、イマジネーションもアイデアもなくなってしまった。
しかしこれは、大昔からの日本の習わしらしい。作家で元銀行マンの江上剛が言っていた。「呪縛されている人がエリートになる」と。「呪縛」とはつまり「秘密を共有する」ということだそうだ。関西電力の原発マネーについてのコメントだ。
そう考えると日本のエリートというのは、神様から見たら失格の人たちなんだな。神様の前に立つことができないような人間になることが「おとなになること」ということになる。それが現実世界。
アメリカのテレビドラマ「グッドドクター」2シーズン18話のなかで、主人公のショーン(医師・サヴァン症候群で高機能自閉症・フレディ・ハイモア)はこう言っていた。
人は間違いだと思うことを強いるとき、それを現実と呼ぶ。
子供ころに死んだ弟が、ショーンに言った言葉。障害を持っている兄が人に騙されないようにというアドバイスだったのだろうな、と想像できる。
「おとなになれよ」と同質ではないか。
おとなになれない人は、ファンタジーやってて現実を見ていない。「それが現実さ」「いつまで夢見てんるだ」「青春やってる場合じゃない」と言われる。
人は間違っていると分かっているのに、それがおとな社会だ、現実なんだと思い込まされて、嘘をつきながら生きている。それに耐えられない純真な人たちは、心を病んだり、引きこもったりしてしまうこともある。
本当は、空想だ理想だと言われている「おとなになれよ」と声高に言う人たちが「ファンタジー」と定義している世界のほうが、「嘘のない真実の真理の世界」なのではないだろうか。マイケル・ジャクソンもそのようなことを言っていたように記憶している。
余談になるが、第2話の菊夫の上司のような人間はどこにでもいる。人間性に問題があるので、どうしてあの人がリーダーなの?と周囲は思っているのにその人はそこにいる。人間性には難があるが仕事ができる、すなわち数字を上げることができているという実績を、さらに上の人間たちは外すことができない。そういう話は本当に本当によくある。占いの相談者さんからもそのような話題はあまた聞く。
さて「同期のサクラ」、私が常日頃不必要だと思っているアーティストコラボテーマ曲「さくら(二〇一九)(森山直太朗)」が例に漏れずエンディングに流れるが、それも含めて全体的に、演出もセリフも、BGMも邪魔にならず良い。簡単に言えば「うるさくない」。
オープニングも、同じ遊川作品「派遣占い師アタル」を彷彿とさせるおしゃれでシンプル。どちらも作中にも流れてくるピアノ曲は、平井真美子。
意識を取り戻すことはないと医者に宣言されているサクラが横たわるベッドの横で、仲間4人がそれぞれ思い出を語っていく、というのが前半のストーリー展開のようだ。
社会と人間に深い問い掛けをするセリフが光る遊川作品。今作品は、今まで以上に、社会性と人間性の普遍的問題点が天才的に描かれているように思う。
毎回、サクラのじいちゃんからのFAX名言がある。
第1話「自分にしか出来ないことがある」
第2話「大人になるとは自分の弱さを認めることだ」
第3話「本気で叱ってくれるのが本当の友だ」