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「ただ」でする仕事ってなんだろう?「ただ」でしてもらえる仕事って何だろう?①~ボランティア~

2018年8月13日

このようなツィートを見かけました。

 

kanana*violinist@kana_vn1222
「ただで弾いてくれない?」

この言葉があまり好きじゃない。だって音大で技術と精神を研き、全てを音楽に捧げた人に「ただで」って簡単に言ってほしくない。医者に「ただで診て」とは言わないのに、なぜ芸術だとボランティアになってしまうのか。音楽家は死ぬまで勉強。精神を削る命がけの仕事。

 

このところ、2020東京オリンピックでのボランティアについて、様々な意見、むしろ否定的な意見が多く飛び交っています。つまり「ただ働き」について。

 

災害ボランティアとオリンピックのボランティアは違うと思います。

 

奇しくも先日、行方不明の2歳男児を発見したスーパーボランティアの尾畠春夫さん。彼は、その男児の家族から食事やお風呂をすすめられたとき、きっぱりと断っていました。水くらいは呼ばれるけどそれ以外は頂きません、と。

これは、見事な災害ボランティア精神。「立派」という言葉の概念をテレビ画面を通して物理的に見せてもらった気がしました。

しかもそのとき、「ボランティアとはそういうものです」といったような客観的論理ではなく、「それでは私の気持ちがすまないから」と、主語が自分にありました。「謙虚」な受け答えだと思いました。全く衒ったところもなければ、教化性もなかったのです。

 

何事もそうですが、何かをするときには「プロ意識」、つまり自分がしていること、することへの「誠実な心構え」を持ち、それに基づいた「ルール」を堅持していることは、大事です。あやふやな気持ちは、逆に相手に失礼かもしれません。

あのときもし尾畠さんが、じゃあちょとだけ、などと家に入っていったら、ちょっとがっかりしたかもしれませんし、災害ボランティアをしている人たち、これからしよう、したい、と思っている人たちにも良くない例を与えてしまったことでしょう。

「災害ボランティアの自律性」に徹底しているからこそ、知る人ぞ知る「ボランティアの師匠」なので、尾畠さんに限ってそのようなことはまずありえないのでしょうが、それでも、こうしたすがすがしい姿を演出なしに知り得ることができますと、「信義」の何たるかが人の心を癒すことにもなるのではないか、と思ってやみません。

 

なぜなら最近、いや、もしかしたら大人の世界というところには常に、「裏切り」が横行しているからです。

ある感動を得たときに、いや実はこんなだよ、お金からんでんだよ、といったような事実を知ったときの人の心の落胆はけっこう大きくて、知らず知らずのうちに、いわゆる「人間性」というものが毒されていきます。それはやがて社会や国、世界を席巻し……となりつつあるのが現代かもしれません。

とはいえ、そうした内実の毒が表に見えるようになってきたということは、改革のための見えてきた道筋なのかもしれません。「それは違うでしょう」と思い、反発し、抗議することができます。

 

2020東京オリンピックのボランティアについては、脳科学者・茂木健一郎は、ボランティアという経験は尊いので学生の人たちは積極的に参画したほうがいいという積極的推進の発信をしていました。

それも一理ありますが、批判的見方をしている人たちは、集まらないボランティア、無関心の学生へ向けての募集の仕方が、なんとも先の戦争の学徒動員を彷彿とさせる、という理由が大きいようです。

確かに気味が悪いと、私も感じています。

あるいは、就職に有利だとか、学校よりもボランティア優先といったいささか歪んで見えるお祭り騒ぎ的要素も、時代錯誤の感は否めません。

パンとサーカス、なのでしょうか?

 

私はここで、そもそもボランティアとは、とか、欧米では、などとボランティアについて実証的に語ろうとしているのではありません。素直に感じていること書くだけです。

 

「やりがい搾取」という概念が、2016年のTBSテレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」でも取り上げられて、広まりました。

「やりがい」があれば、「ただ」でもいいでしょう。そう思っている雇い主は意外といるようです。マスコミ系とか大企業に多いように見受けますが、違うでしょうか?

