「やすらぎの刻~道」というドラマがある。
テレビ朝日の昼帯ドラマだ。2017年に放送された「やすらぎの郷」の続編で、2019年は4月から1年間の放送となった。引退した芸能関係者が晩年を過ごすホームでの物語。物語の面白さもさることながら、社会派であるところも見逃せない。脚本を手掛ける倉本聰の、最近のテレビドラマへの不満や提言も込められている。
第1週のなかで、女優二人の年齢と賞味期限について描かれているシーンがあった。主人公であり語り手である脚本家・菊村栄(石坂浩二)の脚本がボツになった10年前の出来事。ボツになった理由は、内容的な問題ではなく、主演の白川冴子(浅丘ルリ子)と水谷マヤ(加賀まりこ)の二人では視聴率が取れない、賞味期限が過ぎているから、ということだった。そのことでひどくこの二人の女優を傷つけることになったと悔やんでいる菊村の回想シーンである。
アメリカやヨーロッパでは、歌手も、記者も、キャスターも、俳優も、活躍しているのは若い人ばかりではない。もちろん日本だって年配の俳優や歌手などが全くテレビに出ないわけではない。ドラマで言えば、おじいさんやおばあさんの役だってある。けれども欧米のテレビでも映画でもニュース番組でも、中年以上の人の活躍はより目立つ。日本のテレビに映し出される画面の雰囲気に慣れていると、それらが「目立つ」という感想を否めない。
今私は、自分が幼いころに時折り耳にしていた周囲の大人たちの感想を思い出している。そして、ようやく2019年になって納得しているという愚かさを味わっているところだ。そのなかのひとつが、
「外国の飛行機に乗るとものすごいおばさんがスチュワーデスやってる」である。
昭和のこの当時のこの感覚は「女性蔑視」と「日本優越主義」の両方を含んだものだったのだろうと、いい大人になった現在の私は容易に推測できる。つまり、日本のスチュワーデスは若くてきれいなねえちゃんばかりでいいよな。外国は太って皺だらけの中年女が多いけど(それこそ賞味期限切れ的な)、なんでそんな人使ってるんだろう、という暗黙の賛同が空気として伝わっていた。今思えばまことに無礼極まりないのであるが、まあ当時の日本人の感覚はまだまだこんな程度、文化的に洗練されていなかったようだ。悲しいことに、いまだに女性蔑視発言が政治家やあちこちから頻繁に出ているので、文化程度は当時からほぼ停滞したままのようではある。
「日本の歌手は子どもばっかりだけど、アメリカではベテランの年取った歌手がテレビで歌ってるよ。顔とか体型とか関係ないよ」と、周囲の女性たちが言っていた。
これは、どうだろう、今も昔も変わっていないのではないか。70年代から80年代にかけてのかわいらしいだけが売り物の「歌下手アイドル歌手」全盛のころほどひどくはないようだが。
アナウンサーだってベテランよりも若手を好んで使っている。特に女性。ディレクターかプロデューサーか知らないが、好みの女性を集めたクラブかバーとでも勘違いしているのではないか、と思うほど気味の悪い朝の情報番組もある。逆にホストクラブになっても困るが。そういった番組がいけないとは言わないが、なにも普通の情報番組でやる必要はない。それ相応の枠ですればいい。日本の場合、美少女美男子からゴシップ、グルメまですべてをぶち込んで失敗している。いや、失敗ではなく「幼稚」になってしまっている。「幼稚」だけならまだよいのだが(よくはないが)、視聴者の思考力を奪い、レベルの低下を招いているという、ある種の洗脳媒体と化しているところの問題は大きい。
どうやら「日本男性の理想の女性がそういう女性」だというのが、男性にとっても女性にとっても「幼稚」を抜け出すことのできない「成熟疎外要因」となっているようだ。
「ヤマザキマリ男性論第5章」のタイトルは①の記事では提示しなかったが、実は 【女性論 成熟した「いい女」とは】である。
