ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「新しい古い地図」~虚と実~快と不快~一期一会~熱狂という悪魔~検討精神を持つこと~

うっかり「ファンクラブ」なんてものには入るものではない。

いったん冷めてしまうとなんとも言えない虚しさが襲ってくるからだ。精神衛生上よくない。自ら冷めていったのなら、経年劣化で自然と飽きた結果の消滅なら、それは成長と言えるのかもしれない(ときに移り気)が、外部的ストレスの場合は、なかなか“しんどい”と言わざるを得ない。

 

このところ思想書を読みながら「虚と実」ということをちょうど考えていた。それゆえの体験だったのかもしれない、とも思う。神様はときに厳しいシンクロにシティを無謀にも与えてくれる。

世界を見渡せば「虚」ばかりの昨今。それにもようやく気付いてきた人類。インターネットの中やトランプ大統領、ひいては自国の首相とその取り巻きも含めて。「実」とは何なのかと思いを致すとき、「我思うゆえに我あり」ということしかないのだとしたら、人間は何のために生きているのだろうかとせっかくの名言の影も薄れゆく。

 

「嵐」というアイドルグループが2020年末から活動休止期間に入るとのことで、日本のニュース・情報番組は大騒ぎだ。しまいには「復活はあります」とメンバーのひとりにニュース番組で宣言させてしまう。何でもそうだが、「○○はあります」と断言できることはこの世には存在しない。スタップ細胞はあるのかないのか私には分からないが、あのセリフを思い出す。

「スタップ細胞」も「嵐の復活」も、「~かもしれない」だ。

 

だが「~かもしれない」では非常に困る事もある。

仕事(商売)での対応、対処だ。「商品は届くかもしれないし届かないかもしれない、明確にはお答えできません」と言われたらどう感じますか?お金は払っているのに。

新しい地図」というところの「会報」のことだ。届くはずのものが届かないので問い合わせをしたところ、らちが明かず、とてもがっくりしてくたびれた。時間と精神をムダにした。 

私が知りたいのはたったひとつだった。それについての対処方法と期限。曖昧な表現ばかり繰り返す事務員。確実なことは言えないの一点張り。じゃあ、延々と待って諦めるのか?とすら思った。さまざま尋ねた末、上の人に問い合わせてもらってようやくとりあえず解決(?)…した。

この場合はこう、この場合はこう、と端的に対処方法を伝えてくれればいいだけなのに、それぞれについての対処方法を考えていなかったのか、それともあえてそうしているのか分からないが、なんとも不愉快な出来事だった。まるで国会答弁のようで。

窓口の人には何の権限もないだろうから、決定権のある人物の能力不足、教育不足、ということになろう。

郵便物が届かない場合の対処として、戻り郵便を確認して再送、というのは分かる。だが、それ以外の可能性も外して考えることはできない。郵便配達人が捨ててしまったというニュースは珍しくない。誤配達によって行方不明になった郵便物というのも全国で毎日発生していることだろう。私も何度か経験している。まれに(だと思う)悪意のある盗難もある。

事務所側が警戒する素人には計り知れないさまざまな事由はあるのだろうな、ということも推測し、理解できる。それでも客商売ということを考えれば、良質の対応があってしかるべきだと私は思う。「不快」は「ストレス」であり、幸福からはほど遠い「不幸」の感情である。

 

新しい地図と名乗りながら、結局古い地図だったのか。

たまたまそういう応対だったのだとしても、「just a penny humble penny」ではないか、と私は思う。CNNのCMでそう大声で叫ぶ面白いCMがある。「経済エクスプレス」のリチャード・クエスト。コメディアンかと思うほど愉快な表現力のおじさんアンカー。お金を落としたご婦人に落としましたよと拾って声を掛けると、ご婦人は「just a penny」とうっちゃって立ち去る。驚いたクエストは……、というCMだ。全てはペニーから始まる、ペニーは大きなパワーを持っている、と語るクエスト。私はアメリカ人でもアメリカ文化の専門家でもないので、間違った印象かもしれないが、このCMを観て「1円を笑うものは1円に泣く」を思い浮かべた。「ひとりのお客さんをないがしろにする店(会社)はつぶれる」かもしれない。酷い対応をされた店に再び行く勇気は、私にはない。マクドナルドでもコンビニでも。それがたまたまだったとしても「一期一会」なのである。誰でもどこでもたった一人のお客さんから始まる。仕事が大きくなってくると「初心」を忘れてしまうのは人間の常。提供してやってるんだ、という気持ちに堕す。

