「表参道のレセブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」
第3回斎藤茂太賞受賞
新しい旅文学の誕生を感じた。
と、帯にあります。審査員の椎名誠の推薦文です。
私もまったく同じ感想を持ちました。「ruta1」を読んだあと、いいあなぁこのエッセイ、と思いながらふと本を閉じて表紙の帯を見て驚きました(rutaとは、スペイン語で「道」「旅程」という意味)。
テーマがぶれずに旅程が進んでいくので、書き下ろしということが頷けます。
ときどき単語選びや言い回しが独特だったり、情報が前後することがあって思考の流れが(読者としては)いったん止まることがありますが、それらも含めて若林エッセイなのだろうと思います。
思考の流れが止まる、と書きましたのは、これは批判ではなくむしろ褒め言葉です。この本を読みはじめると同時に著者ともに旅がはじまるので、感じたり得たりした情報が体験の道筋に沿っていないと「あれ?前に感じたよな、知ったよな、今はじめてじゃないよね」と思ってしまうからです。
そうです。著者といっしょに旅をしている感覚を「めっちゃ」味わえるのです。
ただの旅エッセイではありません。楽しかったとか、大変だったとか、美味しかったとか、観光案内とか、それだけではありません。それらも示してくれつつする「思考」の旅です。
本のタイトル「表参道のレセブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」がまさにその「思考」の所在を明瞭に表現しています。題名だけ見たときは、ながったるい題だなぁ、なんだろうこの表題、しかもキューバにひとり旅に出たエッセイなのに「表参道」って……などと「?」な気持ちを抱いていたのは正直なところです。読み終えたあとは、納得のタイトルです。
ぜひ読んで、著者といっしょに予備知識なしの旅をしていただきたいと思うので、ネタバレはあまりしたくないのですが、感想なので多少のネタバレはお許しください。あるいは、読書のあとに、またこのサイトに戻ってきてください。
若林は既に、エッセイストとして好評を得ているようですが、私は4年前に出版されたという前作は読んでいません(文庫になっているようなので買おうかしら)。この本も初版から1年以上経っています。私が購入したのは9版。重版されたばかりのようです。
「ruta1」は、4年前2014年から始まります。ニューヨークにいる著者が、タイムズスクエアのド派手な広告モニターから「夢をかなえましょう!」「常にチャレンジしましょう!」「やりがいのある仕事をしましょう!」と言われているように感じています。その「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生を楽しみましょう!」というウォール街の価値観が、「仕事で成功しないと、お金がなくて人生が楽しめません!」と翻訳されて日本にいる自分の耳に聞こえてきたのではないか、と書いています。
この疑問が、著者の旅のはじまりであったことは確かなようです。
「人見知り芸人」として有名な若林正恭が、ひとり旅を決意します。しかもキューバ。アメリカとかヨーロッパとかアジアではなく。
旅行会社では取れなかった航空チケット。ネットでさがすとたった1席みつかります。ホテルも。このシンクロニシティはキューバに呼ばれているとしか思えません。何かが動くときには、不思議なことが起きるものです。
著者は、知人に紹介してもらった東大の大学院生に家庭教師をしてもらっているそうです。カフェで、ニュースの解説や疑問の解明。
資本主義と競争社会だったり、新自由主義と格差だったりを考えつづけている著者。
ぼくは20代の頃の悩みを宇宙や生命の根源に関わる悩みだと思っていた。(略)「ちょっと待って、新自由主義に向いている奴って、競争に勝ちまくって金を稼ぎまくりたい奴だけだよね?」
(P32)
僕は家に帰って本棚から自分の著書『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込み』を取りだし「おい、お前の悩みは全部人が作ったシステムの中でのことだったぞ。残念だったな!」と言葉をかけた後、ひとつの儀式としてゴミ箱に捨てた。
(略)
他のシステムで生きている人間はどんな顔をしているんだろう?
