ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

ドラマ「天国と地獄〜サイコなふたり〜」〜happier〜『世界は「使われなかった人生」であふれてる』③〜使われなかった人生は「あとのまつり」なのか「老年期の希望」なのか

『世界は「使われなかった人生」であふれてる』

沢木耕太郎著/暮しの手帖

 

 私が思うところの「ありえたかもしれない人生」が分かりやすく描かれていた直近(2022年2月現在)の日本のドラマは、「天国と地獄〜サイコな2人〜」ではないだろうか。TBS「日曜劇場」の枠(夜9時)で、2020年1月〜3月に放送された(ちなみに「日曜劇場」の雰囲気は当初から随分と変わってしまった。もっと静かなドラマが中心だったように記憶している)。

 

 主演は綾瀬はるか高橋一生。いわゆる「入れ替わりもの」で、刑事である望月綾子(綾瀬)とベンチャー企業社長で警察から追われる日高陽斗(高橋)の魂が入れ替わってしまう。二人が入れ替わったまま、警察の捜査が進んでいく。

 このドラマは、入れ替わった望月と日高の物語のように見えるが、この日高と、実は日高の双子の兄である東朔也(迫田孝也)の物語だと言える。すなわち、生き別れになった双子の兄弟の「天国と地獄ほどの差がある人生」が描かれていた。

 だが、タイトルにある「天国と地獄」は望月と日高の入れ替わりのことではない、ということを視聴者が認識するのは物語後半になってからである。

 

 双子の両親が離婚するときに父親に引き取られた朔也、母親とともに人生を歩むこととなった陽斗。そこが運命(人生)の分かれ道(分岐点)だった。のちに朔也がそう語っている。

 この二人の場合は自ら選んだ道ではないので「あのときあちらを選んでいたら……」という類いの後悔はないだろう。兄弟でしかも双子である二人の人生が天と地ほどの差のある歩みになったのは、親の意向を考えればある意味必然、というか、幼い二人の息子の人生の分かれ道としては致し方ない経緯と結果、自然な成り行きだったと言えよう。加えて「運が悪かった」という運命論的感情に落ち着くかもしれない。そして地獄を見ることとなった朔也のほうは、環境や社会への恨みをつのらせていくのも致し方ないのかもしれない。朔也の犯罪を決して肯定はできないが、このドラマに感情移入すれば、私は朔也の悲劇を気の毒に思う。

 朔也が口にした言葉は「後から生まれていたら……」。要するに、自分のほうが「弟だったら……」ということだ。

 朔也は兄だったので、父親の会社を継ぐために父親のもとに残されたのだが、バブル後に会社は倒産し、朔也は苦しい生活を余儀なくされてしまった。一方、陽斗のほうは、母親が再婚した日高満(木場勝己)が食品メーカーを創業して大成功し、その御曹司となった(が、長じて陽斗は自分で会社を立ち上げて成功)。日高満は、朔也を引き取りたいと朔也の父親に申し出たこともあったが断られている。

 朔也は、いじめ、パワハラなど多くの苦難を経験し、運が悪いとしか言いようのないような出来事に巻き込まれていくなかで、次第に人生に絶望していく。そして「世の中のために殺したほうがいい人間たち」をリストアップして殺していく、というシリアルキラーになってしまった。

 双子なので「全く同じ人間のありえたかもしれない2つの人生」と捉えて、思考を巡らせてみることにさほどの違和感はない。

 しかし、読者諸氏もお気づきかもしれないが、これは家族的環境の問題ではなく「本人の気質に負うところが大きいのではないか」問題も浮上する。陽斗だったら、もしかしたら倒産して自暴自棄になっている父親の元でも、今と同じように会社を立ち上げて成功していたかもしれないという想像は可能だ。その反面、やはり環境に恵まれなければそこまでの成功はなかったのではないかという想像も成り立つ(運命論や人生論については別に書きます)。

 いずれにせよ、それほど複雑に考えずとも、朔也の恨み辛み、そして絶望感を、視聴者は読み解くことができる(その部分に焦点を当てずに視聴することもできるが)。

 TVドラマ「天国と地獄〜サイコなふたり〜」は、「使われなかった人生」「ありえたかもしれない人生」の分かり易いパターンだと思う。

 

 もうひとつ。

 「キャッスルロック」というアメリカのテレビシリーズがある。タイトル通り(キャッスルロックは「スタンド・バイ・ミー」のあの街の名前)、スティーヴン・キング関連のドラマだ。キングの小説(映画)に登場するキャラクターとテーマを組み合わせた謎解きホラー。詳しい内容は割愛する。

