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「僕らは奇跡でできている」第7話~あなたと自分のすごいところ100個言えます~居てよし!~

100個、誰かのすごいところを言う。

人って、どちらかというと注意ばかりしていたり、悪いところ、欠点ばかりを指摘してしまいがち。褒めるということは、まずしない。すごいと思っても、悔しくてなのか、貶したりしてしまう。身に覚えのある人多いのでは?いや、無自覚にしているから身に覚えはないかもしれない。が、受け身で考えるとどうでしょう?それは恨み辛みになっているかもしれません。

なぜ他人を否定するのでしょう?だってそうしないと、自分の存在意義を見失うから、です。「誰かが褒められている」ということは、イコール「自分が否定されている」と感じてしまうからです。だからそんなことをあえて自分からするはずもありません。おべっかを使うときは別です。自分の利益のためですから。思ってもいない賞賛を言ったりします。本当にそう思っていないほうが言いやすいのかもしれません。人間て、天邪鬼です。

 

「僕らは奇跡でできている」フジテレビ火曜夜9時

出演/高橋一生 榮倉奈々 他

第7話

では、人のすごいところを言いまくります。

 

人目を気にして生きている私たち。

人と違う事を言ったりやったりする息子を恥ずかしく思っている母親に向かって言う相河(高橋)のすばらしいセリフ。

(略)

僕は、子どものころ、人と同じようにできなくて、学校で先生に怒られてばかりでした。僕をバカにしたようなことを言う人たちもいて、学校は大嫌いでしたが、理科は大好きでした。

中学のとき理科クラブに入りました。あるとき理科クラブでジュウシチネンゼミ(17年蝉)の研究発表をして、みんなにすごいって言われました。先生にもほめられました。そんなことは初めてでした。すごいって言われるのが嬉しくて、もっとすごいって言われたいと思いました。すごいって言われたいから理科クラブを続けました。

<育実(榮倉)の回想「相河さんはウサギじゃないからですよ」「そうでもありません」>

僕をバカにした人たちのことも見返してやりたいとも思いました。最初は楽しかったです。でも、生き物のことだけは絶対に負けたくないって思ってるうちに、すごいことをやらなきゃって思うようになりました。そうしたら、生き物の観察が楽しくなくなりました。辛くなりました。寝るとき「イーッ」ってやっても、眠れなくなりました。

僕の祖父は、やりたいならやればいい、やらなきゃって思うならやめればいいって言いました。笑って言いました。

理科ができてもできなくても、僕は、いてもいいんだな、って思いました。

そうしたら、良く眠れるようになりました。

生き物の観察をまたやりたいって思いました。

僕は、やれないことがたくさんありましたが、今でもありますが、やりたいことがやれて、ありがたいです。

相河の少年時代の秘密の吐露。

この彼の思いの流れは置かれた状況や立場こそ違えど、登場人物たちにも、視聴者たちにも、誰にでも思い当たるものです。

公に知られたところでは、例えばユーチューバー。やりたいこと、伝えたいこと、楽しいことをしていたはずが、アクセス数とかいいねとか、収入金額とかばかりが気になって、もっとすごいこと、さらなる賞賛を求めていくうちにおかしなことをしてしまう、ついには犯罪まで犯して逮捕された人もいました。例えば、やりたいこと、好きなことをやっていたはずが、相対的な評価に晒されて嫌いになってしまう、というようなこともあるでしょう。そんな事例は、身近にも、あるいは自分自身にも、いくらでもあります。自由にやっていたはずが不自由になってしまう瞬間です。

例えば成績がいつも1番だった人が2番になっただけで(親のプレッシャーもあって)存在意義すら見失ってしまったりします。

なにもできなくても「いてもいい」。それができなくても「いてもいい」。できないことがたくさんあっても「いてもいい」。

「すいか」(2003年日本テレビのセリフを思い出します。

夏子(浅丘ルリ子)は大学教授。主人公・基子(小林聡美)は信用金庫のOL。基子の同期の馬場ちゃん(小泉今日子)が3億円を横領して逃亡中。基子は自分には何もないと将来を嘆いている。

以下のセリフのそんな女とは、彼女たちと同じ「ハピネス三茶」に住む漫画家(ともさかりえ)のこと。所持金がほとんどない。

夏子「アナタ。この世にそんな女が居るとは信じられないって思いましたね、今」

基子「はぁ」

夏子「それは違います。色々、居ていいんです」

基子「……私みたいな者も、居ていいんでしょうか?」

夏子「(ジッと見て)居てよしッ!」

 

鮫島教授(小林薫)と相河一輝の祖父(田中泯)の対話。

一輝が安心できる世界をつくったじゃないですか。

 

家とこの森だけ。ちっぽけな世界です。

 

それだけでもこの世界にいていい理由になる。

 

外に安心できる世界をつくってくれたのは鮫島先生です。

 

一輝は思っていた以上に影響力ありますよ。

 

 

相河の影響か、いいとこさがしをする学生たち。

「自分じゃなんとも思ってないことが、意外とすげぇってことあんのかもな」

言いたいこと言える自分と、言いたいこと言えない自分、どっちがありのままの自分なのか、と考える女子学生は「やっぱり言いたいこと言える自分がいい」と。

 

「水本先生のすごいところも100個言えます」と、育実のすごいところをひとつひとつあげていく相河。

そんなことは「誰でもできることなんじゃないか」と途中で遮る育実に「誰でもできることはできてもすごくないんですか?」と言う相河。次第に育実は、自分で自分のすごいところをあげていく。そして「一度も行けてない料理教室をやめます」とついに決意する。

 

人のすごいところ。

その人特有のこともあるだろうけれど、ごく普通の日常の行為だっていいわけです。普段自分がしていること。朝起きてから寝るまで。そういうことを忘れて、いや当たり前だからとうっちゃって、飛びぬけてすごいことができないと、もしくは誰かよりすごいことができないと自分はダメな人間なんだと思いがちな私たち。あるいは、人と違っていることをすると笑われるからと恥じる私たち。

 

昔々、私が中学生のとき、何の時間か忘れましたが、相手の良いところをほめる、ということをやりました。どうして急にそんなことをしたのか、学校の何らかの方針だったのか、どこかでイジメでもあったのか、それとも私のクラスだけだったのか、もしかして担任の先生がたまたまどこかでそういった授業風景を見て、じゃあうちでもやってみようとか思いついたのか、背景は全く分からないのですが、私の記憶なかでは、唐突にそれは始まって、そのシーンだけ私の記憶装置のなかに残っていて、こうした機会のあるときに出てくるのです。

それは今思い返しますと、とてもよい授業?ホームルーム?でした。

貶し合って、欠点をあげつらって笑いを取る、といった行為はよくなされていると思います。家族でも友人でも教師と生徒の間でも、お笑い番組のなかでも。褒め合う、というのはあまりしませんよね。たぶん「お笑い」の要素がそこにはないのです。人は、人をバカにして笑いたい動物なんですかね。

私が体験したその教室では、なぜか泣いてしまう人もいました。「ああ、そんなこと思ってくれてたんだ」「あ、そういう人だねあなたって」というあらためての気づきがあったからだと思います。

 

100個誰かのすごいところを言う行為は、100個自分のすごいところに自分で気づく行為でもあります。

「やりたいならやればいい、やらなきゃって思うならやめればいい」

「居てもいい安心できる世界」は、誰にでも必要です。 

7話までに張られてきた伏線が、この世界観で集束した巧みな脚本だったと思います。