(P33)
そして、キューバへ行くことに。
さて、空港から読者の旅もはじまります。時折の爆笑といっしょに。
著者のキューバ旅は、通訳兼ガイドを雇っています。ガイドは大事だな、と今さらですが思いました。
革命博物館。
「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのですか?あなたの今の生き方はどれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」というゲバラの名言がある。
ぼくは革命博物館で涙を流さなかったし、今の生き方も考え方も変えるつもりはなかった。だけど、ぼくはきっと命を「延ばしている」人間の目をしていて、彼らは命を「使っている」目をしていた。
それから著者は「命の使い方」を想像します。
日本で生きるぼくの命のイメージは「平均寿命まで、平均よりなるべく楽しく生きる」ことなのではないかと、そんなことを初めて考えた。いや、そうやって生きられるのは成熟した社会ならではのことで、(略)
(P74)
人間は、ついつい先延ばしにします。やりたいと思ったことがあっても、何かしらの言い訳をつくってやらない。忙しくもないのに忙しいと言ったりして。日々の生活に追われていたりします。銀行に行くことや、健康診断、夕飯の支度、掃除洗濯、犬の散歩やら何やら……。でもきっと本気でしたいことがあるなら、そんなことはうっちゃってでもやるはずだし、やりたいことをやっているがゆえに雑事など忘れてしまうかもしれません。いや、きっと時間配分をせざるを得ず、意外と様々てきぱきとできてしまったりすることでしょう。やらないのは、ただだらだらしていただけ。明日があると思っているから。
「あなたの今の生き方はどれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」とは、チェ・ゲバラの名言なのか。知りませんでした。なかなかすごい表現です。
私の生き方は、どれだけ長生きするつもりの生き方なのだろう?若いときは永遠に命が続くかのように思います。しかし光陰矢の如し。あっという間に中年になり、老年になります。その時になって初めて後悔するかもしれません。ところが21世紀の今、日本では会社の定年は延ばされ、人生100年時代とか言って、60歳などまだ若僧だくらいの社会の仕組みがつくられつつあります。そうなるともしかしたら「どのくらい生きるつもりの生き方」がただ延長されるだけ、となってしまうなんてこともあるのかもしれません。
「ただ生きること」と「よりよく生きること」はきっと違うんだ、と思います。
「生き方」は人生の長さとは関係ないのかもしれません。けれども、いくら平均寿命が延びても、戦争で死ぬことがなくても、自然災害や不慮の事故、病気、あるいは政変だって、いつやってくるか分かりません。それらもいつか克服できて不老不死なんて時代がやってきたとしたら、それはそれで別の哲学が生まれるのでしょう。
カパーニャ要塞。
一番記憶に残っているのは一匹の野良犬だった。
真っ昼間の炎天下のカパーニャ要塞、死んでいるのかように寝そべっている野良犬になぜか目を奪われた。
(略)
カパーニャ要塞内ではよく野良犬を見かけた。野良犬たちは、通りすがりの観光客に媚びてエサを貰っていた。
東京で見る、しっかりとリードにつながれた、毛がホワホワの、サングラスとファーで自分をごまかしているようなブスの飼い主に、甘えて尻尾を振っているような犬よりよっぽどかわいく見えた。
なぜだろう。
(略)
あの犬は手厚い庇護を受けていない。観光客に取り入って餌を貰っている。そして少し汚れている。だけれども、自由だ。
誰かに飼いならされるより自由と貧しさを選んでいた。ぼくの幻想だろうか?それとも、キューバだろうか?
(P77~78)
ここで本著のタイトルにある犬と出会います。
究極の選択のように聞こえなくもありません。自由だけど貧しい生活と裕福だけど不自由な生活、どっちがいい?
