ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「新潮45」に思う~何が違うルネサンスと現代~良心ということ~

潮出版社の月刊誌「新潮45」にいわゆるヘイト記事を続けて掲載した新潮社、新潮45の編集長。

これに対して、作家たちが動きました。この記事への批判、執筆拒否の意思表明。

書店も動きました。新潮社の本は置かない。

読者も動きました。不買運動

新潮社内からも声は上がりました。文芸部。それを応援する他の出版社。

 

潮出版と言えば、新潮文庫。世界の文芸作品をたくさん出版してくれています。

私は中学生のとき、学校帰りに駅ビルの本屋へ立ち寄って、新潮文庫の棚を隅から隅まで眺めるのが好きでした。文化の香りとそこはかとない海外への憧れも秘めて。

中学生なので、岩波文庫には目がいかなかったのです。

 

新潮社出版部文芸@Shincho_Bungei9月19日
良心に背く出版は、殺されてもせぬ事(佐藤義亮)

佐藤義亮は、新潮社の創立者。今の社長は彼の曾孫なのですね。

 

出版業というのは、「知」の伝達をしようとする人々が、命をかけてやってきた仕事なのだろうと思います。

例えばルネサンス時代には、聖書の母国語訳や解説書が禁書になったりしました。権威者たちからすれば、庶民が知識を得ることで都合よく操れなくなりますので。庶民は、聖職者の言うことを聞いていればそれでいいのだ、と。

そのためにどれだけのユマニストたちが処刑されたことか。

当時は、「殺されても良心に忠実な書物を出版する」だったのです。

 

フランソワ一世時代のフランス。

この国王の姉で、アランソン公妃から、アランソン公死亡のあとナヴァール王妃になったマルグリットは、いわゆる新教派で、ユマニストや芸術家たちを保護していたことで有名な人物です。本人も作家活動をしており、「エプタメロン」などを執筆。ルネサンス文学として教科書にも載っています。「エプタメロン」はボッカッチョ(イタリア)の「デカメロン」に倣って書いたもので、宮廷のゴシップや宗教家と言われる人々の腐敗ぶりを皮肉を込めて描きました。

彼女の本も、当時いくつか禁書になっています。フランスカトリックの総本山であるソルボンヌから目を付けられており、彼らが一番殺したかったのはマルグリットだったに違いないと私は思っています。けれどもさすがに王姉を火刑に処すわけにはいきません。マルグリットがパリを離れている間に仲間が処刑されることもあり、彼女はどんなに悲しかったことだろうと想像します。

 

当時は、「真実」を述べ伝えようとする書物、権威を批判する書物の類い、つまり、この支配者たちのもとでは社会は悪くなるばかりだと考える学識ある人たちが書いたものが「禁書」の憂き目をみました。

日本もアメリカもまだ、権力批判図書は禁書になっていませんが、これからどうなるかは分かりません。なにしろ日本では、公平公正となどといって、メディアに圧力がかかり、忖度もなされています。

 

巷の書店には、今回の「新潮45」をはじめ多数のいわゆるヘイト本というものがあふれています。表現の自由言論の自由、なのですが、

「良心」に尋ねたとき、できるとこととできないこと、していいことといけないこと、というのはあるのだと私は思っています。

基本的な戒律「殺すなかれ」「盗むなかれ」同様。

 

哲学者マルクス・ガブリエルがこう言っています。

倫理の土台がなければ、多数決は無意味です。人々の95%が賛成したからって、ユダヤ人を殺すわけにはいかないよね。

今、日本でも、「多数決だ」とか「選挙で選ばれたんだから」とかいうことで、数があれば何をしてもいいかの如くになっています。

新潮45」の問題は、多数決の問題とは違いますが、「倫理の土台」は人間として外せない部分なのだと思います。

また、新潮社の場合は、誰の権限でこの記事掲載が認められたのか分かりません。多数決だったのか、命令だったのか。一部の人たちだったのか。いずれにしても、下の人たちではないでしょう。編集者たちは編集長の許可を仰ぐはずですよね。ですからまずは編集長だと思いますし、編集長はもしかしたら、さらに上の人間の要請を断ることができない、ということがあったのかもしれません。

