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「らしさ」の哲学(9)〜そもそも「優秀」ってなんだ?〜

「努力は報われる」に違和感を覚えたことから始まった『「らしさ」の哲学』。

 

 もうひとつここで、ここ数年でとても気にかかっているワードがある。

「優秀な人」「優秀な人材」だ。
 そもそも「人材」という極めて資本主義的ワードにも嫌悪するのだが、ここでは「優秀」のほうに着目する。

 

 企業が重視するポイントに「経歴」「即戦力」があるが、「経歴」は経験やスキルについて物語るのでここは譲るとしても、「即戦力」にばかり注目するのはどうなんだろうと思わないでもない、いや、思う。

 そもそも新入社員は即戦力にはならない。ゆえに大学でスキルを教えろということになって、大学教育がおかしくなった。大学というのは、学術のために存在している最高学府だ。学生はそこで教養を身に着け、学問をする。それは、そこから先の人生での考える基礎となっていく。スキルを教えるのは専門学校であって「大学」ではない。もちろんスキルに特化した大学もある。体育大学とか音楽大学とか美術大学、医学部とか。

 最近言われ始めている稼げる大学なんてものは言語道断だ。稼げる図書館、稼げる公園、稼げる……。公共性の高いものはそもそも金儲けの対象であっていいわけがない。資本主義の極みは、これからもたくさん頭をもたげてくることだろう。

 大学や研究については語りたいことも少なからずあるが、ここでは「そもそも優秀ってなんだ?」を「らしさの哲学」的に考察しようとしている。

 

「優秀」というのは、今の世の中ではおそらく「稼げる」とイコールなのだろう。

 役人の給料が低いと優秀な人がどんどん民間に行ってしまう、などと言う声をよく聞く。優秀な人どころか、研究者などは上に書いたおかしな教育改革のおかげで、海外の大学へ行ってしまう人も多いと聞く。

「優秀な人、いないかなぁ、いないねぇ」これは社長や人事部の人の定番の嘆き?かもしれない。CMでもよく見かける紋切型表現だ。

 

 結論を言うと、「優秀」というワードを使うのやめませんか?である。

 そもそも私自身、いわゆる「優秀」な人間ではないゆえに、こんな提案をするのかもしれないが。

 

「優秀」という言葉のなかには「優秀でない」がセットで組み込まれている、と私は思う。会社や組織での「優秀」な人を選ぶための採用試験、それは当然ながら「優秀でない」人を排除するためのものでもある。会社によっても採用の基準はさまざまではあると思うし、画一的でもなければ、個性や人間性を重視している組織もあるだろう。が、大半は世間が言うところの「優秀な人材」探しに血道を上げる。

 おそらくそれってもしかしたら、社会通念的行動なのかもしれない。すなわち、そこには深い思考も理想もない。うっかりすると、自分にとって「都合の良い人間を」優秀だと認定する人もいるかもしれない、いや、いる。そのときの「優秀」の基準は、自分よりも劣性だったり、イエスマンだったり、太鼓持ちだったりするかもしれない。なにしろ本当に自分よりも優秀だと、扱いにくいので。

 官僚の場合は、試験で高得点を取れる人。学校の続きである。

 

 診療内科医の海原純子のコラムに次のような文面があった。

アート分野の賞の選考委員をしていたときのこと。委員の構成は男女比5対1くらいの割合が多く、女性は海原ひとりということもしばしば。

常々不思議なのは、私が、これはいい、と思って選ぶ作品は、他の委員の評価は低い。逆に他の委員の評価が高い作品は私には心に響かない。

(略)

つい先日も(略)、私が新しい視点でとてもいいと思い高得点をつけたものが、次点にも選ばれず、結局何の賞にも入らなかった。作品の技術的な問題ではなく、何を評価するかという委員の価値観の違いがこうした結果につながるのだろう(略)。これまでは私のものの見方が人と違うのだろう、と多数決にすることに違和感はなかった。ただ今回は、もし選考委員の構成がもう少し多様性に富んでいたら結果は全く変わっただろうと思った。女性、高齢者、障がい者が選考委員に入っている会はあまり聞いたことがない。せめてあと何割か、マイノリティの人たちが選考に入ると違う価値観の作品が世の中に発信されるだろう。

(「新・心のサプリ/選考委員の比率」2021年6月20日毎日新聞

 

「文化芸術は実力がすべて」と発言した都倉俊一文化庁長官にいっせいに批判の声が上がったのも2021年6月だった。

「実力」とはなんだろう、メジャーで広く大衆に認知されて稼げる力のことか?と問いかける人もいた。

 

 画家の奈良美智は次のようにツィートした。

都倉文化庁長官は「文化芸術は実力がすべて」と言ったけれど、かつて自分は大学卒業後に名だたる奨学金に応募し、すべて落ちた経験があります。はばかりながら、自分は美術の分野ではかなり成功しているほうだと世間は思っているでしょう。

つまり「実力うんぬん」以上に「可能性を感じる」力が選ぶ側に要求されます。それが(選ぶ側を決める時のしがらみやなんやらで)無理ならば、平等に育てるべきでしょう。(略)

「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」※

たいていの審査員が思う実力は、目に見える程度のものだと思います。よく鳴く雀やスマートな燕を良しとして、大鳳の可能性を感じれる審査員はそんなにいないと思います。(略)

大きければよい、流行ればよいという経済的優先な考えだけでは文化芸術という大木は育ちません。

※「小人物は大人物の大きな志をさとることができないというたとえ」

コトバンク

 