いわゆるバブルがはじける前のような「ゆとり」が社会全体にない、ということもあるでしょうが、景気の良かったころでも、テレビ局などは「やりがい」を与えてやっているんだ的思考の人が、少なくとも私が知り得た範囲内には、いました。テレビの仕事ってすごいだろう、ということなのかもしれません。

 

一方で、私は「仕事」ということを考えたとき、「好きな事をして生活できる」ことが人間として大事だ、という思想を持っていますので、「大金」が稼げなくても、衣食住を満足させることができるのであれば、それこそ「やりがい」を感じる仕事をするほうがいいと思っています。やりたくないことを、苦痛を感じながら、パワハラやセクハラに耐えながらし続けることほど精神衛生上の害悪はありません。

「お金のため」という「やりがい」もあるかもしれません。その場合の「やりがい」は時限的目的を持った意識になるかと思います。

 

2020年東京オリンピックのボランティア募集については、「やりがい」を押し付けているように見えないでもありません。

戦中が甦るなど、二重三重の闇すら感じ、茂木健一郎のように明るく受け止めることは、私はできません。

 

少し前のことですが、会社なのか個人なのか分かりませんが、ある仕事のボランティア募集で、え?この会社(この人)、ボランティアで儲けるつもりなんだ、と反応的に感じた募集記事を見たことがありました。その内容は覚えていませんが、そのとき感じた大きな疑問ははっきりと覚えています。こんなことが上手にできる人は、ボランティアに働かせて金儲けすることができるじゃん、と。会社は社員に給料を払うのが当たり前なのに。

映画などのボランティアエキストラは容認できることもあります。

 

今地球では、お金がないと生きていけない仕組みになっています。お金を得るための手段が「仕事」です。ゆえに「仕事」には「金銭的報酬」が伴わなければなりません。なぜなら、お金がないと死んでしまうからです。

資産家には無関係な事々かもしれませんが、資産家だって好きなことはしたいだろうし、だからと言って無償で働くのも違います。

「物々交換」や「感謝報酬」の「天国」ならば「金銭」は必要ありません。それは、今となっては理想かもしれません。「お金」「物質」への「欲望は計り知れない」という思いの傾向をたいていの人が持っていると思います。「消費社会」を生み出した人々によってすっかり人間の心は蝕まれてしまいました。

欲望はさておいても、「生きる」つまり「衣食住」だけでも「お金」は必要なのです。そこに「税」もあります。

そう考えますと、商業主義になってしまったオリンピックでは、ボランティアの純粋な意義もかすむように感じます。

古代ギリシャでも、大きなお金が動き、大儲けする人が続出してオリンピック精神が歪められたのが原因で開催を中止することになった、とNHKの番組で知りました。

2020のボランティア。日当、あるいは仕事によって対価を支払うほうが、現実的であり、21世紀的だと思います。

余裕もゆとりもないし、どこぞのチャリティー番組でも、出演者にはギャラが発生しているのですから。

一年間すこしずつ貯めたお金を寄付する人。その一方で、この番組を通して大儲けしている人たちもいる。

お金を集めるための場を提供しているのだから、当たり前の報酬なのかもしれません。それが仕事だから?

でも、何かが違う「搾取」。

いやいや、あなた方庶民にやりがいを提供してあげているのですよ、でしょうか。

奉仕することが、寄付する心が尊いのです。まるでカルト宗教の論理です。

あるいは「様式」なのでしょうか。「紋切り型」かも知れません。つまり、オリンピックというスポーツ大会には「ボランティア」という存在、役割、登場人物たちが絵柄的に必要なんだ、ということ。ボランティアエキストラたちが。

 

なにはともあれ、

裏切らない尾畠春夫さんの「潔さ」は、神々しいです。

 

次回は話を冒頭に戻します。