かわいらしい恰好の日本女性は、いっときイタリア男にモテる。が、
「ほんとはどんな女の子が好き?」と尋ねてみたならば、「共犯者になれるひとがいい」とか、そんな感じの答えが返ってくるはずなのです。
(ヤマザキマリ「男性論」文春文庫 P174)
「共犯者」とはイタリア語で「コンプリチェ」と言うそうで、例えばいたずらをしたときに叱るだけではなく「やっちゃったね」と一緒に乗ってきてくれる人、新しい局面に立ったときに一緒に手を取って飛び込んでくれる人、そんな女性のこと。
つまり真に「理想の女性」は、「お人形さん」では困るのです。
(同)
さらに次のようにヤマザキマリは述べている。少し長くなるが引用する。
成熟による美。いま日本で軽んじられて、ほとんどないことにされているのが、この美の価値観ではないでしょうか。若い子が、同じ年齢くらいの若いアイドル(ほとんどまだ子供にしか見えないような)を好きになるのは自然の摂理としてもよくわかる。でもいい年をした中年男性たちも、若くて子どもじみた女の子に熱をあげているシーンを、最近はよく目撃します。
アニメ界でもなぜか、あどけない幼女的な表情の―髪はツインテールでパンツの見えそうな学生服、おっぱいは異常に大きくて身体ははちきれそうだったりする―女の“かたち”というものがはびこっています。それと一筋縄ではいかない大人の女である峰不二子とは一線を画している。
(同 P176)
「こうした特異な性愛は人間の歴史とともにあるので」とヤマザキマリも否定はしてないが、
そのファンタジーの方向の単純性には思わず呆れてしまうことがある。なぜなら、その女の“かたち”が意味することとは、「無抵抗なかわいい少女が、こんな俺を受け入れてくれて、発育したママのような身体でなんでもさせてくれればなあ」というものだからではないでしょうか。
(同)
ヤマザキマリならではの男性目線論だ。
さらに続けて以下のように述べている。
もっと問題なのが、そうしたおもに男性側から作り上げられたいびつな美の価値観を内面化して、それにあわせようと躍起になる女性が多いということ。
イタリア男にしてみれば、「こんなかっこいい女性を彼女にできる俺どうよ」というベクトルが働くから、女性たちも成熟してゆける。でも、日本の男性にはなかなかそういう感覚がないでしょう?男性が大人になればオートマチックに女性も解放されると思うのですが、多くの日本の女性が「若さ」という指標にとりつかれているように見えるのは、個人の問題のようでいて、じつは構造上の問題です。
(同 P177)
たまに帰国して都会の日本女性の姿を見て驚くというヤマザキマリ。みんなそろって「ヒラヒラしたお洋服」を着ている、と。ヨーロッパでは滅多に見かけないそうだ。「嘘だと思うなら、昼下がりのラグジュアリーホテルのラウンジや、夜の洒落たバーのカウンターに行ってみてください」とまで言っている。
「若さ=美」の枷は、なかなかに厳しい。メディアや多数の男性側の価値観が、「若いもののほうが美しい」という一方向に偏っているいま、女性たちは厳しい要求にさらされている。でも、「若返り」など物理的に不可能です。代謝の低下は進むし、時計は未来に向かってしか進まないもの。
であればこそ、何様かつ凡庸なアドバイスかもしれませんが、「肉の袋よりも中身を磨きなさい」と女たちには言いたいのです。
(略)
妻候補や浮気相手というセクシュアリティを要に女性を見ている、そんな男性の評価だけが女性の美の価値観であってはいけないと思います。それを念頭におきさえすれば、もっと女性である以前の、人間としての人生が楽しくなるのではないでしょうか。
(同P181~182)
二十代に見える五十代だから、という表層的な理由で、本心から女性のことを好きになる男なんて本当にいるのでしょうか?
