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映画「ミスト」~ラストシーンの衝撃~

今さらだが、スティーヴン・キングにはまっている。

ミザリー」について触れた記事でも書いたが、「IT」を観てから。これって「スタンド・バイ・ミー」のホラー版だな、と思っていたら、「スタンド・バイ・ミー」がスティーブン・キング原作だと知った驚きと、私けっこう目利きじゃんという自画自賛によって、ファンになってしまった次第。さらに「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」もそうだと分かり、感動。これらは私の記憶に残る映画リストに入っている。「グリーンマイル」は涙なしには観られない。それ以来スティーヴン・キングに興味を持っている。現在WOWOWで放送中の「キャッスル・ロック」。ショーシャンク刑務所から物語がはじまるダークミステリー。吹き替え版放送に先立って字幕版ではすでに10話一挙放送したので、結末は知っているのだが……。

 

スティーブン・キングの物語に登場する街はメイン州にある架空の街キャッスルロック。「黙秘(ドロレス・クレイボーン)」では、メイン州のとある小島が舞台だが、ここでもセリフのなかに「ショーシャンク刑務所」が出てくる。

余談になるが、なぜ「黙秘」なんてタイトルにしたのか。娘のセリフに、自分が戻って来るまで黙秘してよ、というのがあったが。原作小説では、主人公ドロレスの一人称供述の迫力で物語が進むらしい(私は未読)。そもそも外国映画の日本語タイトルに違和感を覚えることはしばしばある。つけなくてもいい副題までついているものも多い。なぜシンプルにできないのか。「黙秘」は原題通り「ドロレス・クレイボーン」で十分だ、と私はこの映画を観たとき思った。更なる余談だが、この映画はたまたま早朝WOWOWにチャンネルを合わせたところ、「ミザリー」でアカデミー&ゴールデングローブ主演女優賞を獲得したキャシー・ベイツらしき人が見えたので「あ、この人…」と思って観たのだった。「ミザリー」からするとかなり老けているが、すぐ分かった(ここでも自画自賛の審美眼)。そして尚且つスティーヴン・キングだった。20分遅れくらいから観たので冒頭シーンがいまだ観れていない。また放送してくれることを望む。

 

さて「ミスト」なのである。

映画(2008)を観る前に、Netflixオリジナルドラマ版(2017)のほうを観た。楽しみに観たのだが、面白くなかった。けれども面白がってみようと努力して最後まで観た。そして、なんとシーズン2はない、ということが分かった。え?あのあとどうなるの?である。

きっと映画のほうでは物語が終わっているだろう。そう思って観た。

けれども一抹の不安もあった。なぜならスティーブン・キングの物語は結末がはっきりしない、という印象が強く私の心にあったからだ。「IT」「ダークタワー」「キャッスルロック」によって。「IT」は2019年に後編が公開されるそうだが。キャッスルロックという街の秘密がリンクしているキング作品、ということを考えあわせるとなおさら不安がよぎった。この作家は物語を終わらせたくないのか、オチが書けないのか。

ところが、である。

映画「ミスト」は、衝撃の結末だった。あいまいどころか「そんなぁ…」という驚愕と主人公への悲哀、同情。

濃霧と怪物に怯えてスーパーマーケットに閉じ込められた人々の人間模様や、カルト的人物に恐怖心をあおられて次第にカルト化していく人々など、社会性も描かれている様子のなか、そこがポイントなのかな、などと思いつつ観ていく。そしてNetflixオリジナルドラマ版とは全く違うストーリー設定であることも分かった。おそらく映画は原作に近いのだろう。

 

以下はネタバレになるので、これから映画を観て衝撃を受けようという人は読まないでください。

最後、カルト化した人々に生贄にされそうになって店を出て、ガソリンの続く限り進もうと車に乗り込んだ5人。そしてガソリンが切れてもまだ濃霧のなか。死ぬ決意をする5人。銃には弾が4つ。主人公の男は自分はどうにかするから、と言って4人を撃つ。何か大きなものが近づいて来る気配。それが近づいて来るに従ってうっすら霧が晴れてくる。何だろうと眺めていると、軍用車で住民たちが運ばれていく。軍人たちは辺りを焼き払いながら進む。そしてすっかり霧は晴れる。生き残った主人公の男は、助けらた人々を見送る。 FIN。

これはね、驚かない方がおかしい。大抵の映画は、主人公たち(善人)は助かる。社会正義から言うとカルト化して差別する人たちのほうが死ぬ運命。誰かを助けるための自己犠牲として善良なる人が死んでいくことはあっても、最後の最後に、思い切って脱出した人々が、それも子どもも含めて死ぬなんて。それを実行してしまった主人公が、このあとおそらく想像を絶する後悔に苛(さいな)まれるであろうことを思うと、なんともやるせない。

これは、なんだ?と私の心は激しく動いた。もしかしたらこの人たちは何か悪いことをしたのか?それとも、人の死にはたいした意味がない、ということなのか?

