Huluに入ってしまった。
絶対に入るまいと頑固を貫いていたのに。映画とドラマは、CAとWOWOWとアマゾンプライムビデオでそれなりに網羅できると思っていたので。
三浦春馬が主演していた「サムライ・ハイスクール」を視聴するため、である。
「サムライ・ハイスクール」2009年日本テレビ
脚本/井上由美子
毎週夜楽しみに観ていたという記憶があまりないので、再放送で観たのだろうか。いつどういったタイミングで視聴したのか、記憶が定かではない。そうなのだが、妙にこのドラマのことを覚えていて、日本テレビの朝か夕刻のニュースに出演者が出てきて番宣をしていたのもよく覚えている。
ほとんど期待もしていなかったが何気に観たところ、あれ?面白いじゃん、という感じだった。
ちょっと弱気な高校生・望月小太郎(三浦春馬)が、不思議な図書館で古文書を読んだことから戦国時代のサムライ(どうやら先祖らしい)が乗り移るようになってしまう。
いざというときにスイッチが入って、小太郎の意志とは無関係に強いサムライに変身。そして、悪をやっつけていく。
その小太郎を心配したり応援したりするクラスメイトが、中村剛(城田優)と幼馴染の永沢あい(杏)。
大きな身体なのにいつもおどおどしている中村は、小太郎が変身した姿を見てから小太郎のことを「殿」と呼んで慕うようになる。中村はおどおどはしているのだが、思考は鋭く、哲学的。その存在、演技はコメディ担当といったところだろうか。
永沢は小太郎の様子がおかしいので、多重人格じゃないかと心配して病院へいくことを勧めたりもする。
いわゆる成長物語でもある。
気弱で自己卑下の激しい小太郎が、サムライの小太郎によって、心の強い人間へと成長していく。ちょうど理不尽な理由でリストラになっていた小太郎の父親(岸谷五朗)が次の仕事を見つけていくのと同時進行で物語は進む。
毎回、中村、永沢、他の生徒たち、教師たちに起きる難問をサムライ小太郎が解決していく。
取り上げられる問題は、社会性に富んだ、メッセージ性の大きい内容となっており、2009年当時に提起されていた問題の数々は2020年になってもなにも変革できていないのだな、と今回あらためて視聴して、そう思わざるを得なかった。
ゆえに「今こそ観るべき」なのである。
ところで先日、「ジョーカー(2019年アメリカ)」を観た。ホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞に輝いた映画だ。
その放送に合わせてホアキン特集をやっていたので、録画してホアキン主演の過去の映画をいくつか観ることになった。
「ウォーク・ザ・ライン(2005年アメリカ)」、これは、カントリー・ミュージシャンであるジョニー・キャッシュの実話に基づいた物語。
なんと相手役のリース・ウィザースプーンとともに、実際に自分たちで歌ったそうだ。うまい、うますぎる。
そしてグラミー賞まで獲得している。
ホアキンがギターを持って歌う様子、そのなりきり方を観ていて、ふとこう思ってしまった。
三浦春馬にこの役できるんじゃ……。
この役そのもの、というわけではない。こういう役、ということだ。いや、もしかしたらこの役そのものでもいい。何と言うか、三浦はこういう演技のできる人だった、本気でなりきれる俳優。つくづくもったいないと思ってしまうが、もう致し方ない。
ちょっと横道にそれるが、奇妙なシンクロにいささか鳥肌が立った。
「ウォーク・ザ・ライン」の主人公ジョニー・キャッシュ(ホアキン・フェニックス)は、幼い頃、兄を作業場の事故で亡くしている。そして父親は、出来のいい兄の死を受けとめられず、ジョニーは自分が死ねばよかったんだという思いを抱えながら生きている。
ホアキン・フェニックスの兄リヴァー・フェニックスは、薬物中毒で死んでいる。23歳という若さだった。アカデミー賞の授賞式では、リヴァーの言葉を披露している。
「愛をもって救済に走れば、平和が追ってくる」
そのリヴァーが出演した超有名映画作品と言えばスティーヴン・キング原作の「スタンド・バイ・ミー」。弱気な主人公を励ます、利発な少年役。主演のウィル・ウィートンをたぶん食っていた。ウィル・ウィートンはこの翌年から「スター・トレック」にクルーとして出演したので、私にはウィル・ウィートンは馴染みが深い。余談だが、現在の彼は幼い頃の美少年ぶりが見る影もなくなっており、「クリミナル・マインド」の犯人役ではまったく気づかなかった。え?どこに出てるの?と。そのくらいの変貌。「ブラックリスト」レイモンド・レディントン役のジェイムズ・スペイダーも、若い頃と現在の差が激しすぎて興味深い。