(同 P185)
女性の側も、男性に庇護されたいと思うからこそ、先述したようにヒラヒラの服で、過剰に女性性(最近は「女子力」というそうですが)をアピールしているのだと思います。
(略)
生活保障のために結婚相手を探すような感覚。その背景には、未だ女性にとって不条理な構造が日本にしぶとく根付いていることもあるとは思うのですが、…。
(略)
女性がそんな振る舞いをしてばかりでは、日本の稚拙な男女関係、あるいは社会性は、なんにも変わらないのかも。
(略)
高くて甘えた声を出し、ちょっとでも自分がかわいく見える表情を研究するような計算、要するに「媚」というものですが、これはなかなかイタリア女性にはできないことです。おそらくブラジル女にもスペイン女にもポルトガル女にもできない。アングロサクソン系には絶対無理。「日本的奥ゆかしさ」と遠くどこかで通底しているのかもしれないこの振る舞いを、わたしは全否定するものではありません。
(同 P186~187)
自立精神もりもりの女性もまたそれはそれで不自然かもしれないとヤマザキマリは付け加えているが、ここでヤマザキマリが熱弁してくれていることは、まさに日本の男女にとっての大いなる問題点であると私も強く賛同するところである。私はヤマザキマリのように世界中を転々とした経験もなければ、世界のあちこちに住居を持ってもいないが(まったく日本人しか知らないという人間でもないが)、同様の感覚を抱いていた。
私自身、「男らしさ/女らしさ」の弊害について、あるいは「女性蔑視」の構図について拙劣ながらいくつか書き記してきた。ここでこのヤマザキマリの著書が、私の感覚のエビデンスとなってくれた。
私自身、「女子力」という言葉を忌み嫌ってきた。男女平等を願いつつ、女性蔑視やセクハラに抵抗しているはずの女性たちが自らを貶めている言動、価値観であると、私は書いてきた。ヤマザキマリが言うところの「媚」である。
日本女性は声が高い、と海外の人は言う。それは充足感に欠けているからだそうだ。つまり「トーンの高い声」というのは、赤ちゃんや子どもと同じで、周囲の愛情や注意を自分に向けようとする本能だからだ。いわゆる「アニメ声」はその極端な表現で、そのアニメ声を真似る女性が現実の世界にもいるという不思議な国、日本というわけだ。ヤマザキによるとそれが男性の理想像だそうだから、そうなるのも致し方ないといったところか。
そういえば、アメリカではハスキーヴォイスの女性がモテる、という話を聞いたことがある。私が学生のころの話なので、今はどうか分からない。が、アメリカのドラマやニュース番組を観ていると、俳優もキャスターも男女ともに確かに声の低い人が多い。ちなみにヤマザキマリは普通でも声の低い人だが、イタリア語を話すときより一層声が低くなって怖いと言われると本に書いてあった。先日レオナルド・ダ・ヴィンチについてのドキュメンタリー番組でヤマザキがイタリア語を喋っているところを見る機会があったのだが、確かにものすごく低かった。可笑しいほど低い声でぼそぼそと学芸員に質問していた。でもそれで普通に対話が成り立っていた。日本だったら「え?なんですか?」と問い掛けられるか、独り言かと勘違いされるような雰囲気。言語的特徴の違いということもあるだろう。でもイタリア人って、大袈裟なジェスチャーで大声で喋り合う印象がある。場面場面で色々であり、一概にどのうこうのと決めつけることはできないとは思う。
学術研究的思索は別にしても、要するに日本の男性は、アニメ声で喋るかわいらしい顔で豊満ボディの女性(ヤマザキの言葉を借りれば、幼女)を求めていて、女性のほうはそいうい男性に好かれようとして若くてかわいらしいアニメ声の女性(幼女)になろうとしている。どうやらそれが日本の男女関係、のようだ。
けれども、鶏が先なのだろうか?卵が先なのだろうか?男性が求めるから女性がそうなるか。女性がそうするから男性が求めるのか。
そして、どちらが先に変質すれば「成熟」した人間関係、社会を実現することができるのだろうか。
