「MIU404」が終わった。
あ、そうだ。
麻生久美子って越前さんだった。私の大好きな役を演じていた人だったんだ、ということを思い出したのです。
「MIU404」TBS
脚本/野木亜希子
大変よくできたドラマだった。
ストーリ展開(場面展開)が早いのが何よりいい。
日本のドラマはグズグズとしているものが多く、説明がましかったり、余韻を楽しませようとしたりする(私は全く楽しくないが)。それ、必要ないよね、というシーンが多い、と私は常々感じている。
このテキパキ感は、日本のドラマとしては珍しい。
それぞれのエピソードに多くの情報が詰まっており、このドラマを作るための土台部分がとても大きいのだろうなと想像すると、脚本家の力量と苦労、そしてその才能にあっぱれと言わざるを得ない。
このドラマの感想でよく見かけるのが、犯人への思い、だ。
罪を犯すにいたった理由に焦点を当てて観た人、何気に観ていたが観終わってみると犯人の情緒やその背景が妙に心に残ったという人、がいるのではないか。
例えばアメリカテレビドラマ「クリミナル・マインド」にはその要素がいっぱいある。ときどき犯人が哀れで泣いてしまうものまである(私は)。もちろんその犯罪の悪とは別に。
もちろん日本の犯罪ドラマでも、やむにやまれぬ事情を抱えた犯人に同情できるような名作もある。単純に、それ殺されたほうが悪いだろう的なものもある。
前にも書いたが、「MIU」第2話は特に「クリミナル・マインド」に負けていない物語だった。犯人の父親へのトラウマと苦悩、そして「癒やし」までが描かれていた。
第6話は、終わったあとに「いい話だった」と思わず言ってしまった。これは、犯人の背景ではない。星野が演じる志摩刑事のかつての後輩で相棒だった刑事(村上虹郎)の不審死を追求したエピソードだ。自分の責任で死へ追いやってしまったと悔やんでいた志摩。決してそうではなく、後輩である相棒は最後の最後まで「刑事だった」ということが分かるという物語。
数話に登場している久住(菅田将暉)、最終話で逮捕されたとはいえその正体、本名も含めた身元は今シーズンでは明かされていない(シーズン2を期待)。この人物にも、ここまで凶悪になる人生の背景、生い立ち、言い分があるはずだ。
私の見立ては、世間、社会、人間への復讐。本人が気づいているかどうかは別として。
そこまでになってしまうほどそんなひどい目にあったのか、という視点もあるだろうが、一方で、ここまで冷酷凶暴になれるというのはサイコパスである可能性が大きい。
もしシーズン2があるのなら、そこをどう描いくれるのか楽しみだ。
話は変わるが、
「MIU404」放送開始当初に書いた記事のなかで、麻生久美子がミスキャスト、というか個人的にどうもしっくりこない、と書いた。
麻生演ずる隊長の桔梗ゆづる警視の発言は、ドラマに社会性を帯びさせる役割がある。これがなかなかピリリとして良かった。それだけに、もっとマッチした女優はいなかったのか、と批判的に思っていた。
しかし、麻生久美子は、
脚本/岡田惠和
のヒロイン、越前さんだった。
私は越前さんが大好きだった。共感し、感情移入して観ていた。物語も全体としてすばらしいドラマだった。人間の善悪や社会の有り様が、仕事場では地味な越前さんがストレス解消で描いているマンガから現実世界へ飛び出してきた「はらちゃん(長瀬智也)」の目を通して展開される。はらちゃんは、現実世界のことを何も知らないし、悪の存在も知らない。
そうだった、麻生久美子は越前さんだったのだ。
「MIU」は良質なドラマだけに、返す返すも麻生久美子が残念だなどと繰り返し叫んでいたところ、家族が「でも麻生久美子って越前さんだよ」と言ってきたのである。
そして私は、ハッと目覚めたのだった。
いやいや、役と俳優は別であって、そこで覚醒したりするのはおかしいのかもしれない。
いつから彼女を斜にみるようになったのかは定かではない。麻生の出演しているドラマはけっこう観ている。その経緯のなかで、どのドラマかは分からないし、積み重ねなのかもしれないが、なぜかネガティブに彼女を捉えるようになっていたようだ。
けれども、越前さんが私の記憶に蘇ってきたとたん、ドラマのなかの違和感がなくなった。
視聴者(私だけ?)というのはゲンキンなものである。
とはいえ、役柄というのは、役者にとって重要なポイントのひとつであることは確かなのではないだろうか。
「MIU」シーズン2を期待する。
スティーヴン・キングの「ミスター・メルセデス」も、シーズン1の最終話で逮捕されたサイコパス犯人は、シーズン2で病院から逃走している(このドラマは気持ちが悪すぎるので視聴はおすすめしない)。
久住もそのくらいのことはできるはず。
こちらもよかったら。
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