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清水眞砂子「日常を散策するⅠ Ⅱ Ⅲ」④〜ひとり居とわがままのすすめ〜自分でいるために〜ヒーローって?〜

 いやなことをいやだと言えない社会は不健全だが、逆にそうできることは珍しいのかもしれない。

 

日常を散策するⅠ「本の虫ではないのだけれど」

日常を散策するⅡ「不器用な日々」

日常を散策するⅢ「あいまいさを引きうけて」

清水眞砂子かもがわ出版

 

 学生時代、渡辺一夫(フランス文学者1901〜1975)の講義を受けた清水眞砂子。「魔女狩り」についての講義だった。そのとき、こう思ったそうだ。その場に自分がいたとしてはたして自分は、魔女を「殺せぇ」と叫ぶ多数派ではない方に行くことができただろうか、と。

 世の中には、例えばかつてユダヤ人たちを助けた人々がいたように、どこかでこっそり人道的、倫理的な立ち居振る舞いをしてくれる名もなき善良な人々が少数ながらでもいてくれるおかげで世界は存続できているのだ、と清水は言う。

 それほど大層な出来事ではなくても、普段の生活のなかでさらっと親切にしてくれる人がいる。私もたまに出会うことがある(おそらく欧米諸国よりも日本はそういう人に出くわす機会が少ないかもしれない)。そんなときは、殺伐とした雰囲気のなかでなんだか心が救われたような心地がしたりする。

 

 2018年、大学のアメリカンフットボールの試合中に起きた危険な反則タックル問題が大きく報道された。このとき、その反則をしてしまった学生(選手)が、監督の指示であったと告白したことで報道は加熱した。この告発はひとりの学生にとって(支援者があったにしてにも)おそらくとてつもない勇気を必要としたことだったろうと思う。ある意味、たったひとりで大きな組織に立ち向かったのだから。応援してくれる仲間がいたとしても、彼らがいつ権威者側を恐れて萎縮してしまうか分からない。「ちがう」「いやだ」と言えない(彼もそのときは言えなかったのだが)、逆らうことができない人たちが大半のなかでこの学生(選手)は「ちがう」と叫んだ。

 あらゆる組織で似たようなことはある。「ちがう」「いやだ」と言えない理由の多くは仕事、立場を失いたくないなどの保身だ。あるいはそれを人質に取られている。

 

  ある日の明け方、NHKラジオ深夜便」から、パトリック・ハーラン(パックン)の声が聞こえてきた。オリンピックも近いということでスポーツについてのインタビューだった。そのなかで興味深い発言があった。

アメリカではスポーツは楽しむもの。

日本のスポーツは仕事っぽい。朝練があったり、上下関係もある。体育会系というと、行儀が良くて言うことを聞く、ということ。

アメリカでは、ウォームアップや練習、水を飲むなども、個人個人で決めるのでバラバラ。日本では、みんな同じことをしている。

監督の言うことには「はい!はい!」と、とても敏感に反応する。

国民性にあった指導方法なのかもしれないが、逆に言うと、国民性をつくるのは部活かもしれない。

小中高の部活のやり方を変えれば、国民性、みんなの性格も変わるかもしれない。

国民性にあったスポーツなのか、国民性をつくるスポーツなのか。

部活の時間が長い。無駄な時間が多いと思う。我慢強くはなるのかもしれないが。

(2021年4月21日)

 清水眞砂子が言っている「ひとり居」というのは、こういうことなのではないか、と思うのだ。

 すなわちパックンは、日本は組織力アメリカは個人主義だ、と言う。

個人主義」というのは「自分本位」とは違う。個々人で考えることができ、個々人を大切にする、ということ。そしてそれはまさしく「ひとりでいるときに」育つのではないか、と私は思った。

 ちなみにパックンは、日本のスポーツについて積極的に批判しているわけではない。組織力がすごくて強い、と感心している。

  ここ2〜3年、スポーツパワハラについて声をあげる選手たちの姿が見えるようになってきた。指導という名の人権侵害が日本中どこでも行われてきていたようだ。やはり部活などの仕組みの問題は大きいのだろう。権威者のパワーが独裁者のそれになっている。

 作家の平野啓一郎が次のようなツィートをしていた。

日本の映画やドラマのお決まりの演出の中に、かなり古いオッサン的な、パワハラ的な感情表現がある。いきなり怒鳴りだしたり、机をバン!と叩いて怒りを表現したり。オッサンの批評としてではなく、若い登場人物でも。あれが見てて辛いんだなぁ。

 私も最近はそのような古い表現満載のドラマは、見るのが苦痛になってくる。

 人はそれぞれ違う。それをひとつの型に収めようとするところに無理が生じる。けれども日本はそれに成功している国だ。みんなと同じことをしない人を「わがまま」と言わしめてしまっているのだから。それは、権力者からすれば大変都合の良い人間たちだ。

