20代の男性のおよそ7割、女性のおよそ5割が配偶者、恋人がいない、という内閣府の調査が出た。デート経験がないのも男性4割、女性2〜3割、だそうだ。
人を好きになることがないのか、それとも好きになっても諦めてしまうのか、それとも故意に好きにならないようにしているのか。なかにはアセクシャル、アロマンティック、ノンセクシャルの人々もいるだろう。
でも、デートしたことがないことの何が問題なのだろう。
私が気になったのは、恋愛しないとか結婚しないとかではなく、野田聖子少子化担当大臣のコメントだ。
社会環境、金銭的な問題や出会いの場がないということもあるのだろうと言う。今はオンラインでつながっていくことが主流になっている。結婚を望んでいる人も多いので、対面に代替えできるものを提供していく。使いやすくして応援したい。どうやって出会っていくかを考えるのがイノベーションなのではないか。
生活費や働き方などの社会的な問題があるのは事実だろう。
昔はどうだったのだろう。今よりも出会いの場がそんなにたくさんあったのだろうか。お見合いや紹介は今よりもあったのかもしれない。けれども、私の身近にもずっと独身の人、結婚していても子どものいない人たちはけっこういた。
人口が減っていく原因は、当たり前だが出生数の減少と関係がある。厚生労働省のサイトによると、1950年から減って、1960年あたりから1974年あたりまでいっとき増えたがそれ以降はどんどん減り続けている。
昔と今の大きな違いは、生活様式と価値観、なのではないかと私は思う。
野田聖子は少子化担当大臣なので、少子高齢化社会のことを中心に考えているのだろうと思う。すなわち、どれだけ多くの若者たちに結婚してもらって子どもをつくってもらうか、である。
どのような状況下だろうが、恋愛や結婚のことを国に言われる筋合いはないと、とりあえず自由主義、民主主義社会で生活している私は思う。
野田大臣やその他政治家たちのこのような発信を聞くといつもいつも思い出してしまうのは、2017年にフジテレビ(オトナの土ドラ)で放送された「結婚相手は抽選で」というドラマだ。
少子高齢化打開のために政府が考えた策「抽選見合い結婚法」。2回までは断れるが、3回目を断ると罰則がある。この法律に振り回される若者たちの恋愛事情のあれこれ、家族との関係性など、悲喜こもごもを描いた作品。ドラマでは最後、これはおかしいと立ち上がったひとりの青年の活動が広がることによって、法律が見直されることになる。
戦争もそうだが政府が決めてしまうと、そんなことしたくないと思っても国民はそれに従うしかない。適応、服従していくしか生きる道はなくなる。
このドラマの青年のようなレジスタンスと賛同者が現れてくれればいいが、現実の日本の場合はデモすらしない、しないどころかそういった抵抗運動を批判すらする国民性、というかそう教育されている。
野田大臣が言う「対面に代替えできるものを提供していく。使いやすくして応援したい」。気持ちは分かる。親類や近所のおせっかいなおばさんやおじさん的感覚なのかもしれない。
確かに人口が減ると国として立ち行かなくなってしまうことは多々あるのだろう。が、価値観も変化し、社会構造も変わっていくのであれば、それに見合った幸せな生き方というものが本当はあるにちがいない。
気味が悪いのは、恋人いない、結婚しない、願望はあるのにできない、という若者たちのことを思いやっているふりをして、実は国のために働く人間を減らさない、増やすためにはどうすればいいかということにだけ焦点をおく政治家と官僚の心無い思考だ。
もちろん、出会いを求めている人たちもいるわけなので、出会いのチャンスをサポートしてくれたりするのも全くの愚策ではないが、それと同時に、人口減の国でストレスなく暮らしていける社会のあり方について考えることは、後退というよりも実は新しい試みなのではないかと思うのだが、たぶんこの国はそういった意味でもポジティブシンキングをしたことがない。
もしかしたら「抽選見合い結婚法」が可決される日も近いのかもしれない。その準備は大手広告代理店の手筈でもうすでに整っているのかもしれない。そのための地均し的な今回の調査と大臣発言だったのかもしれない。こうして少しずつ調査結果やアンケート結果を公開して、さらに事あるごとに恐怖心を与え、次第に国の言うことを聞くことがいかに幸福であるかを植え付けていけば、抵抗する人間は少なくなる。
とはいえ本気でそんな政策が出てきたら、さすがの若者たちも反発するだろうか。面白がるってこともあるかもしれないし、そのほうが楽でいいと考える人もいるだろう。
何が良くないのかというと「抽選見合い結婚法」という個別の法律にまつわることだけではなく、こうしたことが中央集権的管理社会、権威主義、専制主義、全体主義、ひいては独裁を育ててしまうということだ。そうした社会体制が人間の魂に与える影響は、善とは言い難い。
話は少しずれるが、興味深いニュース番組の街録があった。
恋愛相談を誰にするか?
「知らない人」にする、が一番多かった。
「知らない人」とは、SNS上の人。顔も名前も知らないので、深刻な話がしやすい。その場限りというのが魅力なのだろう。
恋愛相談に限らず、自分の周辺に相談してしまうといつの間にか周囲に知れ渡っているということは往々にしてある。悪意のある広がり方をする場合だってある。
私は「老いの哲学」のなかで、過去の恋愛や浮気相手について配偶者に語って配偶者を傷つけるという事例を取り上げている。老年期に入ったから許されるだろうと勘違いして話す人(男性が多い)がいるようだが、配偶者はひどく傷つく。ゆえに、恋愛沙汰は、絶対に配偶者や周囲の人たちに話すべきでなはいと助言している。もちろんそれについて知っている古くからの友人や知人はいるだろうが、本人が話さない限りたいていは黙っているはずだ(なかには能天気なおっちょこちょいもいるが)。
どうしても話したいのなら、旅先で出会ったその場限りの見知らぬ誰かに話すことを勧めている。若者たちの恋愛相談と同じ傾向だ。
「知らない人」のなかに「占い師」も入れるといいと思う。どうなりますか、という予言的相談だけではなく、心の相談もできるし、ただ話を聞いてもらうこともできる。
占い師にしか言えない相談、というのは本当にたくさんある。周囲の誰かに言えるかなと探してもいない。実際そのように相談者さんから言われることも多い。
若者たちの恋愛忌避の理由に、面倒、というのが少し前から聞かれている。
恋愛って確かに面倒だったり疲れたりするものだが、そんなことを考えたりしているのを楽しむのも恋愛だったりしていたように思うが、最近は本気でちょっとしたことでも面倒くさいようだ。ひとりで楽しめる事も多いので、そういった時間を大切にしているのだろう。その気持ちも分かるし、恋愛にうつつを抜かしている暇があったら、もっと大事なことがあるだろう、もまた真理だ。
でも恋愛しないと種の保存は保たれない。私たちの周囲にいる他の生物たちはそのためだけに生きて死んでいく。
けれども、人間はそれだけでは生きていけない。精神を楽しませたり、豊かにしたりしなければ充足できない。
少子化とか、恋愛しない恋人いない結婚しない(できないも含めて)という現況は、もしかしたら、人類が何らかのいわゆるアセンション的な体験をしている最中なのかもしれない、とスピリチュアル的視点から思いを馳せることもできる。
広い宇宙、今の地球人の肉体、姿かたちだけが全てではないし、最良でもない。異星人のなかには肉体のないものたちも少なくない、ということなので。