閑話休題、
「スタンド・バイ・ミー」は、作家になった主人公ゴーディ(ウィル・ウィートン)が、作家になれるよと自分を励ましてくれたよき理解者だったクリス(リヴァー・フェニックス)の死亡記事を読む場面から始まる。クリスは弁護士になっていた。持ち前の正義感からレストランで揉めていた客2人の仲裁に入ったところ、客に刺されて死亡したのだった。
主人公ゴーディの兄は事故で死んでいる。両親は出来のよい兄のことが忘れられず、ゴーディに冷たい。ゆえにゴーディは劣等感を抱いて生きている。
情報が多すぎて霞んでしまったかもしれないが、すなわち、ホアキン演ずるジョニーの境遇と、ホアキン自身の境遇と、ホアキンの兄リヴァーが演じたクリスが励まし続けたゴーディの境遇が似ている、というシンクロである。
よくある話と言われればそれまでなのだが。
さて「サムライ・ハイスクール」。
三浦の サムライの演技が猛烈に凄まじいのである。
弱気な高校生とサムライを演じ分けるすごさも必見だが、サムライになったときの目力のすごさ、立ち居振る舞い、殺陣(たて)の姿勢の完璧さ。
彼の死後、様々な関係者が語っていた努力家という言葉の真実を見せつけられたような気がした。やっぱり本当だったんだ、と思わず知らず唸ってしまった。
ここまでできるって。しかもこのときはまだ19歳くらいか?チャラチャラしたい年頃だと思うし、むしろゆるゆるの若い俳優も多いなか、ストイックだったのだろうというのは想像できるし、十分に理解できた。そういうのもあって、ホアキン・フェニックスから連想してしまったのかもしれない。
先日読んだ本のなかに次のような一節があった。
「パンデミックの文明論」文春新書
日本では強烈な自己主張とかは絶対タブーだし、群れにおいては生きてないみたいにしているほうが生き延びられるって話、中野さん、してらっしゃいましたね。
中野
空気になるっていうやつですね。
(P136)
このあと中野の「カラハリ砂漠の狩猟民族が成果を自慢したら次の狩りのときに自分が狙われてしまう」という文化人類学研究の話と、ヤマザキの「学校のテストでうっかり良い点数を取ったりすると村八分になる」という体験談が続く。
もはや共有できるものが無いと分かった瞬間に、排除扱いになっちゃうんですね。
中野
中途半端に仲間でいると、すごく辛いものがありますよね。
(P137)
上記もそうだが、次のレオナルド・ダ・ヴィンチについての話も、ふと三浦春馬を連想させる。
そういう特殊な人間は日本であればきっとつぶされるけど、あの当時のイタリアでは珍重された。
でもレオナルド自身は、そこまで幸せを謳歌していたわけでもなくて、人間関係にもお金にも困っていたようです。
フィレンツェでは地元のメディチに愛でられているような同業者たちとは波長が合わず、居心地の悪さと違和感が募り、ミラノに移ってしまった。そもそも群れになじむのが苦手な人だったんですよ、レオナルドは。
(略)
レオナルドはボッティチェリのようにメディチと親しくなれなかった。というか、メディチがレオナルドの才能をそこまで称賛していなかった。私生児、ということも無関係ではありませんが、人間よりも動植物の方が面白いと思っていたような人ですから、嫌な相手に自分を偽ってでも溶け込みたいとは思っていなかったでしょうし、だからフィレンツェのような狭いコミュニティでは限界を感じるでしょうね。
(P177〜178)
こじつけと言われればそれまでだが、私のなかでは意味のある偶然、シンクロニシティだった。
せっかくなのでもうひとつ、意味のある偶然をご紹介してこの記事を終わりたいと思う。これはまさにこの記事を書いている最中に読んだ書物である。
「サコ学長、日本を語る」ウスビ・サコ著 朝日新聞出版
ウサビ・サコは京都精華大学の学長。マリ共和国出身。なぜアフリカの人が日本の大学の学長に?と思われた方は、その経緯も含めて、日本と日本人を客観視する視点を与えてくれる大変面白く為になる本なのでぜひご一読を。
ちなみに解説は内田樹、必読!
