60歳からのわがままタロットセラピー
=やりのこさないために=
=ご都合主義シニアのアジール=
「60歳からのわがままタロットセラピー」としては、兎にも角にも、何事も「都合よく生きる」ことを提案します。
早ければ5年か10年後、遅くとも20年かそこらで「どうせ死んじゃうんだから」、だったら好き勝手しよう!
そんな意気込みを心に沸き立たせていたとき、やたらと目に入ってきたのが、老境に達した人たちの言葉、あるいは老齢になって活躍した人たちのエピソードでした。
年齢を考慮したとき、「お片づけ&処分」という作業がサクサクできました。ここから先の限りある人生を見通したときに、その長さを勘案すると不要な物の判断が難なくできたからです。ちなみに人生に限りがあるのは若年期でも同じなのですが、その時期の私たちは人生の時間を永遠にさえ感じています。それは老年期になって気づくことの最大級の後悔でもあります。
「サクサクお片づけ&処分」の他に、もうひとつできることがあります。「好都合に解釈する」ことです。そうすることによる「生きがい」や「わくわく感」を忘れないでいること、思い出すこと、諦めないこと、を推奨したいのです。
これを人呼んで「夢」とも言います(夢というワード、最近はあまり使いたくないのですが、適当な言葉が他に見つからないので使います)。
「諦めた夢」「やりたくてもできなかったこと」「新しく挑戦すること」でもなんでもいいと思います。とにかく積極的に取り組む、取り組める、取り組みたい「何か」です。
すでに「Bucket List」「死ぬまでにやりたいことリスト」でも書きましたし、なんだそのリストのことじゃん、と思われるかもしれませんが、まあ、そうです。
ここでは、ただリストを書くのではなく、やりたいこと、そうなってみたいことの裏付けを得て、励まされて、言ってみれば「夢を叶えよう」「やりたことをやっちゃおう」ということなのです。
以前の記事で、もうひと花咲かせようとか、最後にひと花という思いが「お片づけ&処分」の決断力を鈍らせる、後回しを助勢してしまうので注意したほうがいいという話をしました。ここで言うところの「夢を叶える」「やりたいことをやる」は、似て非なるもの、別の観点であることをひと言申し添えておきます。
以下はご都合主義を肯定するための激励の事例です。
前にも少しご紹介しました後藤はつのさんは、73歳で画家としてデビューしました。
西本喜美子さんは、73歳でアマチュアとして写真家のキャリアをスタートしました。その約10年後には個展を開き、2021年現在は、自撮り面白写真をアップしているインスタグラムのフォロワーが22万人を超えているそうです。2016年(88歳)には本も出版し、立派なプロの写真家です。
60歳を過ぎてデビューしたり新人賞を取ったりした人は意外といます。スポーツ選手は難しいかもしれませんが、文筆や絵画などは肉体的衰えがあっても断然可能な仕事ではないでしょうか。もちろん文を書いたり、絵を描いたりするのも体力が必要ですが、サッカーよりはプロとして活躍できる可能性はずっと高いと思います。スポーツにもシニアスポーツ、シニアの大会などもあります。
楽器も想像以上にできそうです。70歳を過ぎてからバイオリンを始めてかなりの腕前になったという人の話を知人から聞いたことがあります。
歌はどうなんでしょう。ベテランのプロ歌手でも年齢とともに声が出なくなるようですけれど、それでも理想どおりには歌えなくても楽しむことはできますよね。私も余裕があれば、ボイストレーニングを受けてみたい気持ちはあります。どこかのホールやライブハウスなどで歌うこともできるかもしれません。「死ぬまでにやりたいことリスト」ですと1回でも実現したらOKマークなのですが、それを機会に、仕事として持続していける可能性もあるかもしれません。別に大金を稼ごうというわけではないので。
サッカーだって野球だってプロにはなれなくても、何らかの形で関わっていくことはできるかもしれませんし、シニアチームに入ることもできるかもしれません。どこも入れてくれなかったら自分でチームをつくるのはどうでしょう。