この本のなかで何度か出てくる「エアコンのある生活」。私も著者と同じで、エアコンのない生活は考えられません。それと上記の二者比較は同列ではないはずなのですが、エアコンの例えは、貧富の差をある種適切に表しているように思います。少し前までは、生活保護を受けている人はエアコンを持つことが許されなかったと聞いています。贅沢品なので。余談ですが、気候の変化で夏の猛暑が激しくなり、今年はエアコン設置費用を生活保護世帯に支給してくれることになったようです。
社会主義だから当たり前といっちゃ当たり前なのだが、広告の看板がない。ここで、初めて自分が広告の看板を見ることがあまり好きではないことに気づいた。東京にいると嫌というほど、広告の看板が目に入る。それを見ていると、要らないものも持っていなければいけないような気がしてくる。必要のないものも、持っていないと不幸だと言われているような気がぼくはしてしまうのだ。
(P103)
これが消費社会、消費を煽る社会です。人間の欲望を搔きたてるのが広告の仕事。私たちは、街で、テレビ、雑誌、ネットから常に毒されています。人間が無駄に消費しないと成り立たない世界を、人間はつくってしまいました。それはまた文明の発展だったわけですが、その方向性として今、地球は岐路に立たされているのかもしれません。
社会主義のキューバでは、コネがあるかどうかは結構重要なことのようだ。珍しい食材が手に入ると、コネがある順に情報が回るということもある。
昔、戦後間もない日本の闇市でも、コネがある順に仕入れたものの情報が回ってきていたという話を聞いたことがある。
資本主義では高い金を払う順になるのだろう。
どちらの良し悪しもあるけれど、資本主義で育ったぼくはお金の順の方がまだフェアなのかもなと思った。
(P116)
Love&Peaceな世界では本当はコネでもお金でもないはずなのだろう、とは思います。十分な物資があるとき、コネもお金もない人に回ってこないのは、どこかで過剰に得ている人がいるからなのだろう、と思います。
私は、コネをつくるために立ち回るのも、お金をいっぱい儲けるのもニガテなので、良いものが回ってくることもないだろうし、切羽詰まった世の中になったら最初に死ぬ部類だな、といつも思って覚悟しています。
服をつくる会社が国営というのは日本人のぼくには想像できない。いろんな服を着られる自由は、やはり人を幸せにしているのかもしれない。
(略)
「おしゃれな服を着たい」という欲求が人間にデフォルトで備わっているということを、こんなにもハッキリと実感したのは初めてのことだった。
(P122)
テレビ朝日で「しくじり先生」というバラエティ番組が放送されていました。その番組のなかで若林は委員長役でした。オリエンタルラジオの中田敦彦がマルクスを取り上げたとき、確か「服」について解説しているシーンがあったと記憶しています。人は少しずつでもおしゃれをしていきたくなる、と。それを思い出しました。
ただ、格差が広がって上位5%しか勝てないような競争は上位5%の人たちしか望んでいないのではないだろうか?
月並みな言葉だけど、バランスだよな。
(P150)
賛同します。
滞在最終日。ビーチから帰るためのバス停を探すが、見つからない。近くのホテルの人に尋ねて教えてもらったが、そこは木が一本はえているだけの場所で標識も何もない。騙されたかなと思いつつ待つこと40分。はたしてバスは来た。
バス停=標識がある、という認識も国が変われば常識ではなくなるのか。人間の固定観念って自分がイメージするより狭くて頑固なんだろうな。
(P171)
3日間のキューバ体験で、固定観念を打ち破られた著者。というよりも、自分自身がいかなる固定観念を持っているのか、常識と言われるものが常識ではない、ということに気づいた著者。異国を訪れて異文化を体験するというのはそういうことなのだと、私も深く感じ入ります。
本著最後は一転して、2016年に亡くなった父親へ思いをはせます。ここで、キューバへ行きたいと思ったひとつの、もしかしたら実は最大の理由が明かされます。
羽田へ降りる飛行機は、著者の心象風景となってしばらく空港上空を旋回し、自己との対話が続きます。
そして日本へ帰ってくると、その清潔さや便利さにほっとしながらも……
そうそう、最後の一日はひとりで過ごそうとビーチへ行った若林。ビーチへの行き方、そこでの過ごし方、さらに出くわしたトラブルとその対処の仕方に、「人見知り芸人」などと言われている彼の一本筋の通った、理不尽には決して負けない心の様相がうかがえて頼もしく感じました。
いや、「人見知り」とは、揶揄されたり、弱さを連想させたりしますが、むしろ「人見知り」の人は「強い」のかもしれません。人を無暗に頼らない、注意深い、媚を売らない、つまり自立している。
「人見知りの人」というのは、「相手のことをまず先に考える能力に異様にたけた人、人のことを思いやれることができる才能」だ、とタモリに言われた、と山里亮太が「ガイロク(街録)」(NHK2018年10月6日)という番組で話していました。
この書物、映像化してもいけるのではないか、と、ドラマフリークとしては思います。
著者の意識はどう変化しただろう。
先日(2018年10月8日)フジテレビ「ぼくらの時代」に、若林正恭は、山里亮太、西加奈子とともに出演していました。作家仲間、と言ってよいのでしょうか?
この放送のなかで若林は「ラッパーの人たちは、成功してお金持ちになってしまうとディスるということができなくなる。妬まれるから、成功すればするほど不利なんだって。俺たちだって今貯金の話されたら何もできないよ」と語っていました。
著者は今、「夢は叶えて」いるし、「やりがいのある仕事をしてお金を得て」います。
「ナナメの夕暮れ」には何が書いてあるのかな。これから読みます。
図書館で借りようと思ったらすごい予約数で、これじゃあ2年以上かかるなと思い、購入しました。