京都精華大学はユニークな大学だと思う。サコ学長の前の学長は漫画家の竹宮恵子だった。「風と木の詩」夢中になって読んだなぁ。
第6章「ここが変だよ、日本の学び―サコ、教育を斬る―」の「若者を自殺に追い込む日本」のなかの一節。少し長いが引用する。
(略)
自殺する人たちに問題があるのではなく、社会の側に問題があるのではないのかと思えてくる。
問題は二つあると考えている。
一つは、「均一にならなければダメ」という日本社会の空気が、個人を追い込んでしまっていることだ。
(略)
もう一つは、日本の教育内容や教育システムのおかしさである。私から見た日本の教育はいわば、「今の社会システムや社会構造を維持したい」という中高年の思いに、子どもや学生、若者が巻き込まれている状態、である。
(略)
死という選択をしてしまう人たちの背景をじっくり見つめ、それでもなお、「自殺は本人たちの責任だ」と言えるだろうか。
日本では、パターン化されているものに当てはまらないことを「悪い」と捉える価値観が正当化されているように思う。
そんな社会では、パターン化されているものに合わない人は、「自分は生きる権利もない」と思い、追い込まれていくのが自然だ。言いかえれば、社会が追い込んでいく。そういう側面があるはずだ。
命を絶つ前に、その人は誰かと話をする場がなかったのか、ということも考えてみた。
だが、おそらく、今の社会構造の中でどこかに相談してみても、最終的には「お前もっと頑張れ」と言われる羽目になるだろう。「引きこもっていないで、とにかく社会に出てみたら?」とか何とか言われるのかもしれない。
社会が悪いのに、その社会に出ろとは、どういうことやねん!と言いたくなる。
みんながパターン化された思考で、社会構造が今のままで変わらない限りは、悩んでいる人たちが自分の状況を改善するのは難しい。
おそらく徐々に、これから十年、二十年かけて、「今までのレール型の社会が必ずしもいい社会とは思えない」という意識も出てくるだろう。それが定着するのを待つしかないのかもしれない。
(P149〜152)
ヤマザキマリ、中野信子、サコ学長の言っていることは、通底している。
「サムライ・ハイスクール」は、日本の高校を舞台にしたいわゆる青春学園ドラマ。そして、冒頭にも書いたが、社会性がある。教育や学校、社会のあり方、翻弄されたり悩んだりする生徒たちの姿が大げさに、コメディタッチで描かれているが、しっかり風刺が効いている。
それをサムライ小太郎が正論をぶちかましながらバッサバッサと斬っていく。
ぜひ、追悼の気持ちも込めてご覧になってみてください。
全9話それぞれに正義感あふれる気の利いたセリフがあるので、それは実際に視聴してご確認いただきたい。
私は、三浦春馬が残してくれた日本へのメッセージだと、極めて身勝手でえこひいきな視線で、そう思った次第である。
こちらもよかったら。
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