ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

2019年冬ドラマが終わった~面白いドラマの判断基準は食欲~

本当に本当に、日本のドラマを観なくなった。観ることができなくなった、と言った方が正しい。付け加えると、日本のテレビ番組を観るが大変苦痛である。

ということは、すでにこちらのサイトへも書いている。これからさらに繰り返し書くことになるのか、書くのも面倒になるのか、私の興味、意識から消え去るのか、それとも高評価が復活するのか……。

 

2019年冬ドラマがスタートした時点で書いた通り、よくできた面白いドラマがまずなかった。私がドラマフリークとなってからこんなことは初めてである。いや、すでに昨年半ばからその兆候はあった。

私の感覚が洗練されて成長したのか、日本のドラマが劣化したのか、あるいは私が劣化しているのか?ドラマや報道も含めたテレビ番組への文化人たちの様々な意見を参考にすると、どうやら日本のテレビ(ドラマ)が劣化している、というところに落ち着きそうだ。少し前に茂木健一郎が声をあげてから(そして現在もあげ続けている)、昨年、今年と、この手の発言は異口同音に確実に増えている。

 

2019年2月21日毎日新聞「ザッピング」

<「取捨選択 ドラマとの出合い」倉田陶子>にこうある。

放送担当になった昨年4月、地上波の全ての連続ドラマを最終話まで見るという目標を立てた。(略)さすがに全てを見続けることはできなくなったが、時間の許す限り、各局のドラマを見逃さないよう心掛けてきた。

私も同じで、これまでこの筆者と同じことを心掛けてきた。ドラマ評論家と言われる人たちのなかでも全ドラマをチェックしている人は多くはないと思われるし、最終話まで完璧に観るとなるとなかなか厳しいものがあるだろう。が、そういう評論家もいるにはいるようだ。早回しで見ているのだろうか……?いくら仕事でも人生の時間に限界はあると思うのだが。

時間的な問題もあるがそれよりも、そのドラマが「見続ける価値のあるものなのかどうなのか」つまり、面白いか面白くないかという問題のほうが大きいのではないか、と私は思っている。観たい欲求には逆らえないので、どれほど量が増えても質の高いドラマなら観続けることができる、観続けずにはいられないだろう。質の低いドラマも観なければどこが悪いのかを論じることはできないというジレンマも一方ではある。

(同上)

1月に始まった連ドラは全体的に警察や弁護士ものが多く、「似たり寄ったり」の印象。1話だけで見るのをやめた作品も多い。

これもまったく同感である。せめて2話までと毎シーズン心掛けてきたが、今シーズンは1話で見切りをつけたものがほとんどだった。ストーリー的に最後どうなるのか、というのは気になるところではあり、最終話だけでも観るかという邪道も考えたが、結局それもせずに終わってしまった(2~3作品はそうした)。恋愛ものはとくにばかばかしすぎて初回も観ていない。時間の無駄である(世代的にも)。

警察もの、弁護士もの、医療ものでも、魅力的に描いてくれればどれほど重なっても問題はない。食傷気味になるのは、面白くないからだ。

そして日本の場合「古い」(これも今年、何度も書くことになる言葉になってしまうのだろうか)。ストーリー展開も、背景も、演出も、役者の演技も、古い。古いだけではなく、それらすべての「何かが変で奇妙」だった。え?そんな展開?そんな演技?

出演者たちの魅力を減じてまでいる。役者も仕事を選んだほうがいい、などと言っていると日本では出演したい作品がなくなってしまうかもしれない。

(同上)

作品を見る目が養われ、取捨選択する力が自分についたと思うことにして、面白いドラマとの出合いを楽しみに待ちたい。

筆者は ソフトランディングなまとめでコラムを閉じているが、ハードに言えば「面白いドラマがほとんどないよ」ということだ。けれどもそれは「作品を見る目が養われ、取捨選択する力が自分についた」がゆえであるとしている。要するに、成長しているということに他ならない。良かった。私もです。

 

2019年2月21日の「ラジオ深夜便」で脚本家・井上由美子が以下のような内容を語っていた(文言は正確ではありません)。

脚本家として今求められているドラマは、サスペンスを描きながらその奥に人間ドラマや社会性、ユーモアのなかに哀しみがある、そのようなドラマではない。単純な分りやすいものが求められている。これってサスペンス?何?ではないもの、映画のように全体を通して最後にそうか…と分かるものではない。