男性が求める理想の女性像を「幼稚」から「成熟」へと変えていくことが、すなわち、日本社会の「大人化」、あらゆる分野、場面での「成熟」を促すことができるのではないか、とすら思うのである。男尊女卑も含めて。が、男性の意識変革を自動的に起こすことはとても難しそうなので同時に、男女平等社会を実現したいと思っている女性たちが、「女子力」磨きすなわち「媚を売る」ような努力に人生の時間を無駄に費やすよりも、精神的自立を心掛けることが大事であろう。だがそこには、メディアや政治的変革もまた同時に必要だろう。
さすれば、子どもを重要な場面で使うようなテレビ番組はなくなるだろう。アナウンサーも俳優も歌手も、大人びてきて、その実力はあがっていくだろう。さすれば、話す内容もドラマの内容も、洗練されて深みを増していくことだろう。
一方で、クイズ番組での高学歴芸人・タレントなどがともてはやされている。東大もしかり。これはなぜ許されているかというと、「思想」「自分の考え」を発信していないからだ。答えのある試験問題が解けるか解けないか、だからだ。だから作る方も観るほうも、ある意味安心して受けとめることができるのだろう。
先日、日本の女子サッカー選手(2011年にワールドカップで優勝した選手)がアメリカ人女性スポーツキャスターのインタビューを受けているのをCNNで見た。とても良い受け答えをしていた。日本の報道番組ではたぶん見られない光景だ。
又吉直樹と堺屋太一の対談をNHKのラジオで聞いたが、又吉の発言は、静かにゆっくり考えながらのとても上質なものだった。これがいわゆる芸人たちの間だったり、民放のインタビューだったりしたら、真面目ぶってんじゃないよ偉そうに、などと否定されたうえにバカにされて排除され、発言自体が途中で切られて終わるだろう。それがユーモアだと思っているのかなんなのか……。そもそも上質の答えが返ってくるような問い掛けはできないだろうが。憂うべきは、そういったシーンばかり見ている人はそういう人間になってしまう、つまり、真摯や高尚を揶揄する人間を育てることになってしまう、ということだ。
ウーマンラッシュアワーの村本大輔が、こんなツィートをしていた。
女は強い男のためにアホのふりをし、芸能人は強いメディアのために、アホのふりをする。ペットのように可愛くあれ、日本人。本当は賢いのに、強いのに。
男女関係は社会関係と通底する。ヤマザキマリと同質のことを言っているじゃないか。さらに翻訳すると「女は有毒な男らしさのために自分を卑しめ、芸人は強いメディアに巻かれていく」「本当は、女子サッカー選手や又吉のように、賢いのに、強いのに」。
昔よく聞いた噂があった。西洋の男性は日本女性が好きらしい、と。たぶんそれはおとなしくて言うことをよく聞いてくれるから、だったのだろう。「奥ゆかしい」は今となっては褒め言葉ではないのかもしれない。
「有毒な男らしさ」の証明のために女性が存在しているわけではないはずだ。女性もまた「有毒な男らしさ」を支えてあげる必要は全くない。
対等に尊重し合える関係が、男女問わず、人間としてあるべき姿なのだと思う。それを「平和」というのではないだろうか。
「やすらぎの郷」「やすらぎの刻~道」には、70代80代の俳優たちが出演している。元夫婦である石坂浩二と浅丘ルリ子の共演もなかなか粋な計らいだ。役者として尊重し合っていなければ、どちらかが出演を断っていたのではないか、と私は推測する。
浅丘ルリ子には恋の噂もいくつかあったが、彼女は精神的にとても自立した女性なのかもしれない。勝手な推測だが。
2003年に「すいか(主演/小林聡美)」(日本テレビ)というドラマが放送された。私の大好きなドラマのひとつである。このなかで、浅丘ルリ子は「教授」の役だった。「ハピネス三茶」で暮らす女性たち(小林聡美・ともさかりえ・市川実日子・浅丘ルリ子)と3億円を横領して逃走している女性(小泉今日子)の物語。浅丘ルリ子演ずる「教授」が、まさに、女性は涙を使って媚びてはいけないということを学生たちにも伝えている人物だった。しかし、心底悲しんで涙を流している人間にはハンカチを貸す。芯の通った知的な女性だった。