ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「ホモ・デウス」(上)~次に人類は神さまになる?~人間至上主義と神性~

「神になる」とはどういうことなのか?

人類は「飢饉、疫病、戦争」をコントロールできるようになった。現代はこれら3つの要因よりも「肥満、老化、自殺」で死ぬ人間のほうが多い。

となると、人類が次に求めるものは?「不死、幸福、神性」だと著者は言う。

 

「ホモ・デウス」(上下)

ユヴァル・ノア・ハラリ/河出書房新社

 

上下巻あるが、上巻のみ読了。

前著「サピエンス全史(上下)」を読んだ。なぜ人類はこうも強欲なのかという疑問に答えてくれそうな書物だと思い、購入した。十分に答えてくれた書物だった。ゆえに、同著者の著述ということで期待した。が、書評や感想などを読むと批判的なものも目につき、わざわざ「批判的に読み解く」と銘打った新聞記事もあった。その記事では(毎日新聞1028年10月1日夕刊)、英語版を読んで「物足りなさ」を感じ、さらに日本語版を読んで「違和感」を覚えた記者が、脳科学、情報技術の専門家とともに本書を検証している。

私自身も、内容紹介などからなんとなくと言っては申し訳ないが違和感や気味の悪さを感じており、それを裏付けるような記事や感想に出会い、不死と神性を勝ち取るために今からお金をためようというコメントまで読んでしまうと、そういった即物的影響も与える書物なのだなと少しばかりぞっとして、なるほどと内容も想像できたので購入は控えることにした。

そこで図書館に予約し、今年に入ってようやく順番が回ってきた次第。折しもNHKBSスペシャルで「ホモ・デウス」のドキュメンタリーの再放送があり、ひょっとして読まなくてもこれを視聴して済ませることができるかも、と思ったが、内容はだいたい想像の範囲内だった。それでも著者の人類観察の部分まで放送では紹介されていなかったので、やはり読むしかないか、と思って読みかけの本を再び開いた。

「サピエンス全史」はすこし読むのに時間を要した記憶があるが、こちらはスラスラ読めた。著者の思考ベースに前著で慣れているせいだろうか。過去のことではななく、今を語っているからだろうか。

 

著者が辿ってくれる人類の歩んできた道のり、すなわち科学的物理的発展とそれに伴ういわゆる精神的堕落の根本的なところには、私は大変大きく頷くことができる。たぶんそうなんだろうと思う。ゆえにその堕落、腐敗をどう浄化していくのか、できるのか、そのヒントを知りたいというのが正直なところだったのだが、世間でも盛んに言われているところのAIやバイオニックによる人類の発展、超人信仰の方へどうしても人類は進んでいくであろうという予言に留まっている観を否めない。

いや、予言に留まっているのではなく、どうしてそうなるのかを事細かに過去の例をあげ連ねながらの予言的警鐘なのだろう。

 

「不死、幸福、神性」。

不老不死は大昔からの人間の願望だ。ただ叶わないだけ。

幸福もそうだ。幸福を求めない人間はいないだろう。ただそう感じることができない人々が大勢いるだけ。

でもこの二つは、科学的に叶っていくらしい。お金さえあれば。

不老不死、無病はDNAをいじることで、幸福は現実生活を謳歌するだけでは得られないかもしれないが、脳科学的にちょっと細工することで実現しそうだ。それが善なのかどうなのかは別として。

神性を獲得するとはどういうことだろう。この書物でいささか理解不能なのがこの「神性」と、もうひとつ「人間至上主義=ヒューマニズム」という概念。

私の概念が少数派なのかもしれない。

本著によると、動物よりも人間が勝っているという価値観で人類はここまで発展してきたということだ。確かにそうなのかもしれない。教科書だったか図鑑だったか、地球の生き物の頂点に人間がいるという図を幼いころに見たことがある。が、私の感覚のなかではそういった観念はほぼない。周囲の生物と比較して人間は偉いんだ、などと思ったことは、たぶんない。偉いんだと思っていてもいなくても、おそらくその感覚は常日頃わざわざ意識してはいないのだろう。友人の誰それより社内のあいつよりオレのほうが偉い、という優位主義のように意識して幸福感を味わったりはしていないはずだ。でも犬と人間とどちらを助けるかという究極の選択になったとき、私も人間を選ぶだろう。でも一方で、動物を助けるために命を落とす人もいる。それは目の前でよく見る光景ではないし、私も体験したことはないが、映画のなかだけのエピソードではないのだろうと想像できる。

ヒューマニズム」というのは、ルネサンス期で言うところの「人文主義」なので、今でいうところの「人権尊重」に近い概念だと私は理解してきた。なので私が思うところのヒューマニズムは、人間至上主義でも人間中心主義でもない。倫理学のテストでは0点かな。

 

そして、その「人間様」の上に「神様」がいるわけだ。神様は、人間を創り、世界を思うがままにできる存在。人間が神性を得るということは、自分の創造者になる、ということ。どんな人間にもなれる、デザインできる、ということ。すでに動植物には行っているが(人間至上主義だから)、それを自分にも自分の子供にもできるようになる、ということだ。著者が言っている神はギリシャ神話に出てくる人間的感情を持った神だそうだが。あれ?でもAIって感情がないのですよね。