いや、私はこう思った。「諦めるな」ということかな。最後の最後まで諦めるな。霧がかかって見えないかもしれないけど、あと少しのところまで望みや解決、成功はやってきているかもしれないよ。成功哲学でもよく言われている、100回試してだめも101回目に成功するかもしれない。けれども人間というのは、あと一歩のところで投げ出してしまう。100回目で諦めてしまう。成功者というのは諦めなかった人。この映画はこれを言いたかったのかな。

ショーシャンクの空に」もそうだった。諦めてはいけない、希望を持て。

 

スティーヴン・キングの物語に散見するテーマは、人の心に宿る恐怖と悪、そして善。パラレルワールド、イジメ、DV、そして諦めない心。まだまだ観ていないものが多いのだが、今のところそのように感じている。

 

さらにさらに、ところが、

原作は全く違うそうだ。小説を読んだ人からの情報によると、最後ははっきりとは解決しないまま終わる。霧のなかの車内ラジオから「ホープ(希望)」という街の名前がうっすら聞こえてくる、というところで終わるらしい。希望ということなので、諦めない、という精神には変わりなさそうだ。最初に出版されたものは街の名前をはっきり書いておらず、読者からクレームが来たので「ホープ」とした、という情報もある。

キングはフランク・ダラボン監督のこの映画のこのラストシーンを絶賛した、と言われている。思いついていたら自分もこう書きたかった、と。ダラボン監督は「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」を手掛けている。キング作品のなかのホラーよりもヒューマンドラマのほうだ。

 

2012年1月8日の町山智浩のツィートにこうある。‏

「ザ・ミスト」のエンディングについて勘違いしてる人がいるのでダラボン監督から直接聞いたことを書きます。「ラストショットは人類が怪物たちに勝ちつつある状況を見せている。だから諦めずに頑張るべきだった」以上です。

やっぱりこれだったのですね。と、再び私の鑑賞眼に自画自賛

ショーシャンクの空に」と通ずる。

あるいは、逃げ出すよりもスーパーマーケットに残って救出を待つという忍耐も「諦めずに頑張るべきだった」に入るのかもしれない。が、カルト教祖と信者たちによって助けが来る前に殺されただろうから、いずれにしても主人公グループは主人公を残して死ぬことになるのか……。

 

物語は、なんでもかんでもいつも明解に終わるわけではないはずだ。そもそも人間も社会も世界も現実世界では複雑で、きっぱり解決することなんてない。たぶん妥協して納得したふりをしていることのほうが多い。ゆえにストレスは溜まっていく。

映画やドラマ、小説では、解決できていないと文句が来る。評価も低くなる。視聴者、読者はすっきりしたいからだ。

「キャッスルロック」シーズン1は、すっきりして終わっていない。9話を観たとき、この話、解決しそうもないな、と思っていたら、その通りだった。シーズン2があるということで、続きが観られるのかと喜んだら、「アンソロジードラマ」というものだそうで、シーズン2と言っても別のドラマが展開されるらしい。

ヘンリー・ディーバは何者なんだ!

「キャッスルロック」はスティーヴン・キングの集大成ということなので、さまざまなリンクが意味深長に見えるが、本当はそれほど深い意味や繋がりはないのか?

パラレルワールドタイムパラドックスは、ぐるぐる巻きのドツボにはまる世界観ゆえ、キャッスルロックという街の謎(街をつくったフランス移民の所業という示唆はあるが)は、これですっきり解決しましたとなる日は来ないのだろう、と思いながらも、キング氏も老齢なので、そろそろ何らかの決着を書いてほしいと思ったりもする。2019年9月で71歳。それともまだまだ先は長い?とはいえ、人はいつ死ぬか分からないのだし。

いずれにせよ、打ち切りにならないこと、シーズン2が面白いことを願う。 

 

などとつらつら空想をぼやきつつ、「ミスト」評は終わりたいと思う。 

キングの小説は短編と言われるものでも一般的には長編の類いだそうなので、「死に支度」をはじめた私としてはすでに、キングの本に割く十分な時間もなく、原作小説を読む気持ちも気力もない。だが、原作と映画の違いは知りたいとも思う。ネットの情報を頼ることと、終わり方があやふやなものは図書館で結末だけ読む、という手もあるという邪道を選びそうだ。

私の「死に支度」の一環として、読書と映画が今のところメインなので、キングは映画部門で堪能することにする。

 

「死に支度」については、ブログカテゴリー「死神幸福論」の記事をご参照ください。