 

表現の自由ということを言うのであれば、新潮社は、こういった種類の本を出す出版社になればいいのではないでしょうか。いかがわしい霊の本を無数に出しているカルト教団もあります。これも表現の自由ですから、誰もとめられないようです。

 

ずいぶん前のことですが、子どもには見せられないような本を小学館も出してるんだ、と周囲の人々が話していました。「小学館」だよ!と。

書店でも、一番目につくところにそのような本や雑誌を置いているところもありました。もちろん、編集している人は違うのでしょうが、こんな本を出しながら、同時に子どたちの心や知を育む書物をつくっている、という事実は、子育て中のお母さんたちには気持ちの悪いものであるのは確かだと思ます。

出版社の人間だったか、それに近い人だったか忘れましたが、こんな話を聞きました。出版社も文芸や学術本だけでは赤字になる、と。マンガ雑誌(当時は)や子どもたちには見せられないような本で「稼ぐ」ということでした。教養を高めるための書物はそうすることで出版し続けることができるのだ、と。

書店も、同質の問題を抱えており、そういった売れる本や雑誌を置かないとつぶれてしまう、ということでした。 

 

下劣だと分かっている人たちが大勢いる一方で、売れるということは求める人がいるということです。これをどう考えていけばいいのでしょう、とは思います。

 

要するに「商売」「金儲け」というものが関わってきたとき、物事は劣化していくようです。 

エリック ・C
理由は多分、複数あると思います。私が思うのは、財力の競争でできている社会は、地球中でどこも、みにくい場所と化していると感じます。それを薄める為に、美術館を作ったりとかいろいろな細工をする訳ですが、それも、ただの財力競争となってしまうとみにくいだけです。

 これは、東京とその住人についての発信ですが、同質のように感じます。

  

もう一度マルクス・ガブリエルの発言を聞いてみましょう。

倫理の土台がなければ、多数決は無意味です。人々の95%が賛成したからって、ユダヤ人を殺すわけにはいかないよね。

この「多数決」を「表現の自由」に置き換えることができると思います。

倫理の土台がなければ、表現、言論の自由は無意味なのだと思います。でなければ、犯罪も表現の自由だということになりかねません。

例えば少し前に問題になった「風刺画」もそうです。風刺に堪えることとそうでないことがある、と私は思っています。

 

おしどり ♀マコリーヌ
仕事や人生を人質に取られ、発言や行動できないことってとても多いけど。この方々の決断を支持します。< 新潮45の特集受け...小説家、翻訳家が執筆・刊行取りやめの意志を表明 

日本の芸能人は、仕事や人生を人質に取られています。ゆえに、政治的意思表明はタブーです。会社でもあるでしょう。この仕事を失ったら生きていけないぞ的に脅されてパワハラを受け続けている人は大勢います。不健全な世界が、ずっとずっと続いている地球です。 

作家というのは、おそらくいつの時代も、腐敗した権威と対峙する人種です。これこそが、ルネサンス時代を生きたユマニストたちの志でしょう。

ユマニストとはヒューマニズム。別の解釈もできるかもしれませんが、人権を重んじる見識ある作家、学者、芸術家たちだと私は思っています。

 

2018年5月14日毎日新聞朝刊オピニオン面で

マルクス・ガブリエルが次のように述べていました。

米国人は何でも言えることが「言論の自由」だと考えていますが、言論の自由」とは真実を言おうとする試みです。ドイツでナチスによるホロコーストユダヤ人大虐殺)を否定することが違法なように、「言論の自由」は真実より下位に置かれるべきなのです。

 

このようなツィートもありました。

KAMEI Nobutaka
今だったら明快に言える。学問、表現の自由は尊重する。しかし、特定の人びとに対する尊厳・人権否定の言説を撒き散らす自由などだれにもない。発表停止を命じてよいし、学会としても早く取り組むべきだったと思う。

