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ニューノーマルなるものはファシズムなのか〜ディストピアかユートピアか〜

作家の古谷経衡は、その論考で「新しい生活様式というファシズムには屈しない」と語っている。

「新しい生活様式」って「ファシズム」なんだ?

 

COVID19感染拡大のなか、「新しい生活様式」なるものがどこからともなく提唱されてきた。

アメリカ・ニューヨーク州のクオモ知事も、すでに当初より「ニューノーマル」というようなことを言っていたと記憶している。

 

長いこと日本社会の仕組みや日常的行動様式、通念というものに疑問を抱きつつ、とりあえずはうつ病にならずに(途中、心身症的にはなったが)、引きこもりにもならずここまで生きてきた(引きこもりにならず、と言い切っては嘘かもしれない。そもそも引きこもり体質なので、まずほどんどあちこち出かけない)私としては、大歓迎だった。ようやく変わるかぁ、と期待すらした。

 

例えば「満員電車」「人混み」「休ませない、休めない、休んだらいけない的労働環境」「各種ハラスメント」「時間の無駄遣い」などなど。

世界中が労働を少なくしたら、空気や河川がきれいになった。環境破壊も止められそうだ。

「欲望の資本主義」から脱却して、次なるステージへと向かう歴史的大転換期、なのかもしれない。

 

漫画家ヤマザキマリは次のように言っている。

「我々を試問するパンデミック

自分たち人類の性質や生態と、そこに形成した社会の有様を、どこまで奢りのない意識で客観的に理解できているのか、ウイルスによって問い質されているように思えてならない。

村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる』

岩波新書

COVID19は「私たち人類に、人生を、社会を見直すための気づき、機会を与えてくれている」という話を、ヤマザキマリは当初より一貫して語り続けている。

同様のことを主張する学者や作家は多い。

 

すでに朝夕の通勤ラッシュは元に戻っていると聞く。とても残念だ。

心療内科医の海原純子は次のように書いている。

文化がもつ心理的呪縛ともいえるとりきめがある。そのなかにいる人間にとっては何の不思議でもないそのことが、別の社会から見ると、違和感を感じてならない、というようなことだ。

心理学者のアーノルド・ミンデルは、これを社会のもつゴーストなどと名付けているが、新型コロナウイルス感染拡大の防止には、こうした文化のもつゴースト、つまり隠された心的呪縛からの解放が不可欠だと思っている。

では、日本社会のもつゴーストとは何か。私は「出社至上主義」とリモート拒否だと思っている。(略)心理的に「出社皆勤」至上主義から脱却できない企業トップが多いのだ。根底にある意識改革が、どこの国でも必要だろう。

(2020年8月2日毎日新聞「新・心のサプリ」)

文化的背景というのは、社会通念だったり、慣習だったり、すなわち「当たり前」だと思っている、思わされている、思い込んでいる事だ。

熱があっても、台風でも出社しなければならない。上司より先に帰宅してはならない。飲み会に出なければならない。書類のたった一行の確認のために新幹線に乗って移動しなければならない。捺印するためだけに出社しているという人は緊急事態宣言のなか大勢いたようだ。

これらは、しなくてもいいことだったり、すべきでないことだったり、もっと快適な別の方法があることだったりするのだが、それしかないと思い込んで、疑うこともなく、違和感を覚えることもなく、大威張りで命令するステレオタイプのトップがいるという日本社会の不幸がある。

このコラムは、海原がアメリカの大学で研究中、寒いのでマスクをする、日差しが強いので日傘を差す、という習慣のないアメリカでいささか困ったという思い出話から現在アメリカでノーマスクを訴える人びとがいることに触れたものだ。

根底にある意識改革は、世界中で必要だ。マスク着用については、日本では無理がないが、欧米ではその習慣がないので意識を変えなければならないようだ。

日本での意識改革は何かと言えば、それこそ「働き方」だ。

 

社会学者の斎藤幸平は次のように書いている。

私たちには、どれほど深く雇われ根性がしみ付いていることか。ノルマや効率ばかりを気にしている。長時間労働だが、マニュアルをこなすだけなので「楽」でもある。だが、それは思考停止した資本の「奴隷」の姿ではないか。