「一期一会」(ウィキベディアより)

茶道に由来する日本のことわざ・四字熟語。茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する。

 「一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する」は、私も心得て生きていきたいとあらためて思う次第だ。

一方で平成の30年間に、飲食店や鉄道などでの客の態度の横柄さもようやく問題視されてきた。これはこれで私も一家言ある。

 

はたして私は、おそらく新しいとされる地図のなかで「うるさいクレーマーおばさんがさぁ~」と悪態をつかれていることだろう。通話は録音されているだろうから、それを聴きながら。

けれども実はそれが最近の困り事なのである。経験者もおられるだろうが、分からないことを質問したいだけなのに、なぜか武装して身構えているのかそっけない、ときに攻撃的な態度の店員、社員というのがいる。学校の先生も何を言われるのかと怯えている。また、たぶん21世紀の今、店員たちは客全員を泥棒だと疑っているはずだ。それほどいわゆる万引きが横行している。

社会が悪化劣化していくときというのはこうなんだろうな、と諦めるしかないのか。誰も信頼していない。「ウルトラセブン」でメトロン星人が50年前に言った通りだ。50年の間にさらに人間同士の不信は拡大している。あれは予言だったのだろう。

けれども、たまに本当に本当に親切な店員さんや通行人もいる。年齢や性別に関係なく。オアシスのようだ。私自身、親切をして「ありがとう」もなければ逆に迷惑な素振りをする人いるので、もう親切にするのはやめようと思うこともある。が、オアシスのような人に会うと、そんな自分を恥じる。地球人、まだ終わってないか、と。

 

「嵐」マネーの試算が新聞に踊っている。ファンクラブの会費だけで年間○○億円、だそうだ。 物品販売も相当だろう。

余談だが、占いでもお笑いでも声優でも、学校や教室、物品で儲けるというのは定番だ。占いで言えば、石やアロマなどいわゆるスピリチュアル物品を高額販売しているところは注意したほうがいい。思わず知らず夢中になると買ってしまう。世に言うところの霊感商法だ。これさえ持っていれば運が開ける代物なぞまずこの世には存在しない、と思っておいたほうが無難だ(それについてはまた別箇書きます)。物品こそが金儲けの手段になっている。

その年間何億も何十億も入ってくる会費。こちらは会費を払っているのである。会員のなかにはいたくもかゆくもないたった数千円という人もいれば、大変な思いをして働いた数千円、何かを我慢した数千円という人もいる。そして大儲けしている事務所からすれば、たったひとりの数千円など歯牙にもかけないという心持ち、それは私も否定しない。

窓口対応業務は、謝罪してはいけないと指示されているのかもしれないが、それは違うと思う。一部の悪質な人々への対応を優先させて、本当に楽しみに待っているファンに冷たい対応をするのは、間違っていると私は思う。たとえ郵便配達人の責任だったとしても、まずは「ごめんなさい、不快な思いをさせてしまいましたね」くらいの謙虚な謝罪があってしかるべきだ。もしどうしても必要ならそれからの「こちらの不手際ではないと思いますが云々」である。だがもっと言えば、そちらの不手際でないとは言いきれない。自分たちのほうには万が一の過失はない、自分たちは絶対正しい、間違うことはないと思っているかのようだった。工場だって、遺物混入した食品、不具合な製品が出荷されてしまうことがあるように、どれほど注意していても完ぺきはあり得ない。

「本日手続きをさせていただきますので、今しばらくお待ちいただければと思います。届かない場合は最寄りの郵便局へお問い合わせください」

このメールもおかしい。本日お手続きをさせていただき「ました」ので、と過去形で知らせるのが常識だと思う。「します」ということは「まだしていない」ということだ。本日とは書いてあるが、心理的にはするのかしないのか分からない、という不安を客に与える(電話の対応もこの調子)。アマゾンから「本日中に発送します」なんて、報告ではなく宣言みたいなメールは来ない。そんなメールが来たら、コントかな?と笑うだろう。そしてトドメは、届かなかったら今度はこっちじゃなくて郵便局に文句言えよ、である。ちょっとずつちょっとずつ感覚がずれている。そして最後に、こっちのせいじゃないからな、とトドメをさしてくる。電話口でもそうだった。たぶんそういう手法なんだろう。そう教育されているんだろう、と想像するしかない。上やスポンサーにはペコペコ、下には暴言暴力で責任を押し付けるテレビ業界人のあるあるだ。私も経験上知っている。