人を助けるため、治療のために使われた技術や薬剤が、健康な人をより強靭に、優秀にするために使われるようになる、と著者は書いているが、それはその通りだろうと私も思う。すでにそれは始まっている。「バイオニックジェミー」というアメリカのテレビドラマが40年ほど前にあった。日本では「サイボーグ009」。詳しくは書かないが、彼らがどのような能力を持っているかを考えてみると分かる。

 

私が思う「神」は「愛」の代名詞だ。自分の思うがままに何でもできる、コントロールできるというのはただの優位主義で、神様のようになんでも思い通りにできるんだという願望は、私にとってはなんとも矛盾した感覚です。天使と悪魔に分けたとき、それは悪魔の側の思想のように見えます。

人のなかの「神性」とは「無償の愛」「思いやり」「優しさ」「労り」……という善なる思いで人々を包み込む性質なのではないでしょうか。

超人になればそれらはできるのでしょうか?いや、できないと私は思います。更なる欲望は尽きない、それが今の人間、人類ですから。

 

キリスト教も仏教も、もともとはカルトであって、経典や戒律は民衆を従属させるために人間がつくりだしたものだということの是非はともかくも、神様がいてもいなくても、そこにある倫理的な命令は人間が生きていくうえで大切な事々であると私は思っています。

 

もしかしたら、精神も肉体も地球人は変化していくのかもしれません。ただAIが人類を越えるというのであれば、人間の必要性はなくなるでしょう、と私は思います。

病気の心配がいらない世界は、同時にお金の心配がいらない世界でもなければならない、と私は思っています。

精神の成長、知性が伴っていない科学の発展は危険です。

権威主義、差別主義、全体主義、優位主義、競争主義、経済至上主義、疎外、見栄、卑劣、 姑息、 狡猾、抜け駆け……などなど悪徳がはびこっている世の中では、科学至上主義はいずれ破滅を招くと私は思っています。

 

著者は、NHKの番組の最後で自身の予言的書物のような世界を踏まえて「自分自身を知ること」の大切さについて話していました。おそらくは、振り回されないため、悪魔に魂を売らないため、なのだろうと私は理解しています。

人は、「こうなるよ」という予想を示されるとそうならないように行動するということなのだが、その論法でもしこの本が書かれたとしたのならそれは成功しているのだろうか。心を無くした社会のなかで優位に過ごすことのできる方法を教えていることになるので、それを実践する人は出てくる、というか、革命やテロよりも簡単な選択なので、そちらへ行く人は大勢いると予想できる。ありがとうおしえてくれて、と。

リップマンの「世論」について、以前「100分de名著(NHK)」のなかで、堤未果がこう言っていた。「これは恐ろしい本だ」と。なぜか。

ジャーナリストのバイブルともいわれるこの古典は、現代社会で起きているさまざまな現象を解き明かす題材として今も充分応用できると同時に、いわば世論操作のバイブルとして悪用もできてしまう。

 

有産階級と無産階級という2本のレールがすでに敷かれていると私は思う。有産階級のなかには親が死ぬと無産階級に陥る人たちも多いことだろう。昭和の遺産がまだ残っているうちはなんとかしがみつける。

バシャールという異星人なる存在がかつて言っていたのだが、地球人が乗っている列車はやがて2つに分かれていく、と。簡単に言うと愛や平和という穏やかな社会を望む方向と、欲望、競争、嘘、悪徳のうずまく社会。

有産階級の人間のなかにも強欲ではなく、人を助ける精神が養われている人もいる。

ユヴァル・ノア・ハラリの言うとおり、お金で「神性(何でも思い通りにできる)」を買えるとなれば(確かにそうなるのだが)、お金を持っている人はそれらを「買う」でしょう。買わないほうがおかしい。そして誰も助けない。助けるのは自分と家族だけ。あるいは、技術者の側からすれば、お金を十分に支払ってくれる人たちと権力者、支配者層を助ける。

南青山の「児童相談所建設」に反対する住民たちの言い分が明瞭に物語ってくれている。要約すれば貧乏人は来るな、ってこと。一生懸命お金をためて、きっとここまでの人生の全てを南青山に住むために使ってきたのだろう、嫌なことも我慢して勝ち取ったのだろう。そこを侵略するな、私の価値を下げるな、と。一方で、昔からの住民であろう年配者たちは、困っている子どもたちを助けてあげたい、とインタビューに答えていたので、まだ救われる。後者は心ある行為であり、有産というよりも資産家だ。豊かだ。前者はむしろ貧乏くさい。これもある種の格差なのかもしれないが、表面的にはお金のあるなしで、様々は決まる。

余談だが、内田樹が日本は貧乏ではなく貧乏くさくなった、と言っていた。

貧乏は単なる散文的事実ですから、状況が変われば変わります。貧乏くささは毒性のつよい心性で、一度罹患すると簡単には治りません。日本の危機は人々が「貧乏になった」以上に「貧乏くさくなった」ことにあります。

「困っている子どもたちを助けてあげたい」というほうが本当の「神性」なのではないか、と私は思っています。たとえ私が「神性」の概念を誤って理解していたとしても。

 

「ホモ・デウス」はいまだベストセラーのようです。

図書館でも、上巻は私のあとにまだ25人も予約がいました。下巻も予約を入れていますが、私は9人目。みなさんが順調に返却してくだされば、半年後には読めそうです。