ヤマザキマリのエッセイが面白い。いや、ただ面白いだけではない。為になる。14歳から始まった海外放浪生活。放浪と言っては失礼かもしれないが、イタリアでの過酷な修行時代(?)のくだりを読むと、私の心には放浪という言葉が思い浮かんでくる。ヤマザキは自由人だが根無し草ではない。まさに「国境を越えて生きて」いるのである。
ヤマザキは、毎日新聞「人生相談」の回答者のひとりでもある。他の回答者には、高橋源一郎、渡辺えり、立川談四楼、光浦靖子がいる。それぞれ独特の回答がとても興味深いので、私は毎回掲載を楽しみにしている。
2017年9月20日。17歳の女性から「イタリアで就職したいが不安」という相談があった。「ローマ帝国の研究をしたい。日本の大学かイタリアの大学か迷っている。将来はイタリアに骨をうずめたい。けれども大学受験から逃げたいだけなのかもしれない。イタリアで就職できるのか不安」
世界中ガンガン飛び回って縦横無尽に生きているヤマザキだが、回答は案外落ち着いていた。2つ知ってほしいことがある、と言う。
「あなたの思い描いているイタリアと現実のイタリアには大きなギャップがある」
「学術の分野ではイタリア人も米国や欧州へ拠点を移すことが当たり前の現状」
そしてさらに、「イタリアで素晴らしい教育を受け、苦労も含め得られたものの大きさは計り知れないが、それでも日本でなければ体験できなかったこともある」と語る。
最後に「イタリアの大学に入学する資格を得るにはイタリア語の試験をクリアする必要があります。とりあえずイタリアに短期間の語学留学をしてみて、本当にやっていけるのかじっくり考えてみてはどうでしょう」と助言していた。
安易に「なんとかなるからがんばっていっておいで」ではなかった。ヤマザキ自身の無謀にちかい「なんとかなりそうもないことをなんとかしてきた(私にはそう見える)」体験からすると、とても模範的、常識的回答ではないか。とはいえ私自身も、この相談の文面を読んだとき、彼女は今現実逃避状態なのかな、と感じた。「骨をうずめたい」とまで言っているがそれは、本気でそれほどイタリアにほれ込んでいるからなのか、現状に何か大きな不満足があるからなのか……。訪問したこともない土地なのに生涯そこで暮らしたい?短期語学留学でも旅行でも何でもいいのでイタリアを肌で感じることは先決であろう、と私も思う。それに日本の大学で研究してからでも留学は遅くはない。
ところが、このときは私も「骨をうずめる」なんて大袈裟な…と思ったのだが、このすぐあとで、内田樹が、フランスで「骨をうずめる」覚悟で働いている日本人女性に数名出会ったことを取り上げて、女性は頼もしいなどとつぶやいているのに出くわした。そもそも「骨をうずめる」くらいの気概がないと海外で働くなど考える資格もないのかもしれない。アハ体験だった。
このところ、息苦しい日本を脱出する日本人はけっこういる。計画中の人や希望だけ持っている人も含めれば相当な人数に上るのではないか。日本人に海外移住を進める外国人の学者や記者も多い。上記の相談は2017年だが、相談者の彼女、どうしているだろう、日本脱出したかしら、などと私は思い出したりもしていた。私も、海外移住を考えないわけではない。条件が整っていればすぐにでも実行したいところだが、残念ながらなのか幸いなのか、できない。
ボーダーレスで生きるのは、ヤマザキマリのような「タフな精神」を持っていないとできないだろうとも思う。条件が整うのを待っている人に、条件が整う日はやってこない。タロットカード「死神」は、そのことを教えてくれている。
「国境のない生き方」
ヤマザキマリのエッセイにはいつも、ドタバタ体験談のなかに、なにげに日本の現況への批評、批判、提言、そして文化論が織り込まれている。とても「哲学」なのである。そして最後の章が近づいてくると、なかなかの熱弁になる。「広く深い視点と思索」を「明瞭で分かりやすい言葉」で語ってくれる作家はそれほど多くはない。YESかNOかをはっきり述べるところと、文化的教養の深さ漂うところは、映画評論家の町山智浩と少し似ているかもしれない。両者とも海外も日本もよく知っているし、たぶん読書量も半端ないはずだ。原語で読んでいるだろうし。
「国境のない生き方」とはすなわち「自由に生きること」である。
自由であるとは、物理的自由と精神的自由そのどちらか、あるいはか両方が満たされている状態だ。両方持っている人が真の自由人であろう。
そして、「自由に生きる」とは「本来の自分を生きる」ということだ。
ではどうすれば「自由に生きる」ことができるのだろうか?