(略)

ハートの見ている労働の光景は、日本の私と大きく異なっていたのだ。雇われものの奴隷根性に慣れ親しんだ私には、彼の言葉が十分に理解できなかっただけだった。

(2020年8月2日毎日新聞

「斎藤幸平の分岐点ニッポン」)

あまりにも一部の切り出しで申し訳ないが、著者がこう書くに至った背景は上記コラムで全文をご確認ください。

海原純子が指摘していた「意識改革」とは、すなわち「雇われ根性」「奴隷根性」で思考停止している日本人の意識改革のことではないかと思う。

 

上記抜粋の少し前で斎藤はこう書いている。

ハートが資本主義に抗する労働者の力を「アントレプレナーシップ(企業家精神)」と銘打ったのだ。だが、それでは、ユニクロを展開するファーストリテイリング柳井正会長兼社長がいう「全員が経営者になれ」と同じ発想ではないか。私はそう反論した。その時のことを思い出したのだ。

文化的背景の違いを、著者は今まざまざと感じている。ハートとはマイケル・ハート、政治哲学(デューク大学教授)。斎藤はハートと1998年に対談しており、その内容は「未来への大分岐(集英社新書)」に収録されている。

 

慣れ親しんだ根性、思考や慣習や生活様式、働き方の意識変革は容易なことではないと私は思う。

しかしあらゆる機会、場面、手段(例えばテレビドラマの影響力は大きい)を使っていけば可能だ。が、人々のほうにその意欲がなく、楽なほうへ流れていくとか、これまでの利害を手放したくないなどで、もとに戻りたい力が強く働く可能性もこの国の場合は大きい。東日本大震災原発事故のあとがそうだった。

 

つまり私は、いわゆるニューノーマル、新しい生活様式なるものは、社会変革、生活変革という捉え方をしていたので、生きづらかった社会が生きやすくなるのではないか、という意味で受けとめ、期待もしていたのだった。

ところが、作家の古谷経衡の論考を読んで、戸惑ってしまった。「新しい生活様式というファシズムには屈しない」と言うのだから。

要するに、オンライン飲み会って何なんだ、スポーツ観戦で大声を出してはいけない、5人以上で集まるな、会食しても黙って食べろ、とはどういうことか、命令されたくない、ということだ。

ポル・ポト政権の逸話まで語る。

右へ習え、お上が言っているから、みんながそうしているから──。そんな理由では私は他者に絶対に追従したくない。私の人生は私自身が自決する。「ニューノーマル」を受け入れない、或いは受け入れがたい、という人生もまた私が決定するのである。

(2020年7月27日NEWSWEEK

これは、現在欧米で起きているマスク着用義務化への自由を守れ的反対デモと同じ叫びだ。

権威の言う通りにしていたら民主主義は崩壊する。

私も、その通りだと思う。

 

COVID19感染拡大当初から、このウイルスが地球の不具合をあからさまにしているのを敏感に感じ取った人びとが、この渦中に、あるいはこの後にやってくるのはユートピアディストピアか、と学者や作家は口を揃えたように話していた。古谷が指摘しているような恐れが十二分にあるからだ。

 

そもそも政治家というのは、こういった災害や災難、戦争、緊急事態を利用して独裁政治を始める、と言われている。

中国や台湾などで成功した感染者やマスク在庫と購入履歴などのアプリも、日本にはない仕組みで大変に便利だし、実際有益だ。しかし、一方で管理社会、監視社会のツールであることも事実だ。これが徐々に拡大して、いつの間にかディストピアになっていました、ということも決してSF映画の世界だけの物語ではない。事実は小説よりも奇なり、だ。

現に日本でも、ウイルスを驚異に思えば思うほど、国民は権力に欧米並みの監視強化や罰則付きのルールを求めはじめている。日本人の場合、自分を監視対象だと思っていない節がある。自分のために隣りの人間を監視してくれ、という要望だ。けれどもよくよく考えればその隣人だって、自分のことを監視してほしいと願っているだろう。あるいは、監視や管理を権威に求める人は、うっかりすると自分も権威の側にいる気分でいたりするから厄介だ。

 

一方で、「ニューノーマル」なるものによって私がほのかに期待している社会生活や仕事の変革が進めば、そこはユートピア(とまでは言わないが、ディストピアの対義語としてあえて使う)になる可能性を大いに秘めている。

ロックダウンや休業要請から、お金と消費について考えた人も多いだろう。そこから資本主義って何だ?と勉強を始めた人もいるのでは?

