ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

清水眞砂子「日常を散策するⅠ Ⅱ Ⅲ」①〜ゲド戦記と思い出〜

 ある日曜日の早朝。5時半ごろ。
 たまたまテレビのチャンネルがEテレに合った。
「こころの時代〜宗教・人生〜/己の影を抱きしめて」

 ひとりの白髪の女性が話していた。とても興味深い内容だった。そのまま最後まで視聴。

 その人は清水眞砂子だった。「ゲド戦記」の翻訳者。

 恥ずかしながらこの人物のことを初めて知った。
 恥ずかしながらと言うのは、私の書棚には「ゲド戦記」があるからだ。文庫のほうではなく、ハードカバーの方だ。

 そういえばこの名前、表紙で目にしてきた名前だ(そこでは眞砂子ではなく真砂子となっているが)。

 インタビューに答える清水の話が興味深い。ネットで検索するとエッセイ集を出している。が、いずれも在庫がないようなので、図書館で検索。あった!早速借りに行った。

 

日常を散策するⅠ「本の虫ではないのだけれど」

日常を散策するⅡ「不器用な日々」

日常を散策するⅢ「あいまいさを引きうけて」

清水眞砂子かもがわ出版

 

 読書週間を決め込んで、一気に読んだ。

 

 さて、なぜ私の書棚には「ゲド戦記」があるのか。
 今でこそジブリアニメによって「ゲド戦記」はかなりポピュラーだと思うが、私がそれを買い求めたのは、かれこれ35年ほども前のことになる。なので本の函(はこ)はけっこう古びている。

 でも3巻だけ。このあとさらに3巻あるのだが、それらは最初の3巻が出た後かなりの年月を経てから書かれたので「ゲド戦記」は3巻の物語と思っている人も実は多いらしい。清水がジブリを訪れたときにもそこには3巻しかなかったとエッセイに書かれている。

 私に「ゲド戦記」を教えてくれたのは、大学時代の友人だった。
 それも、あまり尋常ではない状況でのことだった。すでに大学を卒業して2年ほど。朝の新宿。私は職場へ向かうために地下道を歩いていた。けっこう必死で(靴擦れで足が痛かったのだ)。すると、なんだか横に人の気配がする。なんだろうと思いながらも必死で歩く。と、「〇〇さんですよね。大学でいっしょだった〇〇です」とその人影が話し掛けてきたのだ。

 え?と思った私は歩みを緩めた。すぐにはピンと来なかったが、次第に思い出した。そうそう細いジーンズの脚にスニーカーを履いているその足がなんだか妙に大きくて、その様子が漫画に出てくる男の子みたいだ、と同級生と話していたあの子だ(残念ながらもう今は名前が思い出せない)。

 歩きながら今なにしてるのか、何を考えているのかを話したような気がする。そしていつしか立ち話になって、ちょっとお茶でもしながら……となった。

 会社には「遅れます」と電話を入れた。お昼くらいまでに行けばいいや、と思っていた。けっこうな度胸である。ただしこの辺りの記憶は年々薄れており、細かい正確ないきさつは定かではない。

 そのとき、この同級生から「ゲド戦記」をすすめられたのだ。彼はいたく気に入っているようで、たいへん熱心に語っていた。

 清水眞砂子も、高校で英語の教師をしていたときに「ゲド戦記」の原書を読んでひどく興奮して、どうしてもこれを翻訳したいと思ったそうなので、そのエキサイティングぶりは似ているのかもしれない。

 心を撃ち抜いてくるような魅力があるのだろう。

 お茶に誘ってくれたのも、「ゲド戦記」のことを私に話したかったからなのかもしれない。地下道を歩きながらいろいろ話しているときに、私なら話を聴いてくれると直感したのかもしれない。初めて聞くこの不可思議なタイトルにいささか戸惑いつつも、へぇ、そんな本があるのかぁと私は同調していた。