 ビル・スカルスガルド(「IT」でペニーワイズ役)が演じる別世界(どうやらパラレルワールドのようになっている)から来た青年が、様々な不気味を巻き起こす。

 もうひとりの主人公で弁護士のディーバーが、この青年に呼ばれて故郷にキャッスルロックに帰ってくるところから物語ははじまる。

 そのディーバーの幼馴染で隣人のモリーは、こちらの世界では不動産販売をしながらなかなかシビアな生活をしている。超能力を持っているせいなのか、常に体調が悪い。

 そのモリーが、別世界から来た青年に「そちら世界の自分はどんな様子なのか」を尋ねるシーンがある。すると青年は「もっと幸せだよ(happier)」と答える。青年のいた世界でのモリーは市議会議員で、市民たちを積極的に助けるパワフルな女性のようだ。こちちらの世界のモリーとは天と地ほども違う。

 このシーンを観たとき、happierというセリフを私はなんだかとても切なく感じた。

 先述したが「ありえたかもしれない人生」について思いを巡らせるとき、私たちはたいてい、今の自分や環境に満足していない。どちらかと言うとネガティブな状態。そんなとき、パラレルワールド(があるのなら)にいる自分はポジティブに幸せに生きているかもしれない、そうあってほしい、と思うのは万人に共通している夢想的感情だ。

 

「使われなかった人生 ありえたかもしれない人生」を考えるとき、この「happier」は、なにげにキーワードなんじゃないかと私は感じている。一事が万事のような。これで言い得ているような。

日の名残り」も、あの二人が結ばれていたらhappierだったのかもしれない。ものすごく単純な空想だが、でもhappierだったら小説や映画のストーリーには事足りない。

 そして、別の人生のほうが幸せとは限らない、ということもある。

 

「こんなはずじゃなかった」と自分の人生を嘆く人はこの世にどれほどいるだろうか。たいていの人々は、社会や自分自身と適度に折り合いをつけて生きているので、人生についてものすごく深く考えたりはしないのかもしれない。

 今の地球に生きる人類は、生きていくうえで必要な物、すなわち「お金」について最優先に考える。そうしなければ死んでしまうから。そして資本主義社会はそのような仕組みになっている。

「こんなはずじゃなかったけれど、こんなもんか自分なら」と、多くの人々は諦念のように自分自身を納得させている。

 

100万回生きたねこ」の作者である佐野洋子(絵本作家/エッセイスト)が、次のように書いている。

人生は長い。長いが短い。長い人生をやっていると、うすぼんやりと、あるいははたと、あるいはピカッとわかることがたちあらわれて来る。(略)

しかし、わかったことはもう手遅れなことが多い。人生は短い。例えば、結婚とは、恋愛とか理想とかなりゆきとか半狂乱とか打算とかいろいろ動機はあるが、つまるところ相性がいいかどうかということなんだと気がついた時は、離婚したあと、失敗したあとのまつりだったりする。しかし相性が悪いなどということは長い年月がたってからわかることであって(略)。

結婚なんて大事(おおごと)でなくても、「わかった」とひざを打っても手遅れのことがほとんどである。「若さ」などということも失ってから初めて、わかることである。

(「今日でなくてもいい」佐野洋子エッセイコレクションP128「あとのまつり」)

 

「使われなかった人生 ありえたかもしれない人生」は「あとのまつり」なのかもしれない。

 それを後悔しつづけてもなにも良いことはない。

 けれども、あのときこれこれこうしていれば、あちらの道を選んでいたら、今頃自分はどのような気持ちで人生を歩んでいるのだろう、という疑問への答えは知ってみたい気もする。ということは、私自身も後悔の多い人生だったということを白状していることになるのだろうな。そうでなければ、占い師などやっていないのかもしれない。

 

 老齢期ともなれば「使われなかった人生」がいくつも出てくるかもしれない。

 でも老齢期はある意味恵まれている。家族、経済、健康にも左右されるので決して完璧ではないが、「使われなかった人生」を「使う」ことができる。生活費や誰かのために好きでもない仕事を我慢してする必要がないからだ。

「ありえたかもしれない別の人生の自分」にはなれないかもしれないが、あの時(若い頃)できなかったことを(やろうと思えば)やってみることができる。それを老後の生きがいにすることもできる。

 そう考えると高齢者にとって「使われなかった人生」は、「あとのまつり」であると同時に再生・復活への「希望」とすることもできるようだ。

 happier……

f:id:risakoyu:20220224100223j:plain

ありえたかもしれない人生 ©2022kinirobotti