そういう単純なものを視聴者が求めていると作り手側が考えているのかもしれない。もしかしたらそうではないのかもしれないのに。

同様のことを言っている脚本家は意外と多い。いや、多いかどうかは分からないが、確実にいる。大石静も似たようなことを言っていた。 

どうやら番組制作サイドは、視聴者のことを見下している感が否めない。ドラマに限らず、報道番組も娯楽番組もしかりだ。さらに言えば、いわゆるアイドルなるものを主役にして観客を呼ぼうとする映画の一部もそうかもしれない。

「視聴者はバカだから難しいこと表現してもわかんねぇんだよ」と言っている(のをどこかで聞いたことがある)ディレクターら。ひょっとして自分たちのほうがバカなんじゃないのか、ということは疑ったこともないようだ。

そう言えば「国民はバカだから」と言っている政治家がいた。自民党。これは、堀江貴史が選挙のときにぽろっと暴露していた。

 

このようなツィートがあった。

エリック・C

日本のテレビを見ていると知らない間に誰かのファンになったり、ある選手は世界的に優れた人だと思い込んだり、何かを欲しくなったり、どういう考えが新しいとか良いとかが勝手に脳みその一部に入り込んでいる。気がつくと、そうとしか思えない事がある。これが日本のテレビでは凄い。

押し付けがましいことと、なぜかターゲットを決めてのめり込ませていく。スポーツの試合でも、1位の人ではなく、イケメンとか美少女とかを追いかけて紹介する。1位は誰なんだよ!と思うことしばしば。

芸能ニュースで取り上げるものは、おそらく事務所がらみなんだろう。そしていかにも人気があるように放送する。もちろんさまざま仕掛けをするのは日本だけではないが。

その流れのなかにドラマもあるのだろう。

 

コンプライアンスとかなんとかで表現に制限がかかっていて昔のような面白いことができなくなった、とはよく聞く制作者たちの不平不満だ。そんなこと気にしないでどんどんやろう、やってほしい的な声も特にお笑いの世界であがる昨今。そして「自由な表現」をすることを「下品に振る舞うこと」と勘違いしているきらいもなきにしもあらずだ。ゆえに、テレビ番組が劣化していくのかもしれない。彼らがやりたいことは、コンビニのおでんをツンツンしたり、商品に異物を入れたり、アルバイトがあまりにも愚劣な行為をしたりしてその動画を世界に流す、といった類いのパフォーマンスと質的に変わりがないのかもしれない。

日本の場合、制限がかかっているのは「社会性」のところだろう。しかも何に忖度しているのか、実際にプレッシャーがかかっているのか、自主的に規制している。

 

このようなツィートがあった。

小田嶋隆

日本発のインターネットテレビ局には、杜撰さと大胆さを混同している気配を感じる。まあ、低予算でトガったことをやろうとすれば、どうしたって仕事が雑になるというだけの話なのかもしれない。ともあれ、このうえ番組企画の部分でabemaが間抜けになったらいよいよ以下略……

ネットテレビには下品なものがけっこうある。テレビで放送できないことができるという感覚なのかもしれないが、歴史的に逆行しているように思う。だが、お下劣なほうが視聴率を稼げるのだろう。視聴者はバカだから、を証明していることになってしまうのだろか。

日本のテレビも政治もこのままでは、どんどんレベルが下降していくのは確実な様相となってきた。

 

知性的なもの、文化的なもの、考えさせられるものは重たいからいやだ。そういう視聴者もいる。そのかわり、奇をてらったもの、対立しているもの、正解がはっきりしているものを好む。制作者側は、演技も音楽も視聴者の感覚を麻痺させて感情を先導して煽るかのようにガチャガチャと煩くする。鶏が先か卵が先か。

 

2019年冬ドラマ。

結局最後まで観たのは「ハケン占い師アタル」と「トクサツガガガ」のみ。

他のものは、こちらでそれなりに面白いと書いたものでさえ、全く観る気持ちが失せてしまい、そのドラマが放送されていることすら記憶から消え去っていたものもある。

 

私の「面白ドラマ」の基準は、そのドラマを観ながら何かを食べることができるかどうか、である。お菓子でも食事でも、視聴しながら美味しく食べることができるドラマは面白い。また、視聴していて面白く感じてくると、何かつまみたくなる。ピーナッツは欠かせない。

 

ハケン占い師アタル」についての論評はまた別に書きます。