料理、昆虫採集、ガーデニング、工作、大学や大学院で研究を深めることもできます。キリスト教でも仏教でも学ぶことができますし、寺院やお城巡りをしてプロ級の知見を得たり、あるいは独特の感想を持つなどして、それがなにがしかの形になっていくこともあり得ます。
クゥさんという方がツィートしていました。
今が一番若い。何を始めるにも遅いはない。
こんな年からなんて。後10才若かったら。もう今更やで。
こんな事言ってるうちにどんどん老けていくんやで。
何を始めるにも今が一番若い。
「今が一番若い」って、ご都合主義ど真ん中ですね。
映画監督の想田和弘は、次のように言っています。
50歳になりました。今日からは「余生」だと思うことにします。数日前に思いつきました。「まだまだ若いじゃん」というのはその通りですが「余生」だと思った方が気楽に楽しく生きられそうな気がして、その思いつきを気に入っています。
このツィートに対して内田樹(フランス文学者・哲学者・武道家)が、
おめでとうございます。若いときには「若いんだから好きにさせてよ」と言い張り、年を取ったら「もうすぐ死ぬんだから好きにさせてよ」と言い張るのがコツですよ!
と返しています。
ヤマザキマリと川上弘美の対談では以下のような遣り取りがありました。
そうそう!うちの母も、定年後に「もう楽器は弾かない」と言って、突然、社交ダンスを始めました。
川上
(略)63歳で小説家デビューして芥川賞をとった若竹千佐子さんも、小説を書き始めたのは55歳のときでしょう。考えてみれば、50歳のときにまったく新しいことを始めたとしても、20年やれば、70歳ですごいベテランになれるわけだし。
(「人生100年時代に考える“生涯現役”という生き方」より)
大塚紳一郎(心理療法家・翻訳家)と若松英輔(批評家・随筆家)のユングついての対話のなかで、大塚が次のように言っていました。
「代表作」のほとんどは70歳以降に書かれているんですよね。ユングが86歳まで生きなかったら…「ユング心理学」はそもそも成立しなかったのではないかと思うことがあります。
70歳を過ぎてなお、いや、ユングが70歳を過ぎてから精力的に著述活動をしてくれたおかげで、後世の者たちが心や魂について多くを学ぶことができています。
どうでしょう。これらのポジティブ情報を自分の余生に都合良く取り入れませんか?
例えばあなたが、何かやりたいこと、夢を持っていて10代20代と取り組んできました。30代になってもまだまだチャンスはあるだろうと諦めることはできません。けれども夢を追っているだけでは生活できないと認識し始めます。周囲からもいよいよいろいろ言われます。けれども生活のために他の仕事をしながらも、40代になってもまだ夢を追い続けています。人生はまだまだこれから、チャンスは巡ってくると思っているからです。しかし50歳そして55歳と年齢が重なっていくにつれて、もう無理かなとさすがに諦念が過ぎってきます。自分はもう「トシ」だ、と。
そこで上記のような60代70代でプロとして活躍の場を得た、評価された、そこからあとの仕事こそが後世に残ったという人々の情報を目にして、自分にもできるんじゃないかとにわかに意欲が蘇ります。
人というのは、そのときどきに順応して自分を安心させる能力もあるようです(これは先延ばしとは違います。現象的にはものすごく紙一重なのですが、その心持ちにおいては雲泥の差があります)。
と言うよりも、世の中の人文的背景がそのようにできているのかもしれません。定量的世界では、あらゆる出来事に「限界」があるかのように教えられます。ところが人文的世界には限界はない。むしろそれまでの定量的生き方が間違っていたのだ、ということを知らしめてくれる。しかも、人生(余生)の限界を意識したことによって逆にその無限性が開花していく、というパラドックスまで教えてくれます。
私も幼い頃から今までの自分を振り返ってみますと、まさにそうだったと思います。
