ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「ナナメの夕暮れ」若林正恭~冷笑者と理解者~

「ナナメの夕暮れ」

若林正恭著 

文藝春秋

 

「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」(KADOKAWA)について書いたとき、はたして著者は、お笑い芸人としてかなり成功してそしてどう変化したのだろう、という疑問の余地を残しておきました。「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」には、共感もしましたし、彼の心の繊細さや、はたから見ればかなり面倒な奴と言われてしまいがちな探究心や批判精神は、鳴りを潜めてしまっただろうか…そんなことを思いながらこの書物を読みました。

 

結果から言いますと、何も変わっていない、というのが私の印象です。

悪い意味ではありません。金持ち面をしていたり、人や世間を見下すというネガティブ成長が見受けられるようだったら、そのときは、書評で批判、いや、落胆感を述べようと覚悟して、実はおそるおそるページを捲っていったのでした。というのも、「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」が殊の外、好著だったので。

1ページ、2ページ…1タイトル、2タイトル…と読み進めていきながら、首を傾げていました。いつしか前作同様、著者ワールドにどっぷりと浸かっていたのです。

不思議なことに若林のエッセイは、読みだすと周囲の音が耳に入ってこなくなります。文面が易しいこともあるのでしょう。加えて、著者の心根の真摯さが、読者に付かず離れずな程よい距離で語られているのです。

 

おそらく「冷笑主義」とまではいかなくとも冷笑的な人たちからすると、文字通り冷たく笑ってしまう内容なのだと思います。

熱く語らないまでも、一生懸命何かに取り組んでいる人や何かを探究し追及している人を「笑う」という「あれ」です。

 

シニシズムcynicism」
犬儒主義,冷笑主義。徳こそ唯一の善であり,幸福は欲望から自由になることによってのみ達せられると説き,学問,芸術,贅沢,快楽を軽蔑して反文化的禁欲的生活を唱えた古代ギリシアキュニコス派の立場。転じて一般に,道徳,習慣などを無視し万事に冷笑的にふるまう態度をいう。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

 

「冷笑」人をさげすんで笑うこと。あざ笑うこと。(明鏡国語辞典

日本では「冷笑」的振る舞いを「客観」とか「冷静」とか「エリート」とか解釈している人は意外と多いように思います。文句を言わない人。

問題意識を持ってする発信は、社会や人間の成長、発展にはとても大事なことのはずですが、哲学的思考力を鍛えられていない日本人は、それが苦手です。むしろ、考えさせない、発言しないようにする教育、いや躾を小学校から受けています。

哲学者向坂寛は言っています。欧米にあって日本にないもの。それはキリスト教ギリシャハイウェイ(ギリシャ哲学)。

問題意識を表明しないもうひとつの理由は、言っても誰も取り合ってくれない、冷笑される、という諦念なのではないかと思います。哲学的思考能力(癖)のある人は、おそらく全員が感じたことがあるであろう虚しい感覚です。

 

私は、この本を読みながら、こう思ってしまったのです。理解者はいるだろう、例えば、山里亮太とか。けれども、これを読んで、こいつあのときこんなこと考えてたのか、などと言って舌打ちすらするかもしれない芸人とかファンとか視聴者とか関係者らがいるのではないか、と。

 

自分も思いっきり冷笑、つまり人を見下すような思いを抱いたりしてきた、と若林は語っています。それはおそらく、自分の言動が冷笑されてきたことからくるのではないか、と思います。そう考えますと、冷笑的行為はもしかするとお互い様なのかもしれません。

自分に分からないこと、できないことは、とにかくバカにしておけば、自己防衛、自己保存ができるわけです。私は思います。「他人への関心」が思いやりに通じる、と。

分からないことは尋ねればいいし、能力的にできないのであれば尊敬すればいいし、自分がしたいのにできないこと誰かがしているのを冷笑で否定するくらいなら、自分もすればいい、のだと思います。

 

ところがこの「関心」、日本人の場合「おせっかい」「過干渉」になりがちであることが往々にしてあるようです。若林はこう言っています

やる気がなさそうに見えるか、やる気が漲っている人に説教されることが多い。

一流の人と交流しろ、

一流のものを持て、

一流のものを食べろ。

特に、バブルを引きずっているようなギラギラしたおじさんに言われることが多い。

(P32)

結婚してるの、結婚しないの、彼氏(彼女)いるの、つくらないの、子どもいるの、つくらないの?

というおせっかいを言われ続けている人も多いのでは?あるいは言っている人。

放っておいてほしい、と思ってしまった経験は誰にでもあるでしょうし、その一方で自分も思わず知らずおせっかいな言動をしているかもしれません。

何らかの配慮のための問い掛けと価値観の押し売りとは違う、という認識は必要だと思います。

 

若林の「自分探しは完結」なのかもしれませんが、それでも彼の探究心や批評検討精神が失われることはないと、今のところ、感じるので、これからも哲学の旅は続くのではないでしょうか。

 

なぜクラスで自分だけが注射を怖くて打てないのか分からない。

なぜ上司にお酌をしなければいけないのかわからない。

なぜこんなにも毎日頭が痛くなるのかわからない。

(P208)

 

なぜブラック企業が増えたのか?

なぜ格差社会になったのか?

具体的に誰のせいでそうなったのか?

(P61)

 

あれほど嫌いだったゴルフを始めたという著者。ゴルフ場をつくるということは自然を破壊していることだから、というのがゴルフ嫌いの理由だったようです。実は私も全くの同感です。

ところがはじめてみたら楽しかった、と。それで続けているそうですが、いわゆる上流社会趣味とは違うようなので、成功した芸人のお決まりパターンというわけでもなさそうです。あれこれ思いを抱きながらゴルフをする様子は、ゴルフを始める前の著者とクオリアは全く変わっていないように見えます。

 

著者はこれからも「ナナメに」人間や社会、出来事を観察し、感じ入っていくことでしょう。疑問を持ち、考え、学んでいく。そしてその「ナナメの」視線は、常に上昇していっているのではないでしょうか。そうあってほしい、といち読者として思います。

 

有名な思想家や作家でも、初期の書物のほうがレベルが高いということは、いくらでもあります。変にこなれてくるからなのか、傲慢になってしまうからなのか、商業主義に逆らえなくてなのか……

若林には、成長を期待したい…とあまり期待すると、そうでなかったときの落胆が大きくなってしまうので、ほどほどにします。いや、それほどの良きエッセイだったのです。

 

付箋を貼ったページがたくさんあります。紹介しきれません。ぜひご一読を。

折に触れて、こちらで引用させていただくこともあると思います。

 

西加奈子と会ったときに、話が通じる人がいることに感動したという著者。

“話を聞いてくれる人”というのは、理解者のことである。

人間は、人生で理解者に何人出会えるだろうか。

(P199)

 

片頭痛で頭痛外来に通っている著者は、これまでに「頭痛に効く」と言われるあらゆる方法を試してきたそうです。ゴッドハンドと言われているマッサージ師の噂を聞いて治療に行ったくだりは、スピリチュアル?も交じっていてとても愉快です。

若林さんの片頭痛が改善することをお祈りしています。