 Mayさんは次のようにツィートしていました。

大輪を咲かす前に若い芽を摘んでしまう事は多々あります。忖度の為に大輪の花を見ずに枯らしてしまうのは実に勿体ないですね。可能性は誰にでもあります。じっくり育てる遅咲きの花もあります。可能性を育てるデッカイ土壌が欲しいですね。

 

 都倉俊一は昭和歌謡のヒットメーカーだが、こんなつまらない人だったのか、それとも権力を持ってつまらない人に成り下がってしまったのか。いずれにしても、昭和のヒットメーカーと言われる人たちの正体が露呈する昨今。この人もそのひとりだった。

 

 海原純子奈良美智は、同質のことを言っている。

 金儲け主義は、あらゆる分野に蔓延している。というか、そもそも資本主義とはそういうことなのだろう。どれだけ効率よく稼げる(人)か。

「大輪を咲かす前に若い芽を摘んでしまう事は多々あります」というMayさんの文面を読んで、映画監督の是枝裕和がかつて言っていたことを思い出した。

 ある若い新人映画監督が、自分の作品を映画館にかけてもらおうとたくさんの映画館を回る。けれどもなかなか受け入れてもらえない。客が入るという保証がないからだ。誰かひとりでも有名な俳優や歌手が出演していると、受け入れてもらえるらしい。是枝は、自分の作品に福山雅治が出演してくれたので、それがきっかけとなって映画監督を続けることができた、とても幸運だったと言っていた。つまり、福山なら集客が見込める、と映画館が判断するわけだ。

 ここで是枝監督が訴えかけていたのは、まさにMayさんのつぶやきにあることだった。若い新人監督は、映画館に営業活動をしてまったく取り合ってくれないという過酷な経験を経てそこで諦めてしまう人が多くてもったいない、と。映画監督という仕事を続けることを止めてしまう人もいるようだ。

 諦めるということで言えば、この度のコロナ禍での給付金請求に関するあれこれを思い出す。あまりに複雑で面倒な書面作りゆえに諦めた人もいると聞く。役所にせよ保険会社にせよ、集めるだけ集めて、配る段になると出し惜しみしてどれだけ与えないようにするかという悪知恵を働かせているように見える。日本というのはそういう国だ。

 日本はこれまで、人の能力をどれだけ潰してきたのだろう、と思わず天を仰ぐ。

 

「じっくり育てる遅咲きの花もあります。可能性を育てるデッカイ土壌が欲しいですね」とMayさんは言う。これはまさに「自分らしさ」だと思う。

 

 拝金主義と競争主義が、人や世界を歪ませ、即物的にしているのではないだろうか。

「優秀」だとか「実力」だとか、どこで誰がつくったのか分からない、誰がどこから持ってきたのか分からない定規を使ってあらゆるものを測り続ける社会。

「優秀な人材」ではなく「仕事や仕事場と組み合わせの良い人」を探せばいいのである。「この人優秀ですね」ではなく「この人うちの会社にぴったりですね」というCMがあっていい。いや、あってくれ。

 CMやドラマの影響は大きい。

 話はずれるが、

 「夫 妻」という呼び方、けっこう定着してきたように思う。「主人 嫁」とくに「主人」と女性が言うのはやめようという声があがっていた。最近は、タレントコメンテーターなどが「主人」と言っているのを聞くと(たぶん本人は上品な雰囲気を醸しているつもりなのだと思うが)、なんか古い感じが否めない。

 あるドラマのなかで誰かの連れ合いのことを「夫さん」というセリフがあった。あ、この呼び方いいな、と思った。私も占いの最中に相談者さんの夫のことを、これまではご主人と言ってきた。けれどもじゃあなんて言えばいいのかな、と悩んでいた。「あなたの夫は」なんて言うとなんだか失礼な気もする。そんなときドラマのなかで「夫さん」と言っているシーンを見て、これだ!と思った次第。占いのときには「夫さん 妻さん」と言うようにしている。それでもたまに「ご主人」とか言ってしまうのだが、長年馴染んできた呼称なので致し方ない(私はいまだに「5チャンネルテレビ朝日」のことを「10チャンネル」と言ってしまう。馴染みはなかなか抜けない)。「ご主人」と言ってしまったときは「夫さん」と言い直すようにしている。

 

 仕事に関しては「夫 妻」的改革のように簡単にはいかないとは思うが、言葉の使い方からその本質も変化させていくことはできる。

 ゆえに「優秀」という表現はそろそろやめにしたほうがいいと私は思っている。

 

 この記事のタイトルは「優秀ってなんだ?」だが、「実力ってなんだろう?」という疑問もあらためて湧く。「優秀」も「実力」も、私自身ここまでの人生のなかで何気に使ってきたワードで、なんとなく分かった気になっていたと思う。「実力」は会社で言えば「即戦力」に近いのかな。

 是枝裕和のエピソードと都倉俊一の発言を交差させてみると、人のコナトゥスを踏みにじるような環境は変革させるに越したことはない、と思う。

「おれは優秀じゃないから、実力がないからだめなんだ」ではない。優秀な人間と優秀でない人間がいるわけではない。それぞれがそれぞれ個別に、得意不得意、能力を持っているだけだ。

 スピノザが言うように「組み合わせ」で考えたとき、人は幸せになれるし、社会も穏やかになるのではないだろうか、と私は考えている。「組み合わせ」で考えれば、そこには「優秀」という価値基準はなくなる。

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