その都度その都度の時期で、都合よく捉えていっている自分がいることに、この歳になって気づきました。
けれどもこの思考過程は、ポジティブに引き受けるときに功を奏するのであって、ネガティブに働くとただの怠け者になってしまいます。いわゆる「やらない言い訳」「先延ばし」につながってしまうからです。「次がある」という安心バイアスを常に自分にかけ続けて、結局できずに不満足をかかえたまま老後を迎え、そして死んでいくというステレオタイプです。
「積極的ご都合主義」は、チャンスの幅も時も広げてくれます。それは、永遠の視座からの私たちへの絶大な応援ではないでしょうか。
もちろん、長年の夢を叶えたり、プロになったり、大活躍したりということを目標としているわけではありません。そこにだけこだわっていると、それはそれでまた執着を呼んでしまいます。すでに死にゆくときであるのですから、執着は避けて穏やかに生活します。
ただし、シニア期に離婚を考えている女性の場合、蓄えがないので離婚できない、だから仕事をしなければということで、夢を叶えることが生活費に直結していることがあります。それは様々な観点が交錯しており複雑です。このテーマは別の機会にゆずります。そういったご相談も私のところでもありますし、新聞の人生相談でも本当によく見かけますので。
私たちは、都度いろいろな思いが浮かんでは消えを繰り返しながら、余生を生きていくと思います。
余生に「やりたいこと」を思うことの長所は「気負わずにできる」ということではないでしょうか。誰とも比較しなくていいのです。逆に比べてはいけません。そんなことをしたらストレスになるだけです。
自分が好き勝手なことを好き勝手にするのですから、他人の意見や目、評価を気にせず、挑戦したことへの結果にも一喜一憂することなく(もちろんがっかりしたりはするでしょうが)、やりたいことをやって楽しむだけです。チャンスは死ぬ直前まであるのですから。
更に言及すれば、死んだあとにもチャンスはあるのです。
例えば絵画などは死んだあとに評価される場合もあります。現実にそのような画家はたくさんいます。写真や彫刻や小説やエッセイでも、創作物というのはあなたの孫の代になって突然脚光を浴びることになる可能性はゼロではありません。
2019年8月12日、若松英輔は次のようにツィートしていました。
何かを諦めないでやり続けるには、その試みの成果を自分の目で確かめようとしないことだ。自らの行ないを、自分で確かめられるのは素晴らしい。しかし、文化の根底を作ってきた多くの人々は、必ずしも生前に十分な評価を得ていない。時代をまたいだ仕事を始めるときの最初の覚悟がここにあるのだろう。
若松英輔はすでに十分に著名ですが、けれどもきっとこのような覚悟を常に心に持ちながら、謙虚に日々を過ごしておられるのだろうと、とても感銘を受けました。
ここまで壮大な思いではなくても、自分の子孫たちに、あるいはまだ見ぬ誰かに何かを残すつもりのご都合主義は、ストレスのない希望に溢れた余生になるのではないか、と私は今思っています。
自分と同じような悩みを抱えている人のために何かを書き残しておく。それ(メモかノートか手紙か本か、分かりませんが)が自分の死後、どこかで誰かの目に触れて、その誰かの心を励ますというSFドラマのような出来事を、誰が否定できるでしょうか。もしかしたら、生まれ変わった自分に宛てられた伝言になるかもしれません。
タロットカードはすべてのカードを通じて、ここで書かせていただいていることを伝えようとしている、私にはそのように思えてしかたがありません。
それこそ「やりのこさないため」の「わがままタロットセラピー」なのです。
「余生というのは、もうすぐ死ぬってことなんですから、好きにしたらいいんですよ」
「何歳になっても、何をするにも遅いということはないんですからやりたいことをやったらいいんですよ」
そしてシニアの私たちがこれから成していくことは、若松英輔の言葉にあった「時代をまたいだ仕事」なのだと、私は思っています。