確かにお金はいくらあっても困らないのですが、いや、お金がないと困ります。生きていけません。ごはんが食べられません。何も食べることができないと死にます。
カルロス・ゴーン。どれほどすごい方なのか私など市井に生きる者には知る由もありません。
一面的ではありますが、事件の報道を聞き知ったとき、私は思いました。
「そんなに持ってるのにまだ欲しんだ」
金持ちほどケチと言いますが、それなのでしょうか。さもしい強欲。
でもきっとこんな軽蔑すべき人々によって世の中は動かされているのでしょう、とペシミズムになるしかないのかもしれません。
この事件の真相がどうのこうの、クーデターなのか、誰それかどこかの国にやれたのか、奥のふか~い策略なのか、そんなことは分かりません。罪名がついて、何らかのお咎めがあったとしても、それが本当にそうなのかどうなのかも、庶民にも平社員にも分からないでしょう。
この人の莫大な収入も、他の同クラスの人たち、IT社長、スポーツ選手と比べれば、大したことないそうですね。上をみたらきりがないというところでしょうか。
お金に麻痺してしまうと、どれだけあっても足りなくなるとはよく言われます。宝くじの高額当選者なども、あっという間に失ってしまう人がたいはんだとか。
カルロス・ゴーンは決して裕福ではない出自だそうで、それゆえにお金への執着はすごかった、とインタビューに答えている人もいました。承認欲求も半端なかったということですから、成功したのに、トラウマから解放されていないのかな、ということも分かります。
世界のあちらこちらに所有しているという邸宅。これも分かりやすいと言えば分かりやすい場所ですね。ブラジルとレバノンにもあるということで、ご自分の故郷にとても強い思い入れがあるのですね。ある意味、縛られている典型。そしてもしかしたら力を誇示しておいて、故郷の大統領にでもなるつもりなのかしら。おそらく地元では英雄なのでしょうから。ドナルド・トランプ同様、商人よりもさらに大きな権力と支配力を持つことができます。
私は、この報道を見聞きしながら思わず知らず、お金と裕福な暮らし、ということに思いを致していました。貧乏人の負け惜しみ、と取っていただいても構いません。
今の地球で、人が生きていくのにはどれほどのお金が必要なんだろうか。
そりゃあ、貧乏より金持ちの方がいいに決まっています。何しろお金がないと、教育も受けられないし、病院へも行けません。もっと言えば、穏やかに死んでいくことすらできません。
カルロス・ゴーンとそのご家族は、私のように3000円の本を買おうかどうしようか迷わなくて済むのだろうと思うと激しく羨ましいです。
リストラと工場閉鎖。そんな手法なら俺にだってできるよ、とインタビューに答えていた男性がいました。当時、日産の工場があった地元では、商店が次々つぶれていったそうです。時代は変化します。ゆえに企業でも商店でも栄枯盛衰はいつの時代もありますから、それで恨むのは理にかなっていないかもしれませんが……。
それでも、拝金主義の社会、地球のあり方が、やっぱりおかしいと言わざるを得ない、そのようなことを思い起こさせる事件でもあります。だって、カルロス・ゴーンの莫大な所得を考えますと、その半分でもあればどれだけの社員や地元民の生活、命が助かるのでしょう。
生きて行けるだけの十分なお金があればいい、と私などは思ってしまいます。宝くじの高額当選だって、静かに暮らしていけば、働かず好きな事をして生涯暮らすことができるはずです。派手な生活よりも私はそちらを選びます。
そんなことをつらつら思っていましたら、こんなエッセイを見つけました。
古谷経衡「私とお金の話(随筆)」です。※
いつ書いたものか定かではありませんが、今まさにぴったりな内容ですし、私がつらつら思っていることともぴったりでした。
お金をしこたま持っているのに、満たされない自意識と承認欲求に飢え、つねにSNSに有名人とのツーショットをアップロードする人。いかに自分が金持ちかを顕示するために、日本の道路事情には見合わない(むしろ不便な)高級外車を持っていることや、デベロッパーから不当に高く値付けされたタワーマンションに住んでいることを自慢する人。或いは、イデオロギーの世界では「陰謀論を信じる信者、単に学力の著しく低い自営業者」等を囲い込んで月会費や寄付金を徴収し、毎月何百万円と収入を得ている人。最近観た中では、自分の後援会に数百万円を寄付すれば、当該会の終身会員になれる―という、とんでもない自称学者を名乗るAFO(アフォ)を発見した。
私は、こんな連中(銭ゲバとか、守銭奴とか、単に金持ちというだけで心が満たされない人)をもう見飽きるほど見飽きているから、お金というものは、身の丈以上には必要が無く、またその身を静謐に保持する程度(中産階級程度の生活水準を維持できる程度のモノ)だけにとどめておけば良い、というのが人生訓となっている。
さらに、金本位制とちがって今はお金というのは「紙切れ」なんだ、だから「拝金主義」ではなく「拝券主義」だ、と解説が続きます。
そして、
かつて金で買えないものはない―と豪語したIT系のCEOがいた。皮肉なことに彼は、膨大な資産を持っているにもかかわらず、その後刑務所に入らなければならなくなった。金で買えないモノはない、と豪語したのに、「刑務所行きの実刑判決を取り消す権利」までは購入できなかったのだ。誠に馬鹿馬鹿しい末路で或ると言わなければならない。
と皮肉ります。
所詮、人間は死ぬ。それが40歳か、60歳か、80歳かは分からないが死ぬ。古代エジプトでは、ファラオが死ぬと、埋葬品として沢山の金品を封入した。死後の世界でも、ファラオが贅沢な暮らしが出来るようにと思っての事である(―皮肉なことに、そのせいでファラオの墳墓は盗掘が横行した)。しかしそれは古代エジプト人による単なる信仰であり、現実には死んでも埋葬品の金品は死後の世界に持って行くことは出来ない。
現代では、しこまた貯めたお金を詐欺で失ってしまう人もいます。そして死んだあと、しこたま貯めたお金をお墓には入れてくれません。醜い相続争いが起きて奪われます。
現世で金を貯めに貯め、雪だるま式に幾ら「金」を増やしても、それを天国に持っていくことは一切出来ないのだ。それよりも、自分が死した後も、後世人の記憶に残る価値観や作品をひとつでも残したいと私は考える。肉体は死を以て腐敗し、信用紙幣もまた同じで或る。「永遠の命」があるとすれば、それは後世人の記憶の中に植え付けるほど強烈な価値観や作品を、現世で完成させる以外に無いのである。
賛同します。
古谷さんはともかくとしても、プラトンやカント、エーリッヒ・フロムらが偉大な思想を残してくれました。いや、古谷さんも応援しています。
人って、お金と権力を手に入れると、最終的にどうしても「王様」になりたくなるんですね。
トルストイの「人にはどれほどの土地がいるのか」は、もう古いカビの生えた民話、なんでしょうか。
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