「ひとりぼっち」のことを「ぼっち」と言うらしい。特に大学で。
「孤高」とか「孤独」というのとはどうやら違うようです。
ちなみに。
「孤独」身よりなどがいなくて、ひとりであること。
「孤高」ひとり超然として高い理想と志を保つこと。
「一匹狼」仲間をつくらないで積極的に独自の行動をする人。
(明鏡国語辞典)
「孤独」というと「寂しい」感じもしますが、「ひとりでいても大丈夫」な感覚を持つことができることはとても大事なことだと私は思っています。
「孤高」は、俗世間から離れた静謐な精神と生活を思い浮かべます。高等遊民的な雰囲気もありますが、経済的ゆとりはなくとも「孤高の人」に十分なれます。
「一匹狼」は、ひとりで行動する人ですが、なぜひとりで行動するかというと、たいてい誰とも気が合わないとか、合せるのが面倒だとか、ひとりで何でもできちゃうとか、理由は様々ありそうです。
Hatena Keywordにはこうありました。
大半のぼっちはコミュ障を併発しており、人と話すことに苦手意識を持っている。
ぼっちの特徴
先生「3人組作ってー」→余る
同窓会の連絡がこない
昼休みに一人で食事をしている
声が小さい
謎な人だと思われてている
どうやら「ぼっち」という言葉は、非難的要素を多分に含んだ言葉のようです。差別でさえある。
私自身、ひとりでいること、ひとりで行動することができなかった頃がありました。「ぼっち」が恥ずかしいとか苦痛とか嫌だとかいうのではなく、単に「小心」だったのではないか、と省察しています。臆病だったのでしょう。行動的には、超ド級の方向音痴という理由があって、緊張して考えなくても目的の場所へ連れて行ってくれる存在がいてくれることがすなわち安心だったということもあるように思います。
方向音痴は治っていませんが、「群れ」と「ぼっち」とどちらがいいですかという質問があったら、今は「ぼっち」を選びます。人との健全な関係は「群れ」に発生する「同調圧力」や「序列構造」のなかで築かれるものではなく、個々人が個々人を尊重し合う「相互認識」こそが、野蛮ではない文明的で民主的な関係であると思うからです。
たとえばサバンナの泉のほとりに、たくさんの種類の動物が、おたがいに無関心な様子で同じ空間を平和に共有している姿を、テレビなどで見たことがあるでしょう。フラミンゴやシマウマが、「われ関せず」という感じで一緒に水を飲んでいたりします。あんな光景を思い浮かべると「並存性」がイメージしやすいかと思います。
(菅野仁「友だち幻想」P92)
近いイメージだと思います。
2018年10月6日毎日新聞に
論説委員野沢和弘【「ぼっち」が増えていく】というコラムがあります。
煩わしいのが嫌で周囲との関わりを避けている人もいるが、ネガティブな意味で使われるのが普通だ。「ぼっち」であることもさることながら、「ぼっち」と思われることを恐れている。
(略)
「ぼっち」を軽く考えるべきではない。孤立や疎外感は自殺やうつ、ひきこもりなどと強い関係性があるというのが定説だ。
このあと厚生労働省の調査結果をあげて日本の自殺率を示しています。
さらにこう述べて終わります。
社会的に孤立すると病気にかかる率が29%高くなるという研究結果も英国にある。孤独によるストレスや精神的苦痛が食生活の乱れや睡眠・運動不足を招き、病気を引き起こすという。
今年1月、英国のメイ政権は「孤独担当相」を設置した。国家が取り組む重要課題として位置づけたのだ。
若者の自殺率が先進国で突出している日本こそ、政府が率先して取り組むべきである。
このコラムを読んだとき、ちょっと引っかかったのが「ぼっち」のことを心配しているようでちょっと違うのかな、という感覚でした。
例えば大学で、仲間外れになっているような学生がいたらそれは可愛そうだから誰か仲間に入れてやれよ、かもしれませんし、ひとりでいると寂しいでしょう、かもしれません。余計なお世話かもしれません。「煩わしいのが嫌で周囲との関わりを避けている」人のほうが「ぼっち」には多いかもしれないからです。
「社会的な孤立」にはそれなりの問題はあるかもしれません。「孤立や疎外感は自殺やうつ、ひきこもりなどと強い関係性がある」というのもひとつの事実だと思います。「孤独」「孤高」「一匹狼」を「孤立」「疎外感」という概念に置き換えていくときそうなります。
けれども私は思うのです。「孤立」「疎外」というのは外部から仕掛けてきたり、意味づけてくる状況です。「孤独」「孤高」「一匹狼」は自ら選択しています。
「孤独」にはさらに深遠な意味もあって、大勢で群れていても、二人で親友だとつるんでいても、「孤独」は感じるものです。なぜなら、人間はひとりひとり、だからです。そこで「尊重し合う」という精神性が大事になります。個々の孤独を認め合っているところには「愛」が生まれます。
「孤独」は自発的だと上に書きました。もしかしたら「孤独」は常にここにあるもの、なのかもしれません。「人間はそもそも孤独な生き物なのだ」と作家や思想家は、多少手垢がついているかな、というくらいしばしば言います。
「孤独担当相」、行政は、物理的な福祉や支援を担当することが一番大きな役割なのだと思います。「基本的生活」というところでの社会的な孤立は死を意味します。つまり「衣食住」です。
「話し相手がほしい」という人もいるでしょうが、じゃあ「友だちつくれば」と言うのは短絡的すぎます。「孤独によるストレス」よりも「人間関係のストレス」のほうが病気になる確率が上がるはずです。
人間関係のストレスがない、好きな仕事を安堵してできる仕事場は病気と無縁だという調査結果をどこかで読んだ記憶がありますし、私自身も明確にそう考えます。
そもそも、うつで会社を辞める人はパワハラやセクハラ、イジメなど「人間関係のストレス」がおおかたの原因です。そのおかげで好きだったはずの仕事ができなくなってしまう人も少なくありません。能力もあり、資格だってあるのに。PTSDです。
「ぼっち」を気に病んで病を得たり自死を選んでしまう人には、「ぼっち」は恥ずかしいことではないのだ、ということを伝えてあげることが「孤独担当相」があるのであれば、その仕事のひとつにしてほしいと思ったりします。そこから派生して、社会の健全なあり方も見えてくるのではないでしょうか。
「ぼっち」は、決して外から無暗に「干渉」してどうこうすることではない、と私は思っています。過干渉的な煩瑣を善行として押し付けてくる性質が、日本人にはあります。それがプレッシャーとなり、ストレスとなっているのでしょう。
「ぼっち」は、否定したり、揶揄したり、つくりだすことではありません。
今はネットやテレビを通して社会の今とつながっていることができます。
承認欲求を満たそうと思いますといろいろややこしいことが起きますので、そこを乗り越えて、自己卑下的な「ぼっち」ではなく、自己肯定的な「孤独」「孤高」を腑に落としていくことが、自分自身の人生を生きる、ということにつながっていくのだろうと、じたばたしながら生きてきて後悔ばかりの私などは今、思っております。
傍から見ますと、元気で、屈託なく、交渉力が高く、友だちがいっぱいいる、と見える私らしいのですが、私もどちらかと言いますと、引きこもりタイプです。はてしなく引きこもっていることができますし、条件が許すのならばそうしていたいくらいでございます。