今回ステイホームのなかで、必要なものとそうでないものも見えてきた。渋谷や六本木に事務所を持つ必要があるか?社員の定期券は必要か?

コマーシャルで人の気持ちを煽って欲望を掻き立てて不必要なものを次から次へと買わせて、そして捨てさせて、また買わせる。

「使い捨て時代」などと言われていたのはいつだったか……昭和だったはずだ。

消費社会の仕組みは、あきらかに環境破壊を進めていた。私たちは、ずっと以前に気づいていたのに、ほとんど何もしなかった。利便性と金儲けに囚われて生きてきた。今がいいならいいじゃん。電気のない生活になんか戻れないし。

そして、COVID19が現れた。まるで警告のように。これは決してスピリチュアルでも何でもない。現実だ。

 

この際私は、ドイツのメルケル首相のスピーチが大変参考になると思っている。

2020年3月18日のドイツ国民へ向けてのテレビ演説のほんの一節だ。この演説では、エッセンシャルワーカーへのねぎらいの言葉もあり、そのころ日本では全く言われていなかった価値観ゆえに、その部分が感動をもって注目されたが、ファシズム云々を考えるとき、この箇所はまこと誠実である。

私は保証します。旅行および移動の自由が苦労して勝ち取った権利であるという私のようなものにとっては、このような制限は絶対的に必要な場合のみ正当化されるものです。そうしたことは民主主義において決して軽々しく、一時的であっても決められるべきではありません。しかし、それは今、命を救うために不可欠なのです。

ヒトラーナチス政権、ソ連支配の東ドイツを経験したメルケルだからこそのスピーチなのかもしれないが、「だからだよね」で片付けて終わらせてしまうには勿体ないほどの崇高な内容だと私は思っている。

今行われている、行われようとしている制限は、命を救うために不可欠なので、ぜひ理解してほしい。苦労して獲得した自由は奪われてもいけないし、奪ってもいけない。民主主義では、たとえ一時的であっても、あらゆる制限は軽々しく決められてはいけないものだ。

たとえ一時的でもしてはいけないことだが、「必要な場合のみ正当化される」と言っている。決して強権的ではない。覚悟を感じる。たとえ一時的でもしてはいけないことなのだが、今回はみんなの命を守るために一時的に制限させてください、と。誠実な言葉の端々に、いっときのことなんだという信頼感が漂う。

政治家や政治評論家たちは、日本では強制できないし罰則もない、そういう建付けになっているのだ、といかにも民主主義を守るかのごとくに言っているが、実は狡猾で、同調圧力や空気感を利用して従属させようという、人間として一番してはいけないことをしているように見える。

そしてもしいったん強権を奮ったら、おそらくずっとやり続ける。途中で止めたり変えたりできないのが日本だということはこのたび、政治に興味のない人々にもよく分かった。

民主主義において決して軽々しく、一時的であっても決められるべきではありません。しかし、それは今、命を救うために不可欠なのです。

日本人には、おそらくこれが出来ない。もしかしたら理解できない価値観なのかもしれない。

メルケルが発信しているこの哲学、意識は、成熟の証ではないだろうか。普遍的感覚だ。

 

ニューノーマル」は、マスク着用や消毒やディスタンシングといったことだけではなく、日本だったら満員電車をなくすことや、奴隷的働き方ではない仕事環境、ゆるやかな生き方という側面で私は賛同する。

 

ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは、COVID19を

世界的に持続可能な、道徳的に進歩した、美しく新しい生活様式

新しい種類の思いやり

への好機だと言う。

そして一方でこのように話す。

中国はデジタル監視を進めている。だがそれは人々を納得させることはできない。ジョージ・オーウェルのシナリオでは(監視下でも)市民は自分が「良い人生」を生きていると思っている。このように、もし人々の心を破壊したいのなら、「自分たちは楽しんでいる」と人々に信じ込ませることだ。それが米国の強さだ。ソーシャルメディアなど米製品を消費しながら、あなたは自由を楽しんでいると思っている。でも実際は、あなたはそれによって徐々に窒息し始めている。

 (2020年6月14日毎日新聞「シリーズ疫病と人間」

マルクス・ガブリエル インタビュー)

さらにガブリエルは、別のところで次のようなポイントについても語っている。

デジタル化された生活環境が必要かどうか真剣に考えるべき

道徳的な進歩の可能性

以前に戻るのではなく、より良い未来へ

社会はより倫理的なものになる

 

私にとっての「ニューノーマル」はガブリエルの示す未来社会へのイメージだった。

けれども、「ニューノーマル」「新しい生活様式」には2つの側面があるのだな、ということを古谷経衡の論考によってあらためて気づかされた。

デジタル監視、緊急事態宣言下での人権支配、という部分については注意してもし過ぎることはないと私自身ずっと思ってきた。いつなんどきどうすり替わって、ジョージ・オーウェルの小説「1984」の世界のようになってしまうかもしれないので。

古谷が指摘するところの、日常生活の過ごし方についてもその通りだろうと思う。

ただそこは、私はメルケル首相のスピーチに与する。

ただし、ガブリエルは次のように言っている。

戦時下にあることを根拠に例外的措置を正当化するのは、政治的なまやかしです。

民主主義に認める価値の「一時的な中断」なのだと理解し、受け止めます。

私たちは、民主主義が命すらも差し置いて自由を優先することに価値を認めています。

今は、自由よりも、命や生き延びることに価値が置かれています。今ほど私たちの自由が制限されたことはありません。これは一時的なことです。けれども、この状態がいつまで続くのか、誰も教えてはくれません。

私たちはシミュレーションを生きているのです。

 

都市伝説、陰謀論的に考えれば、世界を支配するためにこのような状況をつくった、ということだってあるかもしれません。分断と不信は日本では広がりつつあるようです。メトロン星人がモロボシダン(ウルトラセブン)に言った通りです。

 

だからこそ、人類はより倫理的、道徳的に進歩して、持続可能な世界を構築していく必要があるでしょう。

ガブリエルも言っていた「新しい種類の思いやり」が、日本には早急に必要かもしれません。感染者を村八分にしたり、責めたり、自己責任論をかざしたり、マスク警察なるもの、開けている店への嫌がらせ、隣組的世間監視などなど。

COVID19に限らず、あらゆる病を得た人には、大丈夫かな、はやく良くなってくださいね、という気持ちを持つのが人間であるはずなのに。

 

古谷経衡はこう書いている。

コロナ禍における日本社会の同調圧力は端的に言って異常であった。

(略)

翼賛体制とはこのようなことをいうのである。

(「コロナ感染者増で”自粛警察”がまた跋扈」

週刊新潮2020年7月30日号掲載)

さらにこう述べる。

知性とは、懐疑から始まる。為政者やメデイアやいわゆる「世間」の言うことをまず疑うのは、知性滋養の第一歩である。逆に疑うことをやめたとき、人々は知的堕落に陥る。

(略)

同調圧力に追従していればよい。自粛警察の批判が自分に向かわなければよい。そうして破滅に向かったのが大日本帝国である。

戦後75年を経て、この国の人々は何も反省せず、またひいては人類も先の大戦の悲劇から何も学んでいない。自由・人権を盛んに唱えてきた者は、このような同調圧力と私刑の時代にどう抵抗したのか。遠くない将来、その言説が点検されるだろう。

(同上)

 

最後に、平川克美のツィートを引用する。

コロナが炙り出した社会の脆弱性は、すべてコロナ以前にあった問題で、コロナはそれらの問題を顕在化、可視化したに過ぎないと思う。だから、コロナ以前に戻るのではなく、コロナ以前の問題を直視するべきじゃないのかと思う。

 

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