 清水も、少数派として声をあげること、へんだなと感じることに声をあげることを、若い頃からしてきたようだ。葛藤しながらも。

 

 清水はこう書いている。

教師たちは「教育的配慮」で、前もって巧みに反発を避け、真綿のように生徒をしめつけて管理し、飼いならそうとする。日本の若者は主張もしなければ、反撥もしない。怒るかわりに屈折してむかつき、その屈折した感情は仲間であるべき物たちに、さらには自分より弱い者たちに向かって、しばしば陰湿な形で発散される。

(「不器用な日々」P8)

 これが、いわゆるイジメにつながるのであり、また官僚という種族の気質をもつくってしまっているのではなかろうか、と私は思った。

幼い時から親の意に逆らわないように逆らわないようにと生きてきた若い人たちは、親に心配をかけないように、迷惑をかけないようにと必死である。

(「不器用な日々」P37「家族という不思議」)

  清水は、若者たちが家族に気を使って我慢をしているので疲れている、と同情しているのだが、私はこれも官僚気質とイジメの要因になっているのではないかと感じている。家でくつろげない、すなわち自由にできない、怒られたくないので静かにしている。そして、外で暴れる。家ではいい子だといういじめっ子というのは枚挙にいとまがない。官僚の場合は、「親に心配をかけないように」=「怒られたくない」が醸成されて、政治家に忖度する。なぜ官僚はあんなにいつもヘコヘコしてるのだろう、と私は不思議でならなかったが、そういう理由だったのだ。最近は、国会答弁のときに「キレる」「開き直る」が横行しているが。

 

 人は群れ、集団になると愚かになる、とは多くの人が指摘している。

 脳科学者の中野信子は次ように書いている。

人が集団で存在し、誰かが統制できない状況が続くと、些細なきっかけで魔女狩りは起きてしまいます。

ヤマザキマリ中野信子「生贄探し」P27)

 ひとりの時間を持つこと、考える基礎を得ることが「違う」と言える心と力を育てるのだろう。

 清水眞砂子魔女狩りの講義を受けたときに感じた自分への疑い、それをどう捉えるかは個々人の自由だが、自分は悪の加担は絶対しないという自信を持っている人ほど危険だと私は思う。

 疑うのは悪いことではない。「ひとり居」や「わがまま」と同様に「疑う」ということを「悪」だと思っている人が日本には多いように思う。「なんでだろう」「どういうことだろう」と疑問を抱くことは「悪」ではない。質問されると批判されたと勘違いする人が、教師にも店員にもどこにでもいる(ので困る)。

 学問、教養、知識は疑問からはじまるのだから。それこそ哲学とはそういうものだ。

 

「日常を散策する③」でも書いたが、多数派や権威に逆らってでも人知れず人助けをする人たちが世の中にはいる。そういう人たちがかろうじて世界を保ってきた。

「隠れ家を支えた人びと」(1988年1月)に次のようにある。

『思い出のアンネ・フランク』は、アンネの父の経営する商社に勤め、一家のあつい信頼をえて、“隠れ家”の人々を助けた女性の証言である。

(略)

あくまで無名でいつづけようとした「わたし」(=ミープ・ヒース)がひとりの女性に説得されてようやく始めたのがこの証言なのだそうで、本書を読んで浮かび上がってくるのは、そういう「普通の人びと」の、歴史の裏方を黙ってつとめる姿である。

(略)

そういう人(たち)だったから、この著者は黙って肉をわけてくれた肉屋の主(あるじ)のことも、やはり何もきかずにいつも余分に野菜を売ってくれ、重いじゃがいもを配達までしてくれた八百屋の主のことも証言し忘れはしなかった。

(「本の虫ではないのだけれど」P157〜159)

 

 海原純子心療内科医)が毎日新聞にこう書いている。

アメリカのテレビ局CNNが毎年暮れに放送している「CNNヒーローズ」という番組がある。地道な人道支援活動で地域に変化をもたらした個人をたたえる番組だ。

普段はあまり知られていない、地味だが心温まる活動の数々が丁寧な取材をもとに放送される。司会は人気ジャーナリストのアンダーソン・クーパーらが務めており、紹介される人たちがスピーチをして盛り上がる。おそらくこの番組がなければ、その活動を知る人は少なかっただろうと思う。

ニュースに登場する一般的なヒーローは、スポーツで素晴らしい成績を上げたり、海外の名誉ある賞を受賞したりする方たちだ。(略)

私がCNNのこの番組を好きな理由は、目立たない、しかし大事な活動を、「私たちは、ちゃんと見ています。そしてその活動に感謝しています」という姿勢なのだ。

そして、いつもテレビで放送されるヒーローたちからもらう感動とは異なる力をもらえるような気がする。

(略)