これは20年前のある学会についての出来事を振り返っての発信です。

 

新潮45」は休刊するという発表がありました。雑誌のばあい、休刊というのは限りなく廃刊に近いそうです。

言論弾圧だ」と言っている人たちもいるということですが、

言論弾圧」というのは、上に書きましたルネサンス時代のような権威者による強権的行為のことを指すのだと思います。

乙武 洋匡
ちなみに、今回の休刊を受けて「言論封殺だ」と騒いでいる人々がいるが、言論封殺とは“権力の座にある者”が自分たちにとって都合の悪い言論を封殺すること。今回はそれに当たらない。下劣な記事に市井の人々が憤り、声を上げた。それを受けた新潮社が説明責任を放棄し、媒体を閉じた。それだけのこと。

 端的な説明だと思います。

 

新潮45」は、編集長が今の人になってから、掲載内容に変化が見られたということです。この人が何を考えていたのかは分かりません。

もしかしたら、発行部数が下がり続けているなか、なんとか持ち直すためにはどうしようと考えたあげくの作戦だったのかもしれません。

あるいは、問題になった掲載文と同様の思考を持っていたのかもしれません。どうしてもそこを主張したいのであれば続ければいいし、新潮社では内部的にも読者的にも認めて貰えないのであればしかたないので、別箇自分で雑誌か出版社を立ち上げるか、同質の雑誌や出版社にやとってもらえばいいのだと思います。もしくは自分で書く、とか。

 

良質の書物を丁寧につくって、決して妥協しない小さな小さな出版社で活動している人はけっこういます。

どんな組織でもそうですが、組織は大きくなればなるほど組織を維持するためのお金が必要になります。ゆえに「お金第一主義」となって、その組織をつくった当初の志はどこかへいってしまったりします。

大手の出版社や新聞社、テレビ局などは、そこにはとても立派な編集や取材のノウハウがあると聞きます。しかしそれも今、引き継がれることが少なくなってきているとも聞きます。

志も技術も見失っていくのが21世紀なのでしょうか。

 

三島邦弘社長は、2006年に「ミシマ社」を創業。

「会社大きくしない」「出版点数を多くしない」「一度発刊した本は絶版にしない」などを目標に掲げ、取次を通さず「直接取引」での書店流通を開始。

「“ひとり出版社”という働き方」(河出書房新社)97ページよりの抜粋です。

この書籍には、納得した本、どうしても世に出したい著者の本、を厳選して出版するために出版社を立ち上げた人たちのエピソードが紹介されています。

ルネサンス時代も、こんなだったんだろうな、とふと空想します。いや、こんなにスマートではないでしょうが。思想的に平和な時代ではなかったですし、庶民と貴族の暮らしはそれこそ格差社会でした。印刷技術の普及で「知」は広まっていくわけですが、それを阻止しようとする権威者たちとの間で命をかけていた良心ある書店、出版業の人々。プラトンの書物が今に伝わっているのも、こうした人々のおかげなのだと思います。

 

「アマゾン、個人出版の市場拡大へ 注文受けて印刷・製本」という報道もありました。

これからは、出版の形態も変わっていくのだろう、というのは確かなようです。

編集者も校閲者も、フリーで仕事をする人が多くなるのかもしれません。

 

ルネサンス時代と現代の「禁書」は違うようです。

民主主義の世界では、差別などの悪意のある本は、市井の人々の声で何らかの影響を与えることができます。

ルネサンス時代には、逆で、真実を伝えようとする本、腐敗を知らせようとする本は、支配者たちの権力によって禁書となり、著者まで逮捕されたり、殺されたりしました。

 

ひとつ言えることは、「差別言論」は「言論の自由」とは違う、ということです。

 

でもどうなんですかね、この休刊。

さらに大きな力が働いた可能性も無いとは言えないかも、と二重三重に背後を邪推してしまう平成最後の9月です。