 というわけで、後日、いやその日だったかもしれない。なにせ帰り道には紀伊國屋とかあるし。「ゲド戦記」3巻を手に入れた。どの本屋で買ったは全く記憶にない。

 

 正直なところ、私は児童文学を読むのがあまり得意ではない。なので、「ゲド戦記」の函はボロボロになっているが中身はきれいだ。じっくり最後まで読んでいない、と思う。

 その前に「はてしない物語」を手に入れていたが、それもちゃんと読んでいない。映画への感動のほうが強い。作者のエンデは、映画に大変ご立腹だったようだが、私はあれはあれでよかったと思っている(テーマソングも良かった)。ただし一作目だけ。

 

 清水はエッセイのなかで、「ゲド戦記」と「モモ」を取り上げて、ル・グウィンとエンデを比較している。

 私はエンデのほうが好きかもしれない。そして「モモ」よりも「はてしない物語」。

 清水曰く、

モモが作者の観念が生みだした子どもだとすれば、ゲドは作者の想像力が生みだした人物といえるだろう。
(「本の虫ではないのだけれど/虚構の愉しみ―モモとゲド」P231)

「エンデには物語世界より先に、伝えたい観念があった」「自分の思想を伝えたい欲求がまさっていたのではあるまいか」「書き手自ら善悪の判断をくだし、問われる前から応えをどんどん出していった」と清水は語る。

 すなわち、ル・グウィンは違うということだ。彼女は物語っている。そしてそこには無駄がいっぱいあるんだ、と。

 この二人の作家への批評はこんなところにまで及ぶ。

青春の日、私たちはどれだけ「人生論」に惹かれることか。わかりたいと焦り、日常の瑣事など目に入らず、余分なものが余りに多く書かれているように感じられて、物語がまだるっこく思えてきたりする。ごちゃごちゃ言ってないで、早く答えを、と言いたくなる。
「オウム神理教」に走った若者たちはおそらく最も性急に答えを求めた人たちであろう。

(同上P237〜238)

 このあと清水は、地下鉄サリン事件に関わった信者のひとりである医師について触れているが、これはおそらく林郁夫のことだろう。清水が言うように、彼は医師として患者と向き合いながら答えを求めて彷徨っていた。彼が獄中で書いた「オウムと私」を私も読んだが、この人はとても純粋な人で、患者を助けたいという思いが非常に強く、もちろん全員を助けることはできないわけで、そのことをずっと考えているが誰も答えてくれないという悶々とした日々を送っているときに麻原と出会い、自分の疑問に答えてくれる人が現れた!と思ってしまったのだ。

 

 話を戻す。ということはエンデが好きな私は観念を語ってくれる物語のほうが好きだ、ということになりそうだ。ただ、やはりいわゆる児童文学や小説を読むのを私は面倒だと感じてしまうタチなので(児童文学は以前から、小説は30歳前後から)、どうしても映画やテレビドラマに頼ってしまう。豊かな想像性というものに欠けているのだろうか。連続ドラマの視聴方法も最初と最後だけ見ようとしたりすることもある。途中で飽きてしまって、犯人あるいはどのような結末になったかだけ最終話で確認しようすることもある、かなりの邪道、外道な人間である。それでも、やはりよくできたドラマは面白いのでしっかり全話観るし、ブルーレイに焼いたり、再視聴したりもする。

 ドラマ談義はまたいずれ。

 

 ゆえに(というわけでもないのだろうが)、私は哲学書思想書のほうが小説よりも好きだ。とはいえそれはそこに答えがあるからではない。

 答えを探して哲学書を貪りはするが、哲学というのは答えを提示するものではなく、本来ああでもないこうでもないと逍遥するものなので、「まだるっこさ」は十二分にあると思う。性急に答えを求めたがる人は哲学を嫌うかもしれない。

 私も若いころにはきっとどこかに答えはあるはずだと思っていたが(神の存在まで含めて)、長い年月を生きてくると、いわゆる正解というものはどこにもないことが分かる。けれどもその道のりで様々な価値観や歴史を知り得て自らの思考の材料にし、ああだこうだと自問自答できるのだと思う。