「新・心のサプリ」2021年4月25日「ヒーローに勇気をもらう」

 

 こんなインタビュー記事も目に留まった。

「いまこそ“仁”の医療を 村上もとか」(毎日新聞2021年4月26日特集ワイド)

コレラがまん延する大阪を冬馬がゆく。みすぼらしい身なりの少女につかまれ、足を運ぶと長屋で母が倒れている。冬馬は力を振り絞る。むろん無償。特効薬もない。臨終の脈をとるしかないこともある。だが、冬馬は言う。「何が足りなくとも病人は見捨てない……。死が訪れるより前に患者の心を殺しはしない……」。冬馬は令和の世にもいると信じたい。 

 ボランティアや人助けは、入試や会社面接でのポイントアップのためにするのではない。

 

 精神科医香山リカのコラムもシンクロした。

 めまいが気になるので大きな病院で診てもらうと言っていた女性が、ある日の診察で元気がない。どうしたのかと尋ねると、大きな病院であれこれ検査したが「どこもなんともないって言われました」とのこと。ではどうして暗い顔をしているのか?

「たしかに最新の検査であれこれしてくれたのですが、先生が発したのが“なんでもないですよ”のひとことで。私の話を親身になって聞いてくれる感じじゃなかったのです」

 (「ココロの万華鏡/誰かに親身になれるか」2021年4月27日)

 香山は「親身になる」という言葉に強く反応したと言う。

 病院だけではない、役所の不親切も昨今けっこう取り沙汰される。生活保護などを申請に行くと親身になってくれないどころか、冷たい杓子定規な対応をされることもあると聞く。それで命を落とした人たちのことも時に報道される。21世紀の豊かな時代に、である。

 以下は親身な例だ。

今日同行した福祉事務所の担当の方、対応素晴らしかった。必要以上の聞き取りなく「とりあえず申請書書いちゃいましょう」とすぐに段取りしてくれるし、「生活保護の『自立』っていうのは働いて経済的に自立するってことだけじゃないです。自立にはいろんな形があります」ってあえて言及してくれたし。

(永井悠大ツィッターより)

 

 医療や役所に限らない。本当のヒーローはどこでもいつでも人知れず倫理的な振る舞いをする人、できる人、いや、せずにはいられない人だ。

 人知れず親切な人たちも、ヒーローアワードで紹介されたり、ドキュメンタリーで紹介されたり、ネットで呟かれたりすれば、それはもう「人知れず」ではないのかもしれない。無名という意味では、最後にあげた役所の人だけが無名の部類に入るのかもしれない。

 本当の「人知れず」は、自分と相手の間だけのひっそりとした静かな出来事なのかもしれない、とふと思ったりする。

 清水眞砂子のエッセイには、そのような人がときどき登場する。そのような人たちがいてくれるから世界の破壊が延長されているようなそんな善良で親切な人たちだ。

 でも、その人が巡り巡ってこの清水のエッセイを読んだとき「あれ、これ私のこと?」と思っている人がどこかにいるかもしれない。それはそれで、嬉しいことだ。

 清水のような著名な人が無名のヒーローについて綴ってくれることが、それを読む人びとの心に明かりを灯してくれるのではないか。

 

 

付記

五年前、市の区画整理にひっかかって、家を建て直さなければならなくなった時、最後にぶつかったのが郵便受けをどうするかの問題だった。

(「不器用な日々」P76「あれが始まりだった」)

 清水夫妻は、家を留守にすることが多いので郵便がたまる。雑誌、書籍、その他郵便物と新聞で、ときに厚さ7〜8㎝にもなるという。なので、普通の家庭に取り付けてある郵便受けでは間に合わない。表に無造作に置かれて留守中に盗まれても困る。最近は物騒なことも多いので警戒心は増している。

適当な郵便箱が見つからないまま、古い家にあった大きな戸棚をとりあえず軒下に置くことにして、それは今も続いている。

(同上P77)

 Eテレの番組「こころの時代〜宗教・人生〜己の影を抱きしめて」で掛川のご自宅が映ったのだが、玄関ポーチのところに物置というのか、会社でよくみかける書類とか色々入れる大きなキャビネットが置いてあるのが見えた。横の見えるところに大きな郵便マーク〒が書いてある。あ、これが郵便箱だ!本当なんだ、本に書いてあった通りだ、と思った。これが「古い家にあった大きな戸棚」なのか、思考の末に選んだキャビネットだったのかは分からないが。

 これなら大抵の郵便物は入るだろう。

 我が家にもこれくらいのものがあれば最近はやりの置配もOKだな、と思ったりする。

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