「教養を身につけること」だ、とヤマザキは言う。
私の中には、人が後天的に押し付けられた制度とか文化とか価値観を取り払うことで、人間の普遍的で、本質的なものを見極めたいという気持ちがものすごくあります。
「自然の中で、人は本来の自分を取り戻す」というのは、子ども時代に培われた私自身の実感でもあるのです。
でも実際に人が生きていく時には、自分が生きているコミュニティの制度とか文化とか価値観とのせめぎ合いから、完全に逃れることは難しい。
人は社会的な生き物でもある。そういう中で人が押しつぶされることなく、その人本来の生き方を全うするには、どうしたらいいのか。
私は、その手立てのひとつが「教養を身につけること」ではないかと思っています。何かを矯正されそうになった時に、「でもこういう考え方もある」「まだ、こういう見方もできる」と、「ボーダー」を越えていく力。
プリニウスも、ハドリアヌスも、それを持っていたのではないか。
だからこそ「対話し続けること」を選んだ。
教養もまた、人を本来の姿へと導いてくれる、ひとつの自然なのだと思います。
では、「教養」はどうすれば身につくのでしょうか。
朝ドラ「とと姉ちゃん」でも描かれていた「暮らしの手帖」。戦後から高度成長期にスポンサーに左右されない厳格で公平な審美眼を読者に提示し続けてきた、その紙面づくりを賞賛しているヤマザキは次のように言う。
今の雑誌は「はい、これがいいですよ」「みなさん、これを買いましょう」といたずらに購買意欲をあおるばかりで、「これ、おかしくないですか」と定義立てて根本から疑ってみせることって、ほとんどない気がします。
(同P32)
日本のテレビを見ているといつの間にか誰かのファンにさせられていたりする、というツィートを見たことがある。私が毎朝見ている朝の情報番組のなかで、芸能ニュースと称して毎日かならずジャニーズ事務所の情報を流している。これがとても鼻に就くのであるが、これも「そういう」押し付けと言ってよいと思う。ニュースというよりも宣伝なのである。どれほどのお金が番組に入ってくるのか知らないが、いかにも大ニュースのように流すトリックで、事務所の意向やスポンサーの意向とそれを漫然と眺める視聴者によって価値観はつくりあげられていく。
右にならえで流されるのではなく、本当にこれでいいのだろうか、立ち止まって、考えること。猜疑心というのは人間が真摯に生きようとした時に、その人を根本から突き動かすエネルギーになり得るのだと思います。
疑いもせず、丸ごと「信じる」という人間は、足元をすくわれた途端、「裏切られた!」と言い出したりする。丸ごと「信じる」のは、ラクなのです。どんな結果が出ようと、相手に丸投げすればいいのですから。
(同P33)
「裏切られた」と思えればまだいいほうで、今の日本人はそういったパワーすら奪われているようにみえる。教育の効果なのか民族性なのか、権力者、支配者層にとってはたいへん都合の良い国民として飼いならされているように見える。「右にならえ」なのは、「目立つ」と頭を殴れたり村八分にあうから。それが徹底している。「本当は恐ろしいグリム童話」ならぬ「本当は恐ろしい日本国」である。学校で我慢を学ばされ、忍耐が美徳だと習う。そして不思議なことに、日本では、考える力や批判検討精神を発揮しようとすると、その場に嘲笑的空気が流れる。
「猜疑心」を持つことは大事だろう。人々からエネルギーがなくなっているのは思考停止しているから。「疑い」「批判」「これでいいのか?」がやってくるとパワーが戻ってくるはずだ。
疑う力というのは好奇心の原動力。「これ本当?」と考えることが、行動するきっかけになる。時代や国、立場など実体験できないことに関しては、本は脳にとって唯一の経験値。いろいろな人の考えや言葉をインプットして成熟し、層を重ねることで、経験豊かな生きていく力のある脳みそになれると思うんですね。教養が身につくと、不安を静めていく免疫力が高まっていく。「自分という辞典」に言葉を増やしていくと、頼れる自分になれます。
「教養」を身につけるためにはまず、「疑うこと」「批判的精神を持つこと」である。そこに「好奇心」が湧いてくる。これは本当なのか、これはどういうことなのか、と知りたくなってくるはずだ。さすれば誰かに尋ねたり、本を読んだりするだろう。
けれども、疑問を持ったり、批判的精神で物事を眺めたりするという行為には「考える力」が欠かせない。「思考力」には、その土台となる要素が必要だ。その土台となるのがまた「教養」だ。ゆえに子どものころの「読み聞かせ」「読書」はとてもとても大切だと言えるだろう。
継続的な知の習得は「教養」の厚みを増し、揺れにくい心をつくってくれる。少なくとも粗雑な情報や詐欺、カルト教団には騙されなくて済む。
