60歳からのわがままタロットセラピー
=やりのこさないために=
=ご都合主義シニアのアジール=
本を集めて配置した書棚とは、身体拡張の環境でもあるのだ。
(山本貴光「記憶のデザイン」P185)
核心を突いていると思います。
データだとこの感覚を味わうことができません。
データと紙の本、どちらがより良いというわけではありません。時代の変化とともにどちらか一方を選択せざるを得ない時がやってくるかもしれません。本も劣化しますし、災害などで失われてしまうことはありますが、データについては(バックアップという機能はありますが)、ある日突然消えてなくなるってことがあるのでは?と考えますと、私はまだまだ紙の本派です。老眼があまりにひどくなって紙の本を読むのが困難になったら、電子書籍で文字を大きくして読むことになるかもしれません。
書棚のもう一つの利点は、そうはいっても有限であることだ
(同上P185)
すなわち、容量に限りがあるのでおのずと整理整頓する、というのです。際限無く買い溜める、溜まってしまうという人もいるでしょうが。「60歳からのわがままタロットセラピー2①」でも触れましたが、私の相談者さんの大学の先生は、家の床が抜けたという話をしてくれました。
以下は、沢木耕太郎著「旅のつばくろ」の一節です。
私はこれまで二度ほど本の大量処分をしている。一度は知人の求めに応じてブラジルの日系人のために一万冊くらい送った。二度目はふたたび溢れるようになった本を預けていた倉庫会社が倒産し、そのあおりを受けて数千冊がすべて消えてしまうという災難に見舞われ、結果的に処分するのと同じになった。
それでも、また本は増え、三度目の処分が必要になっている。しかし、この三度目がさすがに最後のものとなるだろう。
(「書物の行方」P186)
軽井沢の古書店で、著者は店主から「最近は古書業界全体が供給過剰で困っているくらいだ」という話を聞く。理由は、6〜70代の男性がいっせいに本を処分しようとしているからだという。紙の本を大量に買った最後の世代なのだと思う、と。
そこで著者は「私と同世代の男性たちがいわゆる断捨離を始め、まず書物の処分を敢行しはじめたらしい。人生の始末をつけるために。さて、私はどうしよう」と考え、そして、
何を残すか……分からない。だが、確かなことは、(略)本当にこれからの人生で必要なものだけになるだろうということだ。
(同上P186)
と、エッセイを閉じています。
著者の蔵書の処分の仕方、処分に至った経緯は尋常ではないですが、「本当にこれからの人生で必要なものだけになるだろうということだ」というのは、本だけではなく、「60歳からのわがままタロットセラピー」としては、全ての持ち物について言えることです。
今日は夕方まで仕事をしていて書庫の整理をした。(略)本を読むのも、書くのも好きだが、本をさわっている時間も好きだ。もしかしたら私には最高の気晴らしかもしれない。
(若松英輔ツィートより)
これに対する反応がありました。
本棚の整理は、世界を整え直す行為で、精神的にいいですね。
(中島岳志ツィートより)
若松は別の日には次のようにつぶやいています。
今日は粗大ごみを捨てた。すでに自分のなかでは年末が始まっている。(略)身の回りの整理を始めてみると、世界が違って見えてくる。何に向かって生きているのかを真剣に考え、見つめ直している。
「60歳からのわがままタロットセラピー」で私が書いているのは、「人生の時間の限りが見えてきたことで取り組める“お片づけ&処分”」です。
残りの人生時間が少なくなってきた年齢になって本気で身辺整理をはじめる人も多いことでしょう。終活なるものも推奨されている昨今です。
上にあるように「身の回りの整理を始めると世界が違って見えてくる」というのであれば、それは老齢になってからだけではもったいない。やはり定期的に行うのが理想的なのかもしれません。
なかでも書架の整理というのは、読書好き、探求好きの人間からすれば実は大変魅力的な作業です。「本と向き合う」ことは「自分と向き合う」ことでもあります。
整理整頓というのは、ただ忙しい日々に流されていると、どうしてもおろそかになってしまいます。忙しい日々は、自分との対話ができません。自分と向き合うのを避けるために、わざと忙しくしている人もいます。タロットカードNo9「隠者」のエネルギーを取り入れることは、自己の成長のために大切なことです。
既に書きましたが私はこの度のお片づけ作業で、書物の処分もしました。
極めて私事で恐縮ですが、上記でご紹介したツィートの若松英輔がゲーテについてツィートしているのを読んで、「ゲーテ全集」を目の届く場所に移そうと思い立ち、いささか乱雑になっていた私の小さな本棚を整理することになりました。せっかくの「ゲーテ全集」なのに、まとまって並んでいませんでした。それを全て取り出して別の棚へ移動して整然と並べ、それに伴って空間の増えた本棚に別の本を入れながら、大雑把ですが書棚が整いました。
その際に出てきた不要な冊子や本も捨てることができました。なんとすでに手元にないワープロのマニュアルなどもあって、どれだけ無秩序な暮らしをしていたのだろうと呆れたりもしました。
いちばん思い切ったのは「辞書」でしょうか。古い辞書です。国語辞典とか英和辞典とか独和、仏和…etc。趣味的に買っていた革表紙のものとか携帯用とか出てくるわ出てくるわ。CDのプラスチックケースを処分したときと同様の後悔のような感覚を味わいました。
けれども、それらひとつひとつ、購入したときの気持ちはありありと思い出せるのです。どうして買おうと思ったのか、買ったのか。ただただ所有欲にかられて買ってしまったときもあったように思います。これらの辞書と向き合いながら、私は自分を振り返っていました。
10年前なら捨てなかった、捨てられなかったと思いますが、今はもう私にとっては役に立ちません。文字が小さすぎて読めないのです(CMみたいですが)。単語や言葉はネットで検索できますし、そのほうが文字を大きくして読めますから、今の私には紙の辞書は不要物となってしまいました。しかも書棚のけっこうなスペースが占領されていましたので、処分するに迷いはありませんでした。
ただほんの少し、もったいないかなという躊躇が資源ゴミを出す当日の朝までありました。もっと広い蔵書スペースなら知的装飾の一部くらいにはできたかもしれません。ですが、貴重な代物でも何でもなく、ごく一般的に書店で売られているものですので、合理的に考えて処分は正解だったと思います。書棚がすっきりと片づきました。
ちなみに、辞書ってほんとうに文字が小さい。老眼鏡でも読めません。昔の人はどうしていたのでしょう。虫めがね?だから〇〇ルーペかぁ。
捨てることのできる本、本を捨てる決心がついたとき、それは、その本の中身が身についているから、既知の情報となっているからだと誰かが言っていましたが、さもありなんかなと思います。辞書はこれに当たりませんが。もちろん最初から不必要な本、中身を堪能することができない買って損した的な本も処分のなかに入ります。
のちのち参考資料になる?そんなことを考えていたら「お片づけ&処分」なんてできません。そもそも、
「60歳からのわがままタロットセラピー」なのですから、「のちのち」はもう「ない」という基本スタンスを忘れてはいけません。
沢木耕太郎が言うように
「本当にこれからの人生で必要なものだけ」
を残します。
そうそう、ちなみに映画のパンフレットは貴重かもしれないかなと思い、保管しておくことにしました。昔は、映画館で必ずパンフレットを買っていました。
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沢木耕太郎 作家
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