おかしな客(ファン)がいて、警戒心からこうなってしまったのか、最初から傲慢なのか、前事務所のやり方を踏襲しているだけなのか。ある意味、狭い世界だ。

そして、最後の最後まで「謝罪」の文言が全くなかった。逆に徹底していすごい。がっかりが半端ない。

それが芸能界のやり方だよ、というのなら、古い地図だ。

魂が抜けていく。

ジャパネットたかた」とまでは言わないが、そのくらいのpolite礼儀や思いやりや丁寧さがあっても誰も困らないどころか、「快」もファンも増す、と私は考える。

 「快」を与えるのがあなたたちの仕事なのではないのか。

 

以前に「新しい地図」について書いたとき、

「新たなルネサンス時代をどう生きるか」

イアン・ゴールディン&クリス・クタナー/国書刊行会

を取り上げた。

新たな世界

新しい地図と新しいメディアが、どのように現代世界をつくり替えたか

新しい地図

(P33)

という章と節がある。シンクロしていた。

社会というのはさまざまな分野から変化していく。大袈裟かもしれないが、私はそうしたわくわくも少々抱いていた。古い日本社会の縮図のようなSMAP騒動からの「新しい」だったゆえ。

まったくもってお気楽な思い込みだった。

今はもう、応援する気がまったく起きなくなってしまった。テレビで彼らの声が聞こえてくるとどんよりしてしまう。人の心ってちょっとのことでこんなに変わるんだな、と今更ながらに思う。応援したかったのに、残念だ。これは私の気持ちなので、彼らには全く責任はない。誤解なきよう。そして私はいつも少数派です。

 

フェイクという言葉が広がって数年たつが、まさに、芸能界、アイドルというのは「虚」である、と今回つくづく思った。それに踊らされて、魅了されて、お金も心も奪われていく少年少女たちのことを思うと、なんともやるせない思いがしてきた。

「生きがい」は必要だ。けれども、これはまさにローマ帝国の「パンとサーカス」だ。

パンとサーカス」(Hatena Keywordより)

古代ローマ時代の詩人のユウェナリスローマ帝国の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現のこと。「パンと見世物」とも言う。権力者から無償で与えられる「パン(食糧)」と「サーカス(娯楽)」によって、ローマ市民が政治的に無関心になって為政者からすれば統治しやすいことを揶揄する言葉である。

当時も「剣闘士」にキャーキャー騒ぐご婦人方は大勢いた。今で言うところのアイドル、スターだ。 

しかし快楽は最高の喜びに達すると消えてしまう。それは広い場所を持っていないから、すなわちそこを満たすと、嫌気がさし、最初の情欲が起こった直後に死んでしまう。そして、本性が運動変化のうちにあるものは決して確かなものではない。それゆえ、瞬く間に来ては去り、自らを浪費することだけで死滅するものには、何らの実態の存することも不可能である。それは、滅びる所に向かって急ぎ、始まるときにすでに終わりを目指しているからである。

セネカ「人生の短さについて/岩波文庫」P133~134)

セネカの「幸福な人生について」の一節である。これを久々に読んだとき「虚」という言葉が浮かんだ。

この「虚」。「熱狂」という感覚を持って心奪われている状態。それがタロットカード15番「悪魔」の象徴のひとつです。「ローマ市民が政治的に無関心になって為政者からすれば統治しやすいことを揶揄する言葉である」と「パンとサーカス」が解説されていることは、世界情勢が第二次世界大戦直前の情勢に酷似しているという社会状況を踏まえる今、心に留めておきたい。

私は思っています。「快」はポジティブであり、「快楽」はネガティブである、と。

 

ルネサンス時代のユマニストたちは、新しい地図を書くために命がけだった。焚書され、処刑され、それでも改革を目指し、新しい地図を書き続けた。

 

ネットテレビもしばらくは見ないかもしれません。内容とゲストの質が安定しておらず、さらにそれへの疑問が次第に大きくなってきました。まだ思考錯誤期間なのでしょうか?