ところが、日本人は「教養」の厚みを増すことができていない、と言う。
なぜなのでしょう?そのヒントがここにある。
先の私の記事「日本は幼稚だ」のなかでも取り上げた、東京大学に在籍していたイタリア人の学者、クラウディオ・ジュンタの著書「世界でいちばんばかな国」の内容に触れたヤマザキマリ著「男性論」のなかの一節。「ばかな国」とは「日本」のこと。
まず、日本で高尚な話ができる相手は、ごく少数に限られるということ。学者や、ごく一部のマイノリティを除いて、建設的な論議ができないといいます。そもそも話し合いを嫌う。男女間も含めた人間関係全般に成熟したものが見いだせないのは、「対等な話し合い」という文化がないから、というのが著者の見方です。
(ヤマザキマリ「男性論 ECCE HOMO」P165)
先の記事でも書いたが、私のタロット占いの師匠(ヨーロッパ人)も、全く同様のことを言っていたし、学生のころ英会話の先生から「黙っているとバカだと思われて相手にされなくなるから留学したらどんどん意見を言いなさい」という助言を受けた。
日本では沈黙がよいこととされる。発言する人、意見する人は、煩い人とか感情的な人とか言われる。だまって体勢についていることが理性的なエリートだという風潮がある。下手すると質問すら嫌がられる。
「対話」「対等な話し合い」という文化がないから、「教養」が育たない。
このままでは日本人は、「教養」の厚みを増すどころか、「教養的人間」にすらなれないようだ。解決策はないのか?
知識をそこまで鍛えあげるには、やっぱり、自分ひとりで抱え込んでいたのではだめで、常にアウトプットして、人とコミュニケーションすることが必要。
(略)教養を高めるといっても「自分はたくさん本を読んだからいいわ」という話ではないんですね。見て読んで知ったら、今度はそれを言葉に転換していく。
これって、日本に欠けているところではないかと思います。
さまざまな国語、文化、背景を持った人たちが一緒に生活している場所では「言わなくてもわかってくれる」はあり得ない。ヨーロッパの社会においては「自分の考えをアウトプットすること」は必須の能力でもあるんです。
ただし、それはいわゆるディベートとは違う。自己主張して、相手を圧倒することではないし、まして優劣や勝ち負けを競うものでもない。考えていることをアウトプットすることで、彼らは、教養に経験を積ませているんです。そうして、教養をよりブラッシュアップして、深化させていく。
日本にも、六〇年代くらいまでは、こういうタイプの知識人がいたと思うのですが。
日本人は語り合ったり、意見交換するのが苦手だ。だから、成長しないらしい。そもそもディベートも苦手だ。考えを述べ合うとき、それを勝ち負けで捉えて判断する傾向が強いようだ。その特性がどこ由来なのかは分からない。これも民族性の問題なのか言語的な問題なのか……。
「阿吽の呼吸」などと言って日本文化の素晴らしさ、日本人の繊細さが語られてきたが、「言わなくても分かるだろう」はもう古い感覚と言わざるを得ない。いや、そうならないといけない。それは、「黙って従え」という「人権侵害」やある種の「責任転嫁」につながる(つながってきた)。「後ろ姿を見て育つ」はまた別の感覚だ。
私はときどき思う。日本で「コミュ障」などと言われて排除されている人は、海外へ行ったほうが上手くいくかもしれない、と。日本で「コミュ障」と蔑(さげす)まれている人は、逆に「喋りすぎ」る人、軽蔑してくる人の「痛い所を突いてくる」人になっているのかもしれない。あるいは「高尚」で「哲学的」な話をするがゆえに、「空気が読めない」と冷笑されてしまう人の可能性が高い。「コミュ障」などと言われて不当な扱いを受けたり、バカにされたりして苦痛を強いられている人は、外国語を習得して海外で生活したほうがいいかもしれない。話すこと、主張することが自然な世界もあるということを知ることができる。
ヤマザキはこの本のなかで、肝心なことは腹に収めて口にしないことを「ザ・日本人気質」と言い、なんだかんだと言って自分もそうだったがイタリアで言葉にしてアウトプットしていくことを覚えていった、と語っている。
「私はそうは思わない」と言うことは、別に相手を否定することじゃない。納得したい、相手のこともきちんと理解したい。対話というものはそこから始まるものでしょう。
(略)触発されることで、そこから新しい展望が開けていく。
(同P83)
難しいのは、教養薄き人々は自分の思っていること、自分の習性にあわないことを言われたりされたりするとほぼ必ず「否定された」と思って怒鳴ったり攻撃したりしてくることと、そういう人々は、逆に誰かを平気で「否定する」ということだ。自分だけが正しいと思い込んでいるし、自分の気づかなかったことを言われると自分が低められたと思って激怒するようだ。そして「コミュ障」というレッテルを貼られてしまっている人々は、そういった面倒を避けようとして自分の心が破壊されないように対話するのをやめていく。悪循環である。ゆえに文化程度はどんどん下がっていく。