「書き手自ら善悪の判断をくだし、問われる前から答えをどんどん出していった」という清水のエンデ批評に反論するわけではないが、多くの哲学者が言うように、「倫理」というものは普遍の価値を持っているので、エンデが答えを用意していてそれを最初から出しているように見えるのは「そこ」かもしれない。

何かをする倫理的な理由とは、人間であるが故に存在する理由のことです。(略)人間として、他の人間にしてはいけないことだからです。相手が誰であってもです。これが倫理です。
(略)
倫理とは、文化圏によって異なることのない、普遍的な価値のことです。
マルクス・ガブリエル「つながり過ぎた世界の先に」P33/PHP新書

 

 エンデのように答えをはっきりと示す人について清水はこう書いている。

読者は作者の示す道を、道草もくわず、ただ辿っていけばいい。(略)作者はこの時、ひとりの「教組」になっている。そして、こういう「教組」に私たちはぞっこんまいってしまうことがある。

(「本の虫ではないのだけれど」P240)

 バシバシと断言する人に人は追従してしまう傾向が私たちには多々ある。しかも短い言葉で大きな声で言われたりすると尚更だ。

 深く考えている人は早急に答えを出さないので、人は焦れる。しかしゆっくり考える人のほうが倫理的なヒントをくれる場合のほうが本当は多いのに、人は気づかない。

 また、例えば最近で言えばオードリー・タンなどのようなリーダーシップを発揮をする人を神格化してしまう向きもあるようだ。私もオードリー・タンは尊敬している。デジタルを使った独裁化を避けるための「デジタル民主主義」というワードは素晴らしいと思っている。が、確かに「教組」のように奉ってしまう人たちも一部にはいるようだ。

 私は占い師なので、やはり性急な答えを求められることもある。私の占いは人生相談セラピー型なので、ただ単に答えを言わない。いっしょに考える。けれどもそういう私をつまらない占い師だ、と思うお客さんもほんのたまにだがいるようだ。答えを教えてくれればいいんです、と言われたことが一度ある。若い女性だった。でも、再訪してくれた。まちがったのかもしれない。また同じようにいらついていた。正直こちらも腹立たしく感じた。よほど切羽つまっていたのかもしれない。あちこちの占いに行ってとどのつまりの私だったのかもしれない。事情を推測することはできるが、いずれにしても面倒かもしれないが答えだけではなく、占い内容には耳を傾けたほうがいいと思う。
 答えを単純に渡してそれが当たると、相談者にとって占い師が教組化することがある。それはとても危険だ。私もそれには常に注意を怠らないようにしている(つもり)です。
 エンデにもおそらく信者のようなファンがいるのだろう。答え云々ではなくても、信者化している熱狂的コアファンと神格化された小説家、音楽家、美容家、料理研究家、スポーツ選手……。信者と教組は、両方がいて成り立つ関係性だ。

 

 エンデとル・グウィン「モモとゲド」については、私の感想だけでは誤解を与えてしまうかもしれないので、ご興味のある方はぜひ御一読なさってください。

 

 ところで、前述した「ゲド戦記」を推薦してくれた大学時代の同級生だが、たぶんその後何回かやり取りしたのだと思うが、例の「お片づけ&処分」(こちらで書いている「60歳からのわがままタロットセラピー」のシリーズ。いわゆる断捨離についてのエッセイ)のとき、手紙類のなかにそれらしき物はなかった。当時はメールもラインもないので、やり取りしたとすれば手紙だと思うのだが、なかったということはいずれかの機会に捨てたのだろう。なんとなくの記憶として、それほど長い期間のつながりにはならなかったと思う。

 この同級生が今どこで何をしているのか知らないし名前も忘れてしまったが、私に「ゲド戦記」を教えてくれた人物としてこれからも記憶に残り続け、こうして事あるごとに喚起されるのだろう。

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