2019年2月はアパホテルだそうで……。

文筆家・古谷経衡の記事に詳しい。

アパホテル問題の核心~保守に蔓延する陰謀史観~(古谷経衡)

 「否定と肯定」という映画がある。ユダヤ人女性歴史学者と「ホロコースト」は無かったと主張する学者との法廷闘争が描かれている。

 

「純烈」のメンバーの問題もありました。新井浩文が逮捕されました(新井浩文、残念です。悪役だけではなく、ゴリラパンとか良い役いっぱいやってたのに。子どもたちに実際にゴリラパン配るイベントもありましたよね。国会がはじまってすぐの逮捕劇というタイミングは……)。エネルギーは、ネガでもポジでも呼応します。

 

ファンというのは「信者」になりやすい。私は、ファンは「信者」であってはいけないと思っている。それはファンとタレントのみならず、世の中のあらゆる関係性において、そう考える。

上記の場合は誰の意志、アイデアかは分からない。何か大きな力が働いているのかもしれないし、まったくもって無邪気からの発想なのかもしれない。が、歴史や記録の改ざん、修正というのは、よくよく立ち止まって考えなければならない重大な事柄だ。最近では統計。なんでもあり、やりたい放題は表現の自由とは違う。無邪気だとしたら、それは知性が無さすぎると言わざるを得ない。また、同調からであるのなら、同じ思想の持ち主なのだと解釈するしかない。その場合は、視聴者側としては、肯定するか否定して距離を置くか、というそこは思想の自由に委ねられる。

少なくとも、ジョン・レノンマイケル・ジャクソンが訴え続けた平和の方向とは違うように見える。

なんとなく嫌な感じ、違和感を覚えるとき、ファンはただの信者であっていいとは私は思わない。飛躍した例をあげれば、無知のリーダーやカルト教祖というのは、本人自身のパワーのみでは成り立たない。周囲の過度な盛り立て、盲目的な服従と称賛というものが作り上げてしまうものだ。これは5番「神官」カードの一側面でもあります。

いつだったか、水着の女性を鑑賞するようなコーナーがあった。企画としては「水着を」であって「それを着た女性を」ではないのだろうが、自ずと後者になってしまう、あるいは含まれる。あれ、女性ファンは楽しんで見たのでしょうか?私は嫌でした。誰のアイデアで誰へ向けての発信だったのか。女性の人権が叫ばれているなか、しかも日本は人権意識後進国と世界に見られているなか、コンテストの水着審査は廃止しよういう声も一部あがっている世相のなか、このお三方には似合わない企画だったように私は感じました。新しくもなんともなく、むしろ昭和感しかない。

カミュ「ペスト」の解説で内田樹が述べていた「身体感覚」。なんか違うとか、なんか嫌だなと感じるそれは、意外と正しいことが多い。

ファンはただの信者、取り巻きに堕してはいけないと私は思っています。そして、一定の批判精神、検討精神を常に持ち合わせていることが、本当の応援になるのではないか、と。私自身、自分が気に入って注目している役者でも、良いときは褒めるし、良くないときは批判的批評をします。特別に応援しているわけではないが例えば嵐の相葉雅紀。「貴族探偵」は酷評しました。が、「僕とシッポと神楽坂」は好評しました。

 

私のなかに去来した「虚しい」思いが、「冷めた眼」を運んできた。なんだか悲しい気もする。こういうことは「騙され続ける」ほうがきっと楽しいのである。だから「快楽」であり「虚」なのだ。けれどもそこで知性を見失ってはいけない。

十数年前に私はある出来事があって心身症状態になった。そのときの感覚が戻ってきそうだ。何とかそっちへ行かないように保っている。あれは辛いので。先ほどもう「見ない」と書いたが、見ないというより「見れない」と言ったほうが正しい。

それほど応援していたということですよ。

またどこかで気持ちが戻って来るまで……。

「復活はあります」、いや「あるかもしれません」。

 

追伸

ファンクラブに入っているのは私本人ではなく家族です。

お三方のCMや発信には心の平和をたくさんもらってきました。