いくら知識があっても、うんちくを語るだけではだめで、そこから縦横に発想を広げていくことができる力がないと。
そういうことができる力を本物の教養というのだと、(略)
(同P100)
日本に多い「うんちくを語るだけ」の人々。自慢したいだけ。マウントを取りたいだけ。こういった人々は、自分の「うんちく」は嫌と言うほど聞かせるが、誰かの「うんちく」は全く聞かない。「自慢話」するなよ、とすら言う人もいる。
私は、今でも説明過剰でわかりやすいものより、こちらの想像力に訴えかけてくるような、手ごわくても深さがある作品が好きだし、そういう作品を読み解く力を、この時期、鍛えていったのだと思っています。
(同P100)
一方で、語り合う習慣のない日本人がつくるドラマや映画作品は多弁だ。
私は最近海外ドラマを観る機会が多い。むしろ日本のドラマを観なくなった。観れなくなった、と言ったほうが正しい。つまらないから。
なんでつまらないのだろう、とずっと考えていた。すると比較して見えてきたのは、日本のドラマはしつこく、説明的、そしてコーダ(終結部分)が長い、ということ。このように描かないと日本人視聴者たちは理解できないのだろうか。それともそのように制作者サイドが考えて、わざわざ丁寧につくってくれているのだろうか。私は、私も含めて日本人ってバカなのかもしれない、とすら思ってしまっている。あちらのドラマは全てを説明しない。想像させるし、余韻を残す。そして考えさせる。そういう描き方では日本人は満足できないのかもしれない。「説明過剰でわかりやすいものに慣れてしまっている」から。私も当初はそうだった。海外ドラマがあまりにあっさり終わったり、え?ここで終わるの?犯人だれ?などと思うこともあった(特に「NCIS」)。しかし、これも慣れてくる。そして慣れてくるとそのほうがずっと面白くなってくる。
「発想を広げる力」がない人たちがつくるからこうなってしまうのかもしれない。ゆえにますます鑑賞する側の「発想力」も貧困になっていく。
日本の作品にもうひとつ欠けているのは「ユーモア」だ。
「男性論」のなかで「昨日・今日・明日」という映画を取り上げて、次のようにヤマザキは述べている。
成熟した表現とはなにかと問うとき、いつもこのユーモアの問題―ユーモアを巧みに駆使することの難しさを思います。マストロヤンニには、それを体現できる俳優としての能力や魅力がありました。
(ヤマザキマリ「男性論」文春新書P144)
「ユーモアを巧みに駆使する」のは難しいことなのでしょう。けれども、海外映画やドラマを観ていると、その上手さに驚くことしばしばです。悲しいドラマでも苦しいドラマでも怖いドラマでも、ユーモアを取り込んだり、ユーモアでもって描いたりして、ふざけているのではなく、むしろこの悲しさや苦しさや怖さを引き立てている。日本人はユーモアが下手だ。これは…どうにもならないのかもしれない。何かが変わると、教養が厚くなって哲学的思考ができるようになると、巧みになるのだろうか。ユーモア表現が稚拙だということは、成熟してないということなのか、あらゆる面で。
「国境」とは「壁」だ。その「壁」に気づくことから始めなければならない。
自由に生きられない「壁」とは何だろう。誰かがつくった制度、メディアや広告によって押し付けられた価値観、周囲の人々の視線……それらによってつくられている偽りの自分。
漫然と生きていると、人は、自分が囲いの中にいることさえ気づかない。
(「国境のない生き方」P71)
自由でないのに、自由であると信じている人間ほど奴隷になっている。
(ゲーテ)
「ボーっと生きてんじゃねぇよ」(チコちゃんに叱られるNHK)と言われないためにはどうしたらいいのでしょう。
「教養をつけること」すなわち「読書」と「哲学的対話」が必要なのだと私は思う。「知性は人を自由にしてくれる」ということではないでしょうか。
キューバ革命の英雄チェ・ゲバラは、キューバを捨ててボリビアに行った時に、まずゲリラの人たちにゲーテの詩集を配ったんです。
「まずこれを読め」と。
「本を読めよ。そこから始めようぜ」と。
(「国境のない生き方」P111「ボーダーを越えていこうとした人々」)
「国境のない生き方」とは「自由に生きる」ことであり、その生き方を支えるのは「教養」であり、その教養を高めたり深めたりするには「読書」と健全な「対話」が必要だということ。「考える力」「自分の頭と心で考える」ということの重要性を、あらためて今一度、心に刻